佐賀城天守も?徳川家康の(初重が書院造りの)駿府城天守をモチーフにしていたのか

China’s hidden corona deaths are 5 million ?
えっ………中国の隠蔽(いんぺい)コロナ死亡者が500万(463万)人 ! ? アメリカが累計で58万人余なので8倍、世界でも333万人余なので1.4倍という、驚きの膨大な「謎の死亡者」が、中国の統計の 闇の中 にいた。


Yang Jiechi: The U.S. has no right to speak condescendingly to China.

(JBpress/福島香織 <中国人口データに上乗せ疑惑、「本当はすでに減少期」との見方も> より)
…… さらにおかしいのは、当局が発表した人口純増加データによれば、2020年の死者数は1461万人と、2019年の998万人より500万人近く多い。この死者数の増え方は改革開放以来の最高記録を更新している。まさか、新型コロナ肺炎による公表されていない死者があるのか? …
(※上記写真は米中会談で「アメリカは高いところから中国にものを言う資格はない」と言い放った楊潔篪(よう けっち)。愛国虚言の典型であろう)

※           ※           ※
 

で、またもや【前々回記事のラストの部分】から。
そこで思わず、水戸城「御三階」の容姿には、かなり思い切った「モチーフ」があったのではないかと、私なんぞは邪推するわけでして。…



(水戸城「御三階」の古写真より)

 
(続く)

――― という風に、前々回の記事から、水戸城「御三階」の独特のプロポーションは、伝承にある姫路城天守ではなくて、もっと <別の天守> をモチーフにしていたのでは? との勝手な邪推(…駿府城天守か)をにおわせたまま、長々と引っ張って来てしまいました。

で、その時、私が「続き」として付け加えたかった事柄は、実は 佐賀城 の一件でありまして…

佐賀新聞<平成 この日、>佐賀城天守の存在裏付け=平成23年11月8日より)


ご覧の天守台上の発掘成果を受けて / 6年前の当ブログ記事より
<佐賀城天守も天守台上に「空地」がめぐっていたのでは? という
心に消えない疑問… >

ご承知のとおり 上記写真の発掘調査では、おなじみの三浦正幸先生が、佐賀城天守は一階が二重の武者走りに囲まれ、その内部は「豪華な書院造り」であった と結論づけましたが、ご覧の当ブログ図解は、そんな三浦先生らの結論に対しまして、率直なギモンを申し上げるために(→ 武者走りは一重だったのでは?)私が勝手に公表資料の平面図を使って作成したものでした。

(※佐賀市PDF「佐賀城天守台発掘調査」より)

(佐賀新聞 2013年01月07日付より)

佐賀城天守台跡(佐賀市城内)を調査した城郭研究の第一人者で広島大学大学院の三浦正幸教授(文化財学)は、天守1階部分が「武者走(むしゃばし)り」と呼ばれる廊下が 部屋を二重に囲み、内側には広い縁側が付いていた可能性があるとの研究をまとめた。三浦教授は内部構造について「豪華な書院造りだった」とみており…
(中略)
武者走りは幅1.5間(約2.7メートル)で、籠城の際に兵が動きやすいように二重になっており、さらに外周側と内周側との境には、上層の階を強固に支えた柱があったと推測。
また、部屋の両側には幅1間(約1.8メートル)の広縁があり、2.5間幅の部屋など「半間」という寸法が多用されているとみて、「部屋に床の間や違い棚を設けた書院造り」と結論付けた。

 
 
【報道文のご参考に】 ためしに礎石の位置を 赤・青・緑・紫 の補助線で示してみれば、その位置に数多くの「半間」が含まれた配置であることが如実に分かります。



という報道があった佐賀城天守なのですが、かの鍋島直茂 が、佐賀城(佐賀龍造寺城)の本丸改修のおりに、小倉城天守の絵図を参照しながら、四重五階建てで建造したものと言われております。

高傳寺蔵「鍋島直茂肖像」江戸初期

(『直茂公譜考補』第十巻より)

一 慶長六年辛丑ノ春、直茂公安堵ノ御封印御頂戴、御領知三十五万七千余石御相続、
  公六十四歳ノ御時也、

(中略)
一 同八年癸卯、於駿府 家康公ヘ御拝謁アル、
    公ヘ家康公ヨリ 御用ノ由ニテ 被為召ニ付、早速御越アル、…

慶長8年、鍋島直茂は(内藤信成時代の!)駿府城で徳川家康と「御用ノ由ニテ」会見していて、この時、家康は自らの手前で直茂に茶をふるまい、龍造寺家の跡を受けて立藩する直茂の立場を理解しつつも「油断仕間敷(ゆだん つかまつる まじく)」と言いふくめたようで、その6年後には…

(同じく『直茂公譜考補』第十巻より)

一 同十四年己酉、天守御成就、今年日本国中ノ天守数二十五立、

との有名な一文で、佐賀城天守が完成したと分かるのですが、発掘された礎石の大きさからして、そうとうな規模の天守と思われますし、そのうえ三浦先生らの調査で「初重が書院造り」と判明したことは、ますます重要なポイントになって来ているようです。 何故なら…

(佐賀市HP「佐賀城だより 第2号」より)

例えば、盛んに言われる <現存の天守台・付櫓台の登り口が、本丸御殿側ではなくて、鍋島一族や重臣屋敷の三の丸・西の丸側を向いている不思議さ!> については、そこが脱出口だから、とも考えられましょうが、いま私なんぞが(上記の佐賀市HPの、絵図の本来の上下を逆さにして、三の丸側から眺めた状態にした)佐嘉小城内絵図を見て感じますのは…

もしも 天守と付櫓だけで「城主の御主殿 (対面所)」としても完結する形 であったのなら、これで何の不思議も無いように(も)見える、

ということなのです。

―――!? ことほど左様に、天守初重が書院造り、ということは、様々な可能性のパンドラの箱をあけた、画期的な所見と思えて来てなりません。…
 
 
 
<佐賀城天守も? 徳川家康の(初重が書院造りの)駿府城天守をモチーフにしていたのか>
 
 
 
そこで今回、また改めて「武者走りは一重だったのでは?」との率直なギモンを、新規のイラストとともに申し上げるべきだろうと思い立ちまして、やはり私なんぞは「二重の武者走り」というのは、イザ!という緊急時に “混乱のもと” になってしまう危険性(ある種のわずらわしさ)を感じるのです。

(※→ 内側の武者走りの「用途」として考えうるのは、実際には、書院造りの各部屋にいる城主らを警固するため、側近達が詰める場所と化してしまい、何かにつけて、わずらわしさを生むだけのスペースになったのではないのかと…)

それよりは、全国的に普及した普通の(一重の)武者走りと考えて、その周囲を天守台上の空地とし、さらに防備の一環とすべく、階高のある無窓の「床下階」を設けたうえで、その上に書院造りの各部屋を配置して、それらを含めた三階分などをつらぬく側柱等を立てていた――― と考えれば、巨大な礎石の理由も成り立つのではないでしょうか。

で、今回の記事では、小倉城天守の絵図を参照した、との伝承に基づき、最上階を唐造り(南蛮造り)とされた中村泰朗助教授の復元案も参考にしながら、上記の図解を発展させたイラスト略画を作ってみました。

【偶然か?】 こうすれば
初重の規模はちょうど「10間×12間」となり、
徳川家康の(最後の)駿府城天守と
そっくり同じ規模(間数)になる!……

ご覧の略画は、南東の上空から見下ろした形であり、向こう側に重臣屋敷の三の丸などがあり、天守の左奥には付櫓、手前側に本丸御殿が位置していた形になりますが、現状の付櫓台から天守台に上がる石段は、明らかに後世に改変された部分ですから、当時は付櫓の二・三階が伸びて天守と直接に接するか、もしくは「渡り廊下」で書院造りの部屋に入る形だったのかも… などと勝手な推理で描いてみました。

――― このようにして、二階建てか三階建ての付櫓と合わせて「城主の御主殿」として完結しうる建物であったなら、これもまた <初重が明るい> 安土城天主などと同じ初期天守の部類と思われ、実に興味深いのです。

 
 
<慶長15年頃に完成の(最後の)駿府城天守では、時期が合わない ! !?
 “より古い天守” を感じさせる『武徳編年集成』が、ナゾを解くカギか…… >

 
 
 
さて、冒頭からお気付きの方も大勢いらしたでしょうが、慶長14年に完成の佐賀城天守が、慶長15年頃に完成の(最後の)駿府城天守をモチーフにしていた、というのは、無理があり過ぎの妄言でしょう。

しかし先ほど「初期天守」と申し上げたように、佐賀城天守が “天守の古い形” を継承していたのは間違いなさそうなのですから、そうであれば、その古い形とは、いったいどこから来たのか?――― と考えた場合、鍋島直茂が慶長8年に 内藤信成時代の駿府城で 家康に謁見した件は見逃しがたく、もし仮に、天正17年に『家忠日記』に書かれた「小傳主」などが まだ駿府城内にあったのなら、それらが “古い形” を体現したままでも、なんら不思議はありません。

ただし「小傳主」と申せば、近年の発掘調査で見つかった「小天守台」との関わりが無視できないのですが、当ブログは それ以前の記事 において『武徳編年集成』の特異な天守の記録に注目して、そこから導かれる推定のイラスト略画も描いて来ました。

『武徳編年集成』は最上階を「上一重」とする 古い書き方 であるうえに、
山内文庫本(寛保2年版)では、他文献と同じく、初重が「十間 十二間」である



(当ブログ作成のイラスト略画の「改訂版」)

そしてご覧のイラストは、最近の記事における木子家棟梁の「てんしゅ」解釈を踏まえて、最上階も廻り縁が室内に取り込まれた形とし、記録の「一重目ヨリ六重目迄 皆四方ニ欄干有之」というのは、すべてが内縁(うちえん)方式と考え直した「改訂版」です。

これまで当ブログは(いつもの大胆仮説で…)豊臣秀吉時代の広島城や駿府城は、その時期の聚楽第にならって、大天守は「天守台のみ」であって、毛利家や徳川家はそれぞれ本丸南西隅に独自の天守を築いたのではないか、などと申し上げて、それを「小傳主」と結びつけて来ました。

しかし上記の「すべて内縁方式」であれば、『武徳編年集成』が伝える問題の天守は(最後の)駿府城天守のプロポーションによりいっそう近づきましょうし、なおかつ初重は10間×12間の可能性もあるのですから、言わば <最後の天守にそっくりの古い天守> という存在が見えて来そうです。

そこでもう一つ、厚かましい我田引水を付け加えるなら、鍋島直茂はそうした古い駿府城天守(小傳主? 第一期天守?)の下二階分を省いたプロポーションを思いついたのかも――― などと、またまた手前勝手な妄想がふくらむのです。



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