日: 2012年7月4日

「内玄関」が安土城主郭部の復元のカギを握っている?



「内玄関」が安土城主郭部の復元のカギを握っている?

前々回から藤田達夫先生の『信長革命 「安土幕府」の衝撃』から多くを引用させていただきましたが、この本には、その「安土幕府」の舞台である安土城についても、かなり大胆な持論が展開されています。

その辺りの内容は、当サイトの仮説とは必ずしも一致するものではありませんので、誤解の無いよう申し上げておきたいのですが、ただ、藤田先生がこの本の中で「安土城の設計変更」とおっしゃった点はそのとおりだと思われ、今ある安土城跡は部分部分で <完成にかなり時期差がある> ように感じられてなりません。
(※改築や再建ではなく時期差)

その時期差は場所によっては、本能寺の変さえも跨いでしまうのではないか(!?)という観点から、以前の記事で「城として異様な南側山麓の三つの(四つの)門は信長廟の門構えではないのか」( →記事1 記事2)などと申し上げたわけです。

(※ちなみにこの件では、小牧山城にもいわゆる「大手道」はあったのですから、そちらの登り口付近を発掘調査してみれば何か参考になりそうですが、ただ、現地は幹線道路のアスファルトの下で、まだ調査はされていないかと…)

さて、そうしますと、2011年度リポートで、ご覧の安土城の伝本丸と肥前名護屋城の遊撃丸がたいへん良く似ていることから、遊撃丸は本来、後陽成天皇の “北京行幸” のための行幸殿として築かれた場所かもしれない、と申し上げた仮説が気がかりになって来ます。

遊撃丸に「儲(もうけ)の御所」を想定して描いたイラスト


リポート後のブログ記事(→記事3)では、遊撃丸の具体的な建物として、聚楽第と同様の「儲の御所」を想定した場合、面積的にじつに納まりがいいことを申し上げました。

で、その勝手ついでに、試しに「儲の御所」を安土城の伝本丸に当てはめてみますと、かの「御幸の御間」問題に関わる、ちょっと面白いシミュレーションが出来ることをご紹介したいと思います。
 
 
 
<安土城主郭部の御殿群はどこまで一体化していたか? 木戸雅寿先生の指摘から>
 
 

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)

(「天主取付台」と「伝二の丸跡」「伝三の丸跡」)これらの敷地は天主に次いで高い同一平面上にある。
これらをひとつの面的空間として考えるなら、ここに天主を取り巻くような付属施設としてかなり大規模な建物群があったと想定できる。
このうち、天主の東側にある長いL字の郭が天主取付台である。発掘調査では多聞櫓(たもんやぐら)と考えられる長い建物の存在が確認されている。
さらに伝三の丸跡にも大きな建物の存在が確認されている。天主取付台と伝三の丸跡とは本丸東門である櫓門を廊下橋として繋げる櫓門も発見されている。これらは廊下で行き来できる一体型の建物だったようである。
取付台の建物と伝本丸御殿とは建物軸を違えているが、伝三の丸跡の建物と伝本丸御殿とは建物軸がぴったりと一致していることから、本丸御殿と伝三の丸が二階部分で棟続きであった可能性も考えられるのである。

 
 
この木戸先生の指摘を踏まえて、安土城主郭部の調査報告書の平面図を使って、シミュレーションというか、遊びのような作業を行ってみます。それは…

かなり思い切って “乱暴に” 図上の礎石どおしを直線で結んでみる

平面図に示された礎石群を、とりあえず石の大小や状態に構わず、2、3個以上が「直線」で結べるものをドンドン結んでみるのです。

こんなことは調査の専門家でも何でもない自分がやっても、まったく意味が無い… などと躊躇(ちゅうちょ)せずに、やってしまいます。

すると、意外なほど、あれもこれも直線で結べてしまうことが分かります。

やはり木戸先生の指摘のとおりだ、ということが実感できる遊び、否、ある種のシミュレーションでして、安土城主郭部の秘密をのぞいたような気分になれます。

で、こんな考え方はありえないでしょうか?? 図の「内玄関」を起点にすれば――

平面図の右下、主郭部の南東端は、これまでの諸先生方の復元では「江雲寺御殿の一部」や「厩(うまや)」などとされていた場所ですが、ここにあえて「内玄関」を想定してみます。

これは本丸南虎口(図の虎口1)がいわゆる「くらがり御門」であったようにも思われますので、それを一度くぐって到達するため、「内玄関」と仮称したのですが、こうしてみますと、御殿は雁行(がんこう)して連なっていた、という想像も出来そうなのです。

そしてそれらの南西側、伝本丸には「儲の御所」(室町時代の行幸では桁行7間!)が南面して、面積的にもすんなり納まる形になります。
 
 
突拍子も無いことを言い出すようで恐縮ですが、このような遊び(シミュレーション)の結果は、何故か、駿府城や二条城など、のちの徳川の城の御殿配置に良く似ているのです。

復元工事中の名古屋城本丸御殿がまさにそっくり!!

(※ホログラム展示の完成予想図から作成)

ご覧のように、名古屋城の本丸から御深井丸(おふけまる)にかけての御殿や天守の配置は、シミュレーションと同じく「雁行」しています。

しかも名古屋城の当初の計画では、大天守と御深井丸は付櫓を介して通り抜けられる可能性があった点や、御深井丸は本丸同様に多聞櫓でがっちり囲む計画があった点(つまり御深井丸とは本来、何だったのか?)を考えますと、さらに似て来るようです。
 
 
そして、いわゆる「上洛殿」(将軍家光の上洛時の宿所「御成書院」)がシミュレーションの「儲の御所」とまったく同じ位置で南面していることもあり、決して偶然とは思えない一致点が揃うのです。

―――ということは、なぜ安土城と徳川の城が直接に似ているのか、詳しい経緯は分からないものの、やはり安土城の伝本丸の御殿は、<上位の人物>を迎えるための建物(=御幸の御間?)だったのではないか、という疑念がムクムクと頭をもたげて来ます。

これらはひとえに、安土城の「内玄関」の想定位置がカギを握っているわけなのです。

(※調査の専門家の皆さんから見れば、まことに乱暴な話で、失礼しました。)

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