日: 2012年7月31日

「階段橋」から安土城天主の階ごとの性格は推理できるか



「階段橋」から安土城天主の階ごとの性格は推理できるか

前回イラストにもちょっと描き込みましたように、安土城天主と伝本丸や伝二ノ丸などの間には、廊下橋の類がタコ足のように伸びていただろうと、かねてから当ブログで申し上げて来ました。

ただ、その「仮称」については、記事の中で色々と混乱がありました。

と申しますのも、ずっと以前の記事では、伝二ノ丸を「表御殿」跡地とする先生方の指摘に準じておりまして、その後、伝二ノ丸はむしろ「奥」にあたる後宮や庭園があった曲輪ではないのか… と考えを改めて、記事づくりや作図を行って来た経緯があるからです。

図右側の伝二ノ丸を「表御殿」跡地としていた頃の作図

(※当図は上が南/→該当記事1 記事2 記事3

織田信長が銭を投げた話から推理した、主郭部の使い分け/伝二ノ丸は「奥」にあたる

※当図は上が北/御殿の配置は当時の諸説を勘案したもの/→該当記事

このような試行錯誤を経て来たため、このあたりで、「廊下橋」の混乱した仮称だけでも整理して訂正させていただこうと思うのです。

先ほどご覧いただいた図

↓    ↓    ↓
今回の訂正版

まず用語についてですが、ご覧のような廊下橋の類は、一般に渡廊(わたろう)とか登廊(のぼりろう)、登渡廊、廊橋、また名古屋城では引橋、盛岡城では百足橋(むかでばし)、御所では長橋廊など、細かな違いや場所によって様々な呼び方があるようです。

以前の作図ではそれらの違いが整理されておらず、例えば冒頭の伝二ノ丸「表御殿」説を取り入れながらも、その一方で、伝本丸との廊下橋を「長橋廊」としていて、こちらは滋賀県安土城郭調査研究所が発表した「伝本丸の建物≒清涼殿」説に寄りかかっている、という調子でした。

そこで今回、これらの矛盾点を猛反省しまして、上の2図のごとく、ごく単純に「階段橋」(または屋根付き階段橋)という呼び方で統一させていただくことに致します。
 
 
 
<階段橋から推理する安土城天主――二重目は「政庁」か「常御所」か>
 
 
 
この仮説の階段橋には、それぞれに役割があったはずで、それらは天主の階ごとの性格に大きく関わっていたことにもなるでしょう。

ところが現在、「天主は信長が創案した立体的御殿」(三浦正幸監修『すぐわかる日本の城』2009年)と言われるものの、それを安土城天主について1975年の時点で「居住空間の垂直構成」(『国華』)と書いた内藤昌先生と、その翌々年に猛烈な反論を行った宮上茂隆先生の間で、すでに階ごとの解釈がそうとうに違っていて、以来、結論めいた解釈はいまだに現れていない様子です。

内藤vs宮上 両先生の解釈(階ごとの主な使用目的)

このような状況ですと、例えば当ブログ仮説の「階段橋」が設けられた階と、各々につながる先(曲輪)との関係を追究して行きますと、ひょっとして新たな参考点が見えて来るのかもしれません。

で、早速、二重目からご覧いただきますと…

以前の作図(静嘉堂文庫蔵『天守指図』二重目をもとに作成)

(※白字は『安土日記』にある部屋の記述から/→以前の記事
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階段橋を描き加えた今回の訂正版

ご覧の両図の違い(訂正点)はかなり見づらくて恐縮ですので、「階段橋」以外の訂正を箇条書きしますと…

【訂正点1】
六畳敷の「食器部屋」が中二階の形で二部屋、八畳敷の「御膳をこしらえ申す所」二部屋の真上に設けられていて、そこには二部屋の中間の階段で廊下側から上がる形であったと考えた点です。
これは以前の作図で八畳敷二部屋の納まりが悪かった欠点を解消しつつ、天主東階段橋の意味(図左下/台所との接続)を重視したものです。

【訂正点2】
その天主東階段橋は「台所との接続」「馬屋との接続」「石蔵入口から北の土蔵への搬入路の確保」という三つの機能を、立体的にこなす巧みな構造だったと考えた点です。

これはより広い図でご覧いただきますと…

このように天主二重目には、『天守指図』の描線から考えて、伝本丸の建物とつなぐ南階段橋(言わば正面口)と、天主取付台とつなぐ東階段橋(台所口もしくは馬屋口)の二つが設けられたのではないでしょうか?
 
 
そして「台所」の位置は、前々回の「内玄関」仮説と、前回の「主郭部の時期差」仮説を踏まえますと、主郭部の完成時期には(伝承の場所ではなくて)新たに伝三ノ丸の北半分、つまり「内玄関」の奥の遠侍等の北側に移されたと考えるのが、<雁行する城郭御殿>の他の事例から見て、ごくごく順当な配置だろうという想定に基づいています。

この場合、台所でつくられた料理は、伝三ノ丸と天主取付台の間の廊下橋(櫓門)を渡り、天主取付台を行く廊下が馬屋の上に階段状に上がって、やがて天主側に直角に向きを変えて天主二重目に入ると、前述の八畳二間「御膳を拵え申す所」で最終的に膳をととのえ、毒見をした上で、奥の信長らの前に並んだのでしょう。

台所の位置は? 前々回の図との合成で見ますと…(※当図は上が南になっています!)

(※ちなみにこの話は「時期差」の当初の状態では、「馬屋」は図の位置ではなく、逆に「台所」は伝承どおりの場所にあって、東階段橋は料理の運搬専用だった可能性も含んでおります)

さて、こうした天主二重目の性格については、先程の表のとおり「(遠侍・式台など)内・外臣の控えの間および政庁であった」(内藤)という政庁説と、「南西部の六間×七間の区画は明らかに信長の常御所に当たる」(宮上)という常御所(居住空間)説が真っ向から対立して、結論の出ない状況がずっと続いて来ています。
 
 
そこで、この階段橋の仮説から申し上げられそうなことは、少なくとも「台所」は天主の外にアウトソーシングされていたはずだろうという点でして、その結果、宮上説の地階(一重目)の「台所と蔵」という考え方には、ちょっと賛同できそうにないのです。

なお二重目については、まだどちらとも申し上げにくい印象です。

 
 
<性格がガラリと変わる、三重目と伝二ノ丸をつなぐ西階段橋>
 
 

今回の訂正版(『天守指図』三重目をもとに作成/訂正は階段橋の仮称のみ

(※白字は『信長記』『信長公記』類の部屋の記述から/→以前の記事

もう一つの階段橋、西階段橋があったと思われる三重目は、運良く(?)内藤先生や宮上先生をはじめ、諸先生方がほぼ一致して「対面所」の機能と考えて来られた階です。
 
 
そして西階段橋のつながる伝二ノ丸が、冒頭で申し上げたように「表御殿」ではなく、「奥」の後宮や庭園であったとしますと、この階段橋はちょうど、後の江戸城の中奥御座所から(御休息の間を経て)大奥に向かう「御鈴廊下(おすずろうか)」のようにも感じられます。

(※ちなみに「中奥御座所」は将軍の謁見所としては最高位の部屋だそうで、狩野探幽の描いた聖賢の図などがあり、天主三重目の機能を「対面所」とする見方とも合致しそうです…)

したがって以前の記事(仮称「表御殿連絡橋」は信長登場の花道か)では、この階段橋を、信長が居住空間の天主から伝二ノ丸「表御殿」に姿をあらわす “花道?” と想像したのに対して、まるで逆の方向になってしまうわけで、信長はこれを使って「対面所」と「奥」を行き来していたことになります。

こうなりますと俄然、その上の四重目を「信長常住の部屋」と見るか「会所」と見るかが、最大の難所になって来るのでしょう。

例えば、あの『朝日百科 安土城の中の「天下」 襖絵を読む』(執筆:大西廣 太田昌子)は「会所」説に軍配を上げておられ、その一方で、千田嘉博先生は「山上御殿での会所機能は、岐阜城ではいちじるしく低下して」(『戦国の城を歩く』)いたと指摘されていて、そういう意味では、むしろ「会所」機能の否定こそが、安土城天主にとっては必須の条件だったようにも思われてなりません。

(=安土城天主で貴賎同座の宴会など、もってのほか、という意味で…)
 
 
やはり四重目は超難解、という印象でして、それにしても、このようにして階段橋を考えることで、いきおい天主と周囲の曲輪との “関係性” に関心が向くわけです。

―――で、ここで見逃せない重大なポイントは、前述の内藤先生も宮上先生も、建築史家としての領分のせいか、天主以外の主郭部の曲輪の使われ方については、ほとんど何も発言して来られなかった、という意外な側面でしょう。

これは特に当サイトの立場としましては、天守の発祥について <天守は織豊系城郭の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に誕生したはず> と何度も申し上げて来た基本的な考え方からしますと、本当に見逃せないポイントです。

ですから、今後さらに安土城天主の階ごとの解釈を進めるためには、天主と周囲との連動や齟齬(そご)に目を向けていく必要があるのではないか―――

いえ、もっとストレートに申し上げるならば、天主に込めた信長の構想と、実際の安土城天主の使われ方の間にも、例の「時期差」問題が影を落としていたのではあるまいか… という疑念がここで生じるのです。

構想段階と完成後で、もし天主の側が不変のままだったら、そこには当然「齟齬」が…

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