日: 2017年12月14日

これぞ幻の「小傳主」か――『武徳編年集成』の大胆な読み直し

<<<当ブログの引越しのお知らせ>>>

はじめにお知らせですが、当ブログが利用中のブログ・サービス「のブログ」が、来年の正月31日をもって終了することになり、現在、当ブログは引越し先を選定中です。

現状と似た形のブログ・サービスに引っ越すか、独自サイトを作りたいと考えておりますが、確定した引越し先については、追って、お知らせいたします。そのうえで正月31日までは同時並行で記事をアップし続ける予定です。

私のブログ活動は、気分としてはまだ「折り返し点」にも達していない感覚ですが、一方、懸案の新「年度リポート」はまたもや年越しが確実な情勢でありまして、おそらくは私自身の生活環境を整えながら、体勢を立てなおす必要がありそうです。―――…
 
 
これぞ幻の「小傳主」か――『武徳編年集成』の大胆な読み直し

さて、それでは前回に予告した『武徳編年集成』の、ちょっと変わった駿府城天守の記録について申し上げて行きますと、まず『武徳編年集成』というのは、江戸中期の幕臣で歴史考証学者の木村高敦(たかあつ)が編さんして、八代将軍・徳川吉宗に献上された、徳川家康の一代記になります。


(※ご覧の表紙は国文学研究資料館の電子図書館からの引用)

ですが、その成り立ちを申せば、高敦の実父・根岸直利が、家康の四つの合戦(姉川・三方ヶ原・長篠・小牧長久手)をまとめた『四戦紀聞』…これにはなんと桶狭間合戦の驚愕の秘史(→実は織田信長の裏切り・不意打ちだった!!)が盛り込まれていて密かに話題の……あの書物を踏まえて、それらを実子の高敦が校訂しつつ出来上がったものと言われています。

その注目の駿府城天守の記録は、おそらく行や文字の「配置」が重要な意味を持っているようであり、そのためブログの本文として書き写しが出来ませんので、ここでは木活字版(拙修斎叢書/天保年間)の巻54、慶長13年8月の注目の部分を、上下欄を合成した写真でご覧いただきますと…

拙修斎叢書『武徳編年集成』 駿府城天守のくだり

(※同じ箇所の別本=寛保2年版を、国文研の電子図書館でもご覧になれます)

ご覧のように記録文の前半は、8月20日に駿府城天守の上棟式が行われて云々…という、『当代記』などと同様の記事が転載されています。

しかし、その後に続く七階分の各階の寸法は『当代記』とはずいぶんと違っておりまして、しかも七階分の屋根は「皆白鑞(はくろう)ナリ」「右同断」と全部が白鑞葺きかと思えば、逆に「惣銅瓦」とも書いてあり、最後は「一重目ヨリ六重目迄 皆四方ニ欄干有之」!? という風に、上から下まで欄干づくしの外観であったかのような不思議な記録になっているのです。

これは『当代記』『慶長政事録』『創業記考異』といった駿府城天守の記録文が、多少の誤差はあっても、どれもほぼ同じ内容を踏襲しているのに対して、この『武徳編年集成』だけがきわだって特異な?情報を含んでいることになり、何が原因なのかと興味をそそられます。

――― そこで、かくのごとき問題を考える上で、第一に注目すべき点は、「上一重」という古い呼び方で、この天守の最上階が示された点ではないでしょうか。

このように天守の最上階を「上一重」と呼び、上から下の階へと「重数」を数えていくやり方と言えば、皆様ご存じのとおり、織田信長の安土城天主を伝えた文献記録のうち、最も古い原典とされる『安土日記』が、まったく同じ書き方であることに思い至らずにはいられません。

奇(く)しくも安土城天主も同じ七階建てでしたが、信長はその最上階をとりわけ重視し、障壁画は狩野永徳一人に命じて描かせ、そこを「上一重」と記録させたわけですが、そんな記録のやり方を『武徳編年集成』は踏襲しているのです。

このことは『武徳編年集成』の特異な情報の出どころについて、何らかの手がかりを残している、とも考えてよいのではないでしょうか。

それでは、ひとまず「上一重」以下の各階の寸法を、上記の木活字版にあるままの状態で図示してみますと…

このままの状態では、上から順にご覧になっても、下からご覧になっても、逓減(ていげん)の仕方にこれといった法則性が無いことは明らかですが、あえてその原因を挙げれば、「三重目」の9間×6間が上下階との連続性(一貫性)を欠いていることや、「六重目」と「七重目」の間の「同上」という言葉の解釈に苦慮してしまうことにあるでしょう。

そこで前述の <※同じ箇所の別本を、国文研の電子図書館でもご覧になれます> をもう一度、確認のためご覧いただくと、こちらの山内文庫(高知県)所蔵本=寛保2年版ではなんと、「六重目」は「十間 十二間」であり、「七重目」は「右同断」となっていて、こちらには「同上」という言葉がそもそも使われておりません。

となると、木活字版の「同上」はどこから来たのか? という問題が発生してしまうものの、ここはとりあえず寛保2年版の方に従いまして…

さらにもう一つの「原因」の、「三重目」の9間×6間が上下階との連続性(一貫性)を欠いている点に注目しますと、これまで駿府城天守の「小さなコロンブスの卵」という仮説を申し上げてきた当サイトとしては、それの応用を考えてみたいのです。

すなわち、上下階との連続性(一貫性)を欠いている「三重目」の9間×6間は、ご覧のように方角を90度変えれば、妙に長い「9間」がちょうど、下階「四重目」の、駿府城天守らしい雨戸と欄干がめぐっていた(とも考えられる)階と、ぴったりと符合することに気づくのです。

で、そうしますと、先ほど問題視された木活字版の「同上」についても、実はそれなりの(従来の解釈とは異なる)意味を持っていたとも思われ…

かくして、雨戸と欄干のめぐる階が上下に繰り返されて、前述の「一重目ヨリ六重目迄 皆四方ニ欄干有之」といった不思議な描写が(いくぶん誇張して)生まれたとも考えられ、しかも「一重目ヨリ六重目迄…」という風に「七重目」をはずしてある点も注目されますし、さらに申しますと、以上のごとき考え方の最も重要なポイントは、こうした構造の天守に「屋根」をかけるとどうなるのか? という問いに他なりません。

…… ちょっと結論を急いだ感もあるかもしれませんが、特異な『武徳編年集成』の記述を読み解くと、巨大な「三重天守」が出現してくる、という予想外の結論に至ることが可能なのです。

(※2021年5月9日追記:上記「結論」画像の 改訂版も作成しております ので、合わせてご参照下さい)

これは、前述の「上一重」という古い呼び方を踏まえるなら、記録文の前半の慶長13年の再建天守(=慶長12年末の本丸火災後の再建天守)に先んじた建物の情報がまぎれ込んだものではないのか?…という気もして来ますし、もしそうだとすれば、それはおそらく中村一氏や内藤信成の時代の天守ではなくて、もっと古い、天正年間の徳川家康自身の「小傳主」(家忠日記より)ではないのか? という気がしてならないのですが、いかがでしょうか。…

 

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