【事実確認を】日本敗戦当時の中国大陸は、孫文の後継者=蔣介石と汪兆銘の二人が、国土をほぼ二分する形であった

近年、持ち前の「経済オンチ」で大墓穴!を掘った習近平は、先日の米中会談では「歴史オンチ」のトランプ大統領を丸め込んで、嘘八百の「同盟国」発言を引き出すことに成功し、それで現在の経済苦境を乗り切ろう…との策に出たようですが、この状況にかんがみ、当ブログでは前回のイタリアに続いて、かつての中国大陸の「事実確認」をしておきたいと思うのです。

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蒋介石(しょう かいせき)と汪兆銘(おう ちょうめい)
(※1927年撮影。共産党や日本に対する路線対立で決裂する前の様子)



1945年の日本敗戦時の中国大陸
(※蔣介石の重慶国民政府と、前年に病で汪兆銘を失った南京国民政府。
  各々の支配地域と、軍閥支配地の寄り合い状態だった中華民国の全体像)

【 ご参考 】日本の傀儡(かいらい)政権とも言われる汪兆銘の南京国民政府だが、政権には自前の軍隊「和平建国軍」があり、数十万人規模で主に治安維持を担当していて、「戦わざる軍隊」との基本方針を持っていた。



日本兵とその「和平建国軍」兵士(1943年撮影)


ではご覧の地図に、終戦前の日本軍の主な戦闘地域を図示してみれば…



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日本軍は何をやっていたのかが一目瞭然。
軍隊として各々の役割分担が出来ていた、と言わざるをえない状況が…。

 

(※黄色の瓢帯に「和平反共建国」のスローガンを書き入れた、南京国民政府の和平旗)

ここで試しに、ちょうど10年前にあたる中国共産党の「長征」ルートを同地図に描き込んでみると…

それまで中国共産党は「中華ソヴィエト共和国」を称していたが、南京の国民政府時代の蔣介石からの攻撃を避けるため、首都の瑞金を1934年10月に放棄し、各地を転戦しながら行軍して、1937年に首都を延安に移した。――― これを中国共産党では「長征」と称するが、この行軍は、後から考えれば、その後の「抗日ゲリラ戦」に特化していくうえで“絶好の立地”にたどり着いた……という風に言えるのかもしれない。
 
 
 
< 日本軍が太平洋で米軍に負けて去った後の中国大陸は、どうなったか >
 
 
 
【 写真 】米国のルーズベルト大統領は終戦直前の1945年4月に亡くなったが、生前は、大戦後のアジアで頼みになるのは「蔣介石の中華民国」だと確信していて、よもや自分の死後、数年にして、またたく間に中国大陸の覇権が中国共産党に奪われてしまうことなど、露ほども思わないまま鬼籍に入った。


(※写真は1943年11月のカイロ会談より)
 

さて、日本敗戦の翌日、南京国民政府は解散消滅し、和平建国軍も雲散霧消。 蒋介石は南京国民政府の幹部を反逆罪で処刑し、中華民国の全権をにぎりました。

が、この時すでに、対日参戦していたソ連軍は、未承認の満州国から朝鮮半島の38度線まで南下して軍政下に置いていて、中華民国との中ソ友好同盟条約はあったものの、1946年になっても満洲に居座るままだったのです。

これに目を付けたのが、中国共産党を率いた毛沢東であり、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」と語って、ソ連の撤退を待っていたように(そのソ連の全面的な支援を受けて)満洲の制圧に乗り出しました。



1947年の共産党軍の冬季攻勢の結果、満洲は完全に毛沢東の手に落ちたのですが、この件に関しては、はるか戦後のエピソードとして…

【 写真 】1972年、かの田中角栄元総理が訪中して毛沢東と会談。その席で…

毛沢東「我々は日本に感謝しなければならない。もし日本による中国侵略がなければ、国共合作を実現することはできず、我々が発展することもなく、最終的に政権を獲得することもできなかったであろう」
毛沢東「もし日本の中国侵略がなければ、共産党の勝利もなく、今日の会談も存在しなかったであろう。これこそ歴史の弁証法というものである」

度重なる「もし日本の中国侵略がなければ…」との発言は、日本では驚きをもって受け止められましたが――― 思いますに、これもまだ、本当のことは言っておらず、実は、ほぼ無傷のままの「満洲国」をそっくり手に入れたことこそ、その後の共産党軍が国民党軍を圧倒して行くうえで、頑丈この上ないバックボーンになったのは間違いないことでしょう。

しかも日本軍が実践した「満蒙は日本の生命線」を共産党幹部は“学習していた”可能性も濃厚であって、毛沢東が言った「もし日本の中国侵略がなければ、共産党の勝利もなく…」というのは、満洲の1億近い人口や農地、そして日本製の社会基盤をも踏み台にした「勝利」であったように思われてなりません。

そしてその後の展開は、まさに“無人の野をゆくがごとく”…と評するしかない、一方的な展開でした。
 






 
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【 そして、とどめの一撃… 】

で、先日の米中会談では、大戦中の「ハンプ越え」が晩餐会において話題になりましたが、ハンプ越えとは、いわゆる援蔣ルートの空輸版として、米軍機がthe Hump=ラクダなどのコブに見立てたヒマラヤ山脈を越えて、標高4,500m〜6,000mの高高度飛行、山中に墜落すればほぼ回収不能、といった長距離空輸によって、<蒋介石の国民党軍>や米陸軍航空隊に物資を運んだ作戦であり、しかも、しかも…

“Flying the ‘Hump’ was the foremost and by far the most dangerous, difficult, and historic achievement of the entire war. ”General Albert C. Wedemeyer, Commander, US Forces—China
アルバート・C・ウェデマイヤー司令官 「ハンプ越えの空輸作戦は、この戦争全体でも最も危険で困難、そして歴史的な偉業でした」

このハンプ越えを地図上で確認すれば、着陸地点は重慶国民政府の支配地の西南端です。

中国戦区アメリカ軍司令官のアルバート・C・ウェデマイヤー(写真右)
Albert Coady Wedemeyer / 1896―1989

在任中はハンプ越え作戦の拡充に努め、使用する輸送機を新型に差し替えた司令官としても知られる。

そしてウェデマイヤー司令官の、有名な大統領向け報告書の一文から。!!
 
「共産党部隊は日中戦争のいかなる大規模戦役にも参加していない」
 
 

ご覧のウェデマイヤー司令官は当時、蒋介石の国民党軍の参謀長も務めた経験があったため、中国内部の情勢に詳しく、日本が敗戦した後の中国においては、国民党と共産党の融和や統一政府を希望するトルーマン大統領らに対して、真っ向から、真剣な警鐘を鳴らした将軍でした。

ウェデマイヤーの指摘とは、引き続き連合国から国民党政府への大規模な支援を行わなければ、疲弊した国民党側はすぐに限界を迎えてしまい、そして共産党側の実像はたいへんに危険なものであって、国共統一政府を目指せば大きな問題になることを予想し、書簡や報告書で警告したものの…

トルーマン大統領らに都合の悪いそれらは“にぎりつぶされ”、その後、あっという間に、ルーズベルト大統領が夢想だにしなかった戦後中国の体制(※当時の米国の言葉で「中国喪失」)が現出したのでした。

そして有名なウェデマイヤー報告書には、非常に重要な指摘がいくつも含まれていて、どれも実にするどく、まさに慧眼(けいがん)と言うしかなさそうです。!!
 
 
1.共産党部隊は日中戦争のいかなる大規模戦役にも参加していない。
例えば1937年の上海、1938年の台児荘や武漢防衛戦、あるいは長沙の戦闘、その後の怒江やビルマの戦線などにおいて、共産党は日本軍の重要拠点や中国の鉄道支配システムに挑戦したことがない。 大規模な戦役でダメージを受けても敵に食らいつき、犠牲を払ったのは国民党軍の兵士である。
 
2.共産党員がマルクス主義を称賛する時、人道主義的かつ建設的に見えるが、それは錯覚であり罠(わな)だった。 共産党が権力を握ると、いわゆる無産階級は言論の自由も決定権も剥奪され、報酬や信仰の自由まで奪われた。 嘘、脅迫、殺害、奴隷化は、いかなる状況でも共産党が権力を獲得し、維持するための常とう手段だ。
 
3.共産党は国民を日本軍から守らず、協力を拒む者を「通敵者」と称して殺害した。共産党の戦時および戦後の優位性は、中国人の運命に責任を負わないことにある。
 
4.中華民国の政府は力が弱かったが、自由中国の人民を守るためにあらゆる努力を尽くした。 共産党軍は日本軍への攪乱か政府への攻撃かを問わず、やりたい放題だった。 陰険な狼の群れのように、中国が象のごとく敵に抵抗して傷ついているとき、奴らはその隙をついて象の後ろ足を引っ張った。
 
5.私も上官のマーシャル将軍と同じく、かつてはスティルウェルの報告を通じて中国に偏見を持っていた。 でもスティルウェルやマーシャルと違うのは、自分の経験から教訓を得て、共産党の脅威に気づいたことだ。
 
6.こんなにも困難な中国の政治を前にして、彼(蔣介石)は国民を長い貧困から救い出して団結させようとした。 しかし、その努力は日本の8年にわたる侵略と戦後の共産党の破壊によって完全に壊された。 こんな悪環境の中で中国が改革や民主政治を実行するなんて、強風の中で屋根を修理してペンキを塗るようなものだ。

 
 

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