日: 2011年7月25日

鎌刃城「大櫓」は本当に天守の発祥なのか



鎌刃城「大櫓」は本当に天守の発祥なのか

前回、鎌刃城(かまはじょう)の「大櫓」跡は “天守とは別次元のもの” とアッサリ申し上げてしまい、言葉足らずの点もあったようで、今回はちゃんと当サイトの思うところを申し上げることに致します。

米原市教育委員会編『戦国の山城・近江鎌刃城』2006年

さて、鎌刃城(滋賀県米原市番場)はご覧のイラストが全国の城郭ファンの記憶にも新しいように、10年程前の発掘調査の結果、「この鎌刃城から日本の天守が始まったらしい」(前掲書)という、画期的な「大櫓」の礎石群が見つかった戦国期の山城です。

イラストの一番手前がその「大櫓」であり、ただしご覧のような櫓台の石垣は確認されておらず、推定復元のものです。(※→後半のキーポイント)

また基本情報として、鎌刃城は文献には15世紀に堀氏の城として登場し、最後は織田信長が廃城したとされています。

で、上記の本はシンポジウムの講演録をまとめたもので、村田修三先生、加藤理文先生、三浦正幸先生、木戸雅寿先生、中井均先生(奥書の順)というオールスターキャストの先生方が顔を並べていて、とりわけ何故、注目の「大櫓」が「後の天守に相当する建物」と考えられるのか―― については、三浦正幸先生の講演録が詳しく説明してくれています。
 
 
 
<「大櫓」が天守の発祥である理由は「穴倉」があるから…>
 
 

前掲書に掲載の測量図をもとに作成(※上が南/色づけは当ブログによる)

ご覧の図で発掘の様子は想像できると思いますが、話の発端は、北西尾根の突端にある北第六曲輪(北-Ⅵ曲輪)で、京間(六尺五寸間)できれいに並んだ5間四方の礎石群が見つかったことです。

しかも、これらの礎石群が、図のように周囲を土塁にピッチリ囲まれていて、すり鉢の底のような場所にあったことが “大問題” になったのです。

(前掲書所収/三浦正幸「鎌刃城の建物を復元する」より)

そこでどうもおかしいと思って、ひょっとしたらこれは穴倉ではないのかと考えたのです。そう考えてみますと、そのおかしな土塁の意味もわかってきます。
(中略)
つまり五間四方の建物のまわりに一間ずつ延ばすと土塁の上に乗ります。そうすると、七間四方ですから四十九坪、つまり畳百畳敷きくらいの非常に大きな建物になります。
(中略)
なおかつ、御殿というのは普通、床下に地下室がないのです。要するに穴倉はないのです。御殿の下に穴倉があるもの、これは一体何かというと、天守しかないのです。
 
 
ということで、三浦先生は、当時は「天守」という名称が存在しなかったため、これを「大櫓」と仮称しつつ、「後の天守に相当する建物である」と結論づけたそうです。
 
 
 
<内側が土塁のままの穴倉を何に使ったのか? 単なる床下空間か>
 
 

安土城天主台の穴倉跡(右下が内部の北西角)/内側も石垣で築かれていた

ご承知のように「穴倉」とは、天守台の内部に造られた空間で、確認されている多くの事例が「倉庫」として使われたものです。

そして歴史上、穴倉のあった天守、無かった天守の割合は、小さな天守では <無い天守> の方が圧倒的に多くて、たとえ五重天守を見ても <半々> というところであり、しかも時代的にはどちらが古いとも一概に言えません。


(※当ブログでは「(徳川家を含む)織田信長の直臣であった大名家に特有の設備として、
天守台石蔵があった、という傾向は言えるかもしれない」との趣旨を述べたことがあります。)

で、このような「穴倉」の最初の出現が鎌刃城だった、ということになって来たわけですが、発掘調査時の写真なども眺めているうちに、何か引っかかるものを感じたのです。

それは前出の図にもあるように、東側(左側)の土塁を貫通して作られた入口通路には「石垣」が丁寧に張ってあるのに対して、肝心の穴倉の中はどうかと見れば、すべて「土塁」のままになっている、という点に “妙な違和感” を覚えたのです。
 
 
おそらく城郭史上、天守の穴倉の中が「土塁のまま」という例は前代未聞のことであって、そういう意味でも、鎌刃城は注目すべき過渡期の事例ということなのでしょうか?

しかもそこは当時も土間でしょうから、ひょっとすると完全な「床下扱い」だったかもしれませんが、それにしては前掲書の復元案では、床下空間の高さが2m前後はあったことになるようです。
 
 
ならばこの穴倉は、古代の竪穴住居のように土の窪みに物を保管したのか… まさか… と頭の中は堂々めぐりを始めます。

そこで前出の三浦先生は、実にコペルニクス的な(!)論理の転換をされたのです。

(前掲書所収/三浦正幸「鎌刃城の建物を復元する」より)

倉庫として使うために穴倉があった、と今まで建築の先生方は言っておられたのです。
しかし、よく考えてみますと、倉庫にするのだったら、別に天守の地下を倉庫にしなくても、曲輪はいっぱい空いていますので、そこに蔵をいくらでも造ればいいのじゃないかと思うのです。
そうすると、こうした蔵は、もっと別の意味があっただろうと考えるのが普通なのです。
実は当時の技術を考えてみますと、天守のような高層建築を、穴倉なしで建てるほど勇気が無かったと考えるのが一番かと思います。

(中略)
後の慶長十七年(一六一二)に尾張名古屋城の天守を造る時も、その時ですら問題になっており、結局どうなっているかと言うと、尾張名古屋の天守もちゃんと穴倉があるのです。そして天守の本体の重さは全部、地下の穴倉の柱で支えているのです。
(中略)
だから天守は石垣の上に建っているけれども、実は重さはほとんど地下の穴倉の礎石が支えていて、石垣は一階の外壁の重さしか支えていない。
これが天守の構造であり、尾張名古屋の大天守はそのように造られていました。

 
 
三浦先生の指摘のとおり、確かに「石垣に大きな荷重をかけない」という天守建築の技術はオーソライズされて来ました。

しかしそれにしても、三浦先生の “穴倉の第一目的は倉庫機能ではない” というコペルニクス的な論旨にとって、実は、復元イラストの櫓台の石垣(※推定復元!!)が、この上なく重要な “生命線” になっていることがお分かりでしょうか。……!

しかもイラストのように櫓台の外側を石垣としますと、内側は土塁のままだったわけですから、それこそ空前絶後の手法ということになってしまい、そうした過渡的な(?)穴倉の有効性がもっと検証されるべきだと思うのですが…

ついでに申し上げますと、以前は天守台の「石蔵」と当たり前のように言っていたものの、昨今は用語が「穴倉」に統一されて来たのは、もしやこれと関係あるのか、とも。
 
 
 
<城郭マニアの連想……「大櫓」の周辺は、松山城「隠門」の仕掛けにそっくり>
 
 
 
僭越ながら、私のような者にとっては、「穴倉」の存在理由とは、その建物が単独で持ち堪(こた)える “自己完結力” のためではないか―― と長い間、思い込んで来たわけで、それは「天守」も、鎌刃城「大櫓」も、同じじゃないかと思われるフシがあります。

と申しますのは、左のイラストにもあるとおり、問題の箇所は東(左)から城道が伸びて来ていて、直前で二股に分かれて、一方は「大櫓」の南(上)の曲輪(北-Ⅴ曲輪)に達して「大手門」とされる門につながり、一方はまさに「大櫓」穴倉の入口通路につながっていた、とされているのです。

これらの配置はいったい何をねらったのでしょう。

もちろん「大櫓」が突端にあるのは防御や見栄えのためとしても、城道のプランが城外から直接、穴倉に物資を運び込むことを主眼としていたら、やはり「倉庫機能」がこの穴倉の主要目的だということになってしまいます。

伊予松山城の筒井門(右奥の陰に隠門がある)

――そこで申し上げたいのが、伊予松山城の有名な仕掛け「隠門(かくれもん)」なのです。

これは(写真の左側から)敵兵が城道を登って来てこの筒井門を攻めた時、向こうの陰の「隠門」から城兵が不意打ちをかけるもの、と言われますが、この形、そっくりではないでしょうか。

つまり「大櫓」の穴倉は、決死隊(斬り込み隊)が中に潜み、横から反撃を加えるための「武者隠し」だったのではないか? ということなのです。

ご覧のように、大手門わきの土塁(又は石垣)に開いたわずか幅1間弱の通路から突然、城兵が押し出して来たら、寄せ手は混乱することでしょう。

そして城兵が押し出すにはそれなりの人数が必要でしょうが、穴倉が5間四方(約10m四方)であれば、二、三十人の武者が潜むには十分な広さでしょうし、もちろん上階から補充兵が降りて来て、第二弾を放つこともあったでしょう。

そしてその中に臨時に “収蔵” されるのが武者であるなら、内側が土塁のままであってもまったく構わない、という点が肝要でしょう。

ここに「天守」と「大櫓」の穴倉をめぐる共通項が隠れているように思うのです。
 
 
つまり城が危機的な局面を迎えても、「天守」は最後まで持ち堪える―― そして「大櫓」も敵に攻め寄せられながらも持ち堪え、起死回生の斬り込み隊を放つ、といった目的意識(自己完結力)では一致していて、それを担保する設備が「穴倉」だったのではないでしょうか??

ですから鎌刃城「大櫓」は、天守(特に大型天守)にあった方が好ましい設備「穴倉」を先取りした建築、という意味では、歴史的な意義を語りかけて来るのでしょうが、だからと言って、天守そのものの「直接の発祥」だとは到底、思えないのです。
 
 
ここは前回の繰り返しで恐縮ですが、やはり櫓と天守の間には相当な「飛躍」があったはずで、天守は戦闘用の構造物ではなかったはずです。

もし仮に、天守が「大櫓」のように敵前で他の櫓以上の戦闘能力を発揮したなら、極端な話ですが、日本中の城には、出城や陣城の類いも含めて、何千基にものぼる「天守」がひしめき合ったように思います。

それこそ大坂城や江戸城あたりでは、きっと「五番天守」だの「七番天守」だの、という状態(呼ばれ方)になっていたのではないでしょうか。……

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