まちがって?解体された伊勢亀山城天守。本当の原因は 将軍家光に「忠長」を連想させた織豊風デザインか

【前回記事より】チョンギェーのリウォデチェン修道院


シガツェのタシルンポ修道院

前回もご覧のチベット寺院(タンカの壁)ですが、これらの建物をよくよくご覧いただきますと、巨大なタンカの壁を除けば、一番高い建物が「左端」にあり、そこから右側へ なだらかに低くなるように、すべての建物が絶妙に高さを調節してあるのがお分かりでしょう。

――― これはどうやら、チベット仏教の発想に基づいたもののようであり、他にもチベット関連の海外サイトを見れば…

またまた「安土城」のごとき! チベット寺院が。白玉寺(ペユル・ゴンパ)




ご覧の寺院は中国 四川省の西部、チベット自治区との境界に近い白玉県にある、チベット仏教ニンマ派の白玉寺 Palyul Gompa / Palyul Monastery で、創建は1665年。 標高3150mという山岳地帯に、何百人もの僧侶らが暮らす僧院群とともに、写真のごとく建っているそうです。

で、ここも見事に、一番高い建物が「左端」なのですが、このことに私なんぞが ビビビッと反応してしまうのは、我が国の岐阜城などの <天守の位置> を連想してしまうからに他なりません。

(以前のブログ記事より)
城下から見上げた金華山は、屏風を立て並べたパノラマのようである。
発掘調査で 左端の 山頂部に「織田信長時代の天主台石垣」が見つかっている

で、白玉寺のような建物の配置は、チベット仏教の解説本によれば、いわゆる曼荼羅(まんだら)を立体化した「立体曼荼羅」が関係しているらしく…

【ご参考】ポタラ宮にある立体曼荼羅の実例

(田中公明『図説 チベット密教』2012年刊より)

チベットでは、堂内を曼荼羅(まんだら)に見立てて諸尊を安置したり、楼閣を安置して中に諸尊を配置する 立体曼荼羅(ルーランキンコル)が多数造立された。 ギャンツェのペンコルチョーデ寺 毘盧遮那(びるしゃな)堂の金剛界 立体曼荼羅は前者、ラサの ポタラ宮 にある時輪の立体曼荼羅は後者の例といえる。
(中略)
日本、チベットを問わず、諸仏の集会する楼閣を模式的に示したものが曼荼羅である。 したがってその中心部の構造は、双方ともあまり大きな違いはない。 ところがチベットでは、四角形の楼閣の外側にさまざまな外郭構造が描かれている。 これらは、神聖な曼荼羅を守護する 結界(けっかい) である。

チベットの敷(しき)曼荼羅の場合 … 日本のものは外側の楼閣などを描かない

ということで、私は決して 我が国の 天守の位置が チベット密教の影響を受けていた、などと申し上げるつもりは 毛頭ない のですが、それにしても、良く似た結果になった原因は、チベットの場合、立体曼荼羅に見立てた頂上のゴンパを囲む「結界」として、写真の僧房群が建てられたようです。

頂上の仏閣はまさに「立体曼荼羅」を意識して建てられた様式


言うなれば、白い鶴が片翼を広げて僧房群を包み込む形と申しますか、こういう建物群の全体が、立体曼荼羅による 結界 として意識されたとなれば、仮に、仮に、これを我が国の織豊期の天守(=本丸御殿を守る「殿守」)に置き換えてみますと、ゴンパを天守とするなら、結界は本丸にあたり、結界の外が二ノ丸以下や城外にあたるのかもしれません。…

例えば『正保城絵図』に描かれた「臼杵城」の場合で申せば…


城下から見ると 本丸 左端の 天守は
本丸内から見れば、右側に三連!の付櫓が続いていて、
あたかも「天守による結界」で本丸が守護されたような形にも。??


(※当ブログでは、こうした付櫓の位置を、日本の「方丈」建築との関連で
申し上げて来ましたが、今回の話はその源流をさぐる話なのかも)

… … … いやぁ、それは考え過ぎだよ。 と、読者の方々から おしかりの声も聞こえて来そうですが、ならば! ということで、ここからは、私がかねてから気になっていた “幻の天守” をめぐる、黒い逆説で、「天守による結界」の可能性をさぐってみたいと思うのです。
 
 
 
<まちがって?解体された伊勢亀山城天守。 本当の原因は
 将軍家光に「忠長」を連想させた織豊風デザインか>

 
 

伊勢亀山城 の天守台の現状
江戸初期の天守「解体」直後に多聞櫓が建ち、近年その修復工事が行なわれた

(※ご覧の写真はサイト「ニッポン旅マガジン」様からの引用です)

かつての伊勢亀山城(西出丸~本丸~二之丸~東三之丸、及び西之丸の範囲)

この城は、ご承知のごとく天正18年、織田信孝の重臣だった岡本宗憲(良勝)が
豊臣大名として入城し、それまでの城を大幅に拡張して築いた城であり、その際に
天守も建造されたと『九々五集』に記され、その後まもなく西之丸などが
拡張されたようです。

これほどの <<見せる天守>> も他に無かったはず ! ! … と思われるのに、
すっかり歴史の闇に埋没してしまい、現在、素晴らしさの認知度は ほぼゼロ。

――― この件は、もっと早くに申し上げるべきだった、と実に後悔しておりますが、“幻の天守” の話を始めるためには、その前に、天守の位置をめぐる「論争」について触れておく必要があるでしょう。

と申しますのも…

正保城絵図の伊勢亀山城赤枠内は上下を反転して拡大した「矢倉䑓」

ご覧の写真は、左から西出丸・本丸・二之丸までの範囲で、赤枠には「矢倉䑓(矢倉台)」が描かれており、ここが実は、本当の天守があった場所ではないのか? との指摘(論議)がなされて来ました。

確かにこの部分は、伊賀上野城とか、佐土原城とか、徳島城とか、歴史的にいくつか事例のあった「二の丸天守」として、まことにふさわしい印象があるものの、ただしここは、あたかも「西之丸」に正対する!かのような位置であり、この点が(私なんぞには)ここの二の丸天守の「秘史」を解き明かすヒントであろうと思えてなりません。 → つまり時期が異なるもの?…


(※現に、城絵図の中には、天守台上に多聞櫓がありつつ、
西出丸(新曲輪)に矢倉䑓がまだ?描かれてない、といった絵図も…)

ところが亀山市歴史博物館のサイト「亀山市史 考古編」-第13章 亀山城跡- の充実した論述においては、「矢倉䑓」説だけが有力とされていて、本丸東南隅の「天守台」は「この部分に天守が築造された蓋然性は低いと言わざるを得ない」とまで結論づけておられます。

(「亀山市史 考古編」からの引用)

【本丸東南隅石垣とその技法】 現存する本丸東南隅石垣(以下「石垣」)は、外側の高さは12m、本丸側の高さ4mを測り 亀山城最大の石垣である。 多門櫓の建つ部分の北と西側に張り出しを設け、側面射撃を可能にして防御性を高めている。 現在は独立した石垣であるが、従来は本丸を囲む塁線が明治の廃城によって分断され この部分のみが多門櫓と併せて残存したものである。 第2節第3項でも触れたように江戸時代後半はこの部位を「殿守台」と呼ぶ認識があり、従来ではここに天守があったとされてきたが、実際この部分に天守が築造された蓋然性は低いと言わざるを得ない。
 
 
とあるものの、まことに恐縮ながら、私の率直な疑問を申し上げますと、天守台でもない隅角の石垣に、どうして「北と西側に張り出しを設け、側面射撃を可能にして防御性を高めている」必要があったのか!?…と強く思われてならないのですが、いかがでしょうか。

現に本丸の石垣や土塁の様子を(※現地は改変がおびただしいため)城絵図や復元研究の模型などで改めて確認しましても、東南隅の「天守台」ほどに「防御性を高めている」箇所はほかに見当たりませんし、ここはやはり、かの神戸城の天守台にも似た構想だったのだ――― と受け止めるのが、城郭ファンとしては(※岡本宗憲は織田信孝の重臣だった人物ですし)ごく ごく普通の感覚だと思うのです。
 
 
そして <<見せる天守(台)>> として、伊勢亀山城ほど 見事な配置は他に無かったはずで、城のすぐ南側は東海道でした。(※写真は亀山市歴史博物館の模型より)

しかもその間には広い水堀(池ノ側)があり、きっと水面には天守が 反射して 見えたに違いなく…

しかも、しかも、天守台の上に、本丸北側の三重櫓がダブって見えるように配置された可能性も?…(→ 天守台上の多聞櫓や三重櫓は、天守解体「事件」の直後の、三代将軍 徳川家光の上洛の宿館整備のなかで計画されたものでした)

 
 
 
< 全くウソのような手違いで?天守が
 解体された「事件」前後の経緯とは >

 
 
 
さて、ここからが いよいよ「黒い逆説」ですが、関ヶ原合戦で西軍についた岡本宗憲が自刃した後、城は関一政(3万石)や松平忠明(5万石)や天領の時代が続いて、元和5年からの三宅康信(当初はわずか5千石)と康盛父子の時代に「事件」は起きた、という点がポイントのようです。

で、まずは「間違って解体された」云々の話を、唯一、今日に伝えている『九々五集』の記録文(巻第一の「当御城主御代々之次第」の三宅康信の付記部分)を確認しておきましょう。
 
 
附康盛代ニ従 公儀堀尾山城守ヘ被 仰付、城中普請有之由ニ而、天守下シ大石を集候処ニ、奉リ違、丹州亀山普請之事ニテ止之、白木村石場ノ捨石、堀尾氏出ス石也、石川殿御代過半亀山ヘ被取寄之

(注:石川氏は延享元年から幕末まで代々 亀山藩を治めた大名)

↓        ↓        ↓
 
「公儀」から「城中普請」を
仰せ付けられた(と思った)堀尾山城守忠晴

かの堀尾吉晴の孫で、松江藩2代藩主。この寛永9年の「事件」の翌年に 死去 ! !
享年37。男子がなく、末期養子も幕府に認められず、堀尾氏は 改易 に―――

!――― これは、単なる手違いの類い、ではなかったのでは??… と、すでにお感じの方も多いことと思いますが、実に奇怪な話であり、本当の幕命は「丹波」亀山城天守の解体等だったとすると、おなじみの層塔型天守は、その後も何ら変わることなく、明治の廃城令まで健在だったのですから、わけが分かりません。

では、いったい堀尾忠晴ら主従は、何をまちがえたのか? と考えますと、一つには、数km北北東の「峯城」が錯誤(さくご)の呼び水になったのかもしれません。 その辺の事情について前出の「亀山市史」は…

(「亀山市史 考古編」より)

天正18年に岡本氏が亀山城に移り、峯城は廃城になったとされるのち、天正20年(1592)には堀尾吉晴(ほりおよしはる)に「あかだ(英多)・池山」が与えられている。
堀尾氏は、文禄3年(1595)の太閤検地後も同村が与えられていることから3年程領有したと思われる。『九々五集』にも「堀尾山城守入城有之時代不分明」と見えることから、天正20年からの3年の間に堀尾氏もしくはその家臣が在城していた可能性がある。

 
 
ということで、堀尾氏は元々、この地域にゆかりがあったわけで、そんな中で、もしも幕府(…幕閣の誰か)から「 亀 山 」とだけ申し渡されれば、即座に「伊勢亀山」と思い込みやすい素地はあったのだ… という風にも言えそうです。

しかし、それにしても、幕府は本当に「丹波」亀山城天守の解体や、石垣を崩して石材を取り出すこと、もしくは新規の築城まで命じたのか……… と考えれば、おのずと、そこには、別の考えも頭に浮かぶわけでして、外様の雄藩を取りつぶす「謀略」の線も無いことは無いのでしょうから、この際、あえて言わせていただくと…

「丹波」亀山~~云々という話は、堀尾忠晴ら主従が(誰かに)完全にだまされたことを、世間体で、ごまかすための「言い訳」「捨てゼリフ」として言い放った言葉だったのでは?―――

という風にも思えて来まして、しかも忠晴という若き藩主は、主張すべきことはキッチリ主張するタイプだったようですから、そんな忠晴でも、自分らをだました相手が “とても 文句を言える相手ではなかった”? としますと、事件の「闇」はそうとうに深かったのだと感じざるをえません。
 
 
 
< 寛永9年~11年という時期が示唆する、
 ちょっと鳥肌が立つような可能性 >

 
 
 
■ 寛永9年9月、伊勢亀山城主の三宅康信が死去。子の康盛が継ぐ。
■ 寛永9年?月、天守解体「事件」が起きる。
■ 寛永10年9月、解体事件を起こした堀尾忠晴が死去。堀尾氏は改易へ。
■ 寛永10年12月、徳川将軍の弟・忠長が、幕命により高崎の大信寺で自刃。

 
 
■ 寛永11年7月、将軍家光は晴れて30万の軍勢を率い、三度目の上洛を敢行。

かくして、上洛ルートになった伊勢亀山城では、本丸御殿を将軍家光の宿館とする計画を立てたようで、その全貌を示した指図「亀山御城御本丸指図」が、幕府御大工の中井家文書の中に残されています。


(※ご覧の図はサイト「見て歩く日本の城と史跡」様からの引用です)

ご覧の指図のうち、茶色がそれまでに存在した建物、青色が寛永10年の新築計画を示すものだそうで、もちろん右下隅の「天守台」には「青色」の多聞櫓が描かれ、また同じ青色で本丸北側の三重櫓も描かれています。

ただし実際は、多聞櫓の完成は正保年間、三重櫓は寛永18年(13年とも)と言われますから、要するに、家光の上洛時点では、それらの建物はまだ無く(もちろん天守も無く)本丸御殿のまわりは石垣や石塁や天守台だけで守られた、ずいぶんとすっきりした宿館だったことになります。

ちなみに、家光自身は「天守台の石垣が城外から見えるのは宜しくない」との自分の好みを明言する人でしたから、天守台が天守台に見えなかったのは、もっけの幸いと言うか…… いや、それこそが 天守解体「事件」の直接的な「成果」であったのだと、もはや私なんぞには思えてなりません。

何故なら もしもご覧の(東海道から丸見えの!)天守台のうえに、織田信孝の「神戸城天守」をモデルにした織豊風の天守が建っていたら、どうなっていたでしょう。

そして実際の移築先(神戸 → 桑名)の桑名城のように四重に改められずに、モデルどおりの五重のままであったなら、そんな光景や本丸御殿での宿泊を 誰よりも 嫌ったのは、織田信長に似ていた弟の「忠長」を殺したばかりの、将軍家光その人、であったに違いありません。

……… これを「織豊風の殿守」による「結界」のしわざ、と感じるのは 私だけでしょうか。
 

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