【 年頭の、一言で済まない余談 】
思想も、信念も、科学さえも無い“ただの金庫番権力”である財務省・財務官僚こそが(※もうひとこと言うなら、金の出し入れ=足し算・引き算しか出来ない文系エリート集団こそが)日本経済の繫栄の芽をつぶし続けている、国内最大の“癌(ガン)組織”だろう、と思えて来てならない昨今です。…
このまま財務省がキッシー「ロボット」総理をがんじがらめにして、増税ラッシュの政治が始まると、安倍・菅以前の「失われた20年」がもう一度、始まってしまう!…との恐ろしい予想も出ていて、鳥肌モノの説得力がありましょう。
そして、その失われた20年のきっかけになった「バブルつぶし」=究極の官製不況を主導したのは、当時の三重野康(みえの やすし)日銀総裁でしたが、いま、そういう重大な役職の新総裁を選ぶにあたって、キッシー・ロボットは支持率回復のためか「女性の登用を…」などと言い出したというのですから、本当に、この方は、“終わって”ます。
ブルーの折れ線の日本は、1人当たりGDPが、OECD諸国の平均値にぴったりになって来ていて、直近はさらに低下して世界の「並みの国」以下になっているわけですが、かつては、1990年のバブルつぶし後も、しばらくは世界有数の成長率 ! ! であり、その後に(※95年の1ドル79円台の「超円高」でトドメを刺されて)日本だけが“脱落”しました。
いま世界の上位にいるのは、「金融」立国への政策転換の断行などでさらに伸び続けた国々(ルクセンブルク、アイルランド、スイス、シンガポールなど)とのことで、ためしに、前出のグラフと年度を合わせてダブらせますと、なんとも、あからさまな形に……
これはもう“内向きのタコつぼ政治”=自分の足を食っていく生き方、としか見えません。
そもそも、いわゆる“国の借金1000兆円”と言うものの「原因」とは、増え続けた社会保障給付の費用(※他の先進諸国も似たような状況!)に対して、他の国々はちゃんと成長して、税収も増えて、それをまかなえたのに、<<日本だけが経済成長しなかった>>ために、そこに1000兆円以上もの「大穴」があいてしまった、というのが唯一の答えでしょう。
(ニッセイ基礎研究所のレポートより → 成長しない日本だけが、どの税収も増えない…)
この“成長できない”問題では、経済アナリストの池戸万作さんの言う「まずは政府支出を上げるべきだった」が、デフレ脱却の「ヘリコプターマネー」の意味では正しいようですし、
それを危険視する藤巻健史さんらの心配(※国債を大量に引き受けた日銀が、急な金利上昇の時に債務超過におちいってしまう…)についても、安倍元総理が言った「日銀は政府の子会社ですから」に基づけば、そういうピンチの際は、日本政府による債務保証とか、増資とか、公的資金投入とか、危険を回避する手はいろいろとあって、結局のところは、日本国そのものがブッ倒れないかぎりは、大丈夫。との結論に行き着くようです。
(※※防衛強化による抑止力もまた、「円」の信用の維持につながる?… )
ですから、実に意外なことに、この論争もまた“戦後の自虐的思考”に関わるテーマのようで、要するに、戦後80年近くたって、自国通貨「円」に対する自信や期待を、どれだけ強く抱けるのか、抱けないのか(=やはり米ドルが全て)になって来るのだ……という思わぬ発見があります。
そんななか、足し算・引き算しか出来ず、自分の足を食うことばかり言う財務官僚は、論外の人々でしょう。
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そして真逆の南東側を描いた、新規の天守画イラスト
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……… さてさて、まず初めに、おわび申し上げるべきは、ご覧の新規の天守画イラストは(前回記事の説明のように)伝本丸からの視点と言うよりは、厳密に申せば、もっと遠くの南東側の山麓から(望遠鏡などで!)見上げた角度のイラストでありまして、したがって、本来ならば天主の下半分には、主郭の御殿や石垣などが重なって見えたはずで、それらは“地面をカットする形で”省略しています。
これは【矢印1】の説明の時点でバレバレだったのでしょうが、このことを正直に申し上げておかねばならないのは、“省略したもの”について考えて(画像化して?)行く場合は、またもや、建物軸に関わる、未解明の“積年のナゾ”に突っ込まざるをえないからです。
< 積年のナゾ(安土城)→ 山頂の主郭にあったのは
文献記録どおりの「赤い柱の御殿」だとすれば >
主郭の中央から東側部分(発掘調査の図をもとに作成)
(※天主東側の懸造り舞台を含めてダブらせた図です。ピンク色の線は、2012年の記事で試みた、礎石どうしを直線で結んだもの)
では、その“積年のナゾ”とは何か?と申しますと、安土城の主郭の御殿を考えるには、必然的に<<赤い柱の問題>>を避けて通れないはずだと思うのですが、それに答えた復元案やビジュアルの類いは、今日に至るまで、いっこうに現れて来ておりません。……
(『完訳フロイス日本史』第三三章(第一部八四章)より)
彼は都から十四里の近江の国の安土山という山に、その時代までに日本に建てられたもののなかでもっとも壮麗だといわれる七層の城と宮殿を建築した。(中略)
なお宮殿や広間の豪華さ、窓の美しさ、内部で光彩を放っている金、赤く漆で塗られた木柱とすべて塗金した他の柱の数々、食料庫の大きさ、多種の灌木がある庭園の美しさと新鮮な緑、その中の高く評価されるべき自然のままの岩塊、……
といったように、ルイス・フロイスらが欧州に書き送った報告書では、安土山の「七層の城と宮殿」のうち「宮殿や広間」の柱は、すべて「赤く漆で塗られた」か「塗金」であった、という書きぶりになっていて、この赤い柱の御殿という報告は、これまでの、あらゆる復元CGやイラストレーションでは、
<<一度たりとも反映された事の無い色彩!…>>
でありまして、私なんぞはずっと、このことに強い(積年の…)不満を感じて来たものの、今の今まで、申し上げる機会はございませんでした。
ちなみに同じ「第八十四章」の、柳谷武夫訳『日本史4 キリシタン伝来のころ』の翻訳においては、一見、その部分が<天主の情報>であるかのような形にはなっているものの、直後に続く部分までを見ますと、やはり…
(『日本史4 キリシタン伝来のころ』より)
みやこの町から十四レグワ離れた近江国で、信長は新しい町と城と屋形とを安土山といわれる山上に造った。 七階建で、彼の時代までに建てられたうち最も威容を誇る豪華な建築であったという。(中略)
屋形の富裕、座敷、窓の美しさ、座敷の内部に輝く金、赤い漆を塗った木柱と全部金色に塗った柱の数、食料庫の大きさ、多種多様の矮樹と、その下に大いに珍重されている自然巌の塊や、魚を放つ池、鳥を浮かべる池がある庭園の鮮やかな緑、黒ニスを塗った鉄を打ちつけてある扉、この建物全体と家並みとの金縁瓦、(中略) 一方には、絶えずさまざまな船が行き交う、あの山麓の大きな湖、また一方には、はてしなく遠くまで続く田畑、……
といった感じでありまして、これらは要するに、安土城の城内から周辺一帯の「風景」を、かなり色彩にこだわりつつ?描写した部分なのだ、ということが分かります。
で、当ブログでは、赤い柱に関しては、日本側の文献に共通した、
(『信長記』岡山大学蔵より)
六重め八角四間程有。外柱は朱也、内柱は皆金也。
との記述を重視しまして、「天主六重目の朱柱」としてイラスト化したものの、前回、新規イラストでついに踏み込んだ、天主の「東側」を考えて行く段になりますと、やはり、積年のナゾや不満(→ 主郭の御殿も、実は赤い柱だった?)は一度、吐き出してしまうしかないだろう、と思えて来てなりません。
それにしても、武家の「宮殿や広間」の柱が「赤く漆で塗られた」というのは、通常ではありえない色彩であり、ひょっとすると、かの「盆山」に関わる何かがあったのか、それとも「第六天魔王」にちなんだ建物でもあったのか?… などと考えるよりは、もっと自然体で、常識に沿って考えるならば、これの類い!でしかありえなかったのではないでしょうか。
赤い社殿として連想される、世良田東照宮 拝殿(元和創建/寛永移築)
―――! すなわち、安土城の山頂の主郭には、生きながら「神」になった織田信長の自身の廟所(びょうしょ)が、すでに設けられていた?!…という驚愕の可能性が見えて来るのではないでしょうか。
で、ご覧の世良田東照宮はご承知のごとく、日光東照宮に徳川家康の遺骸が改葬されたときの最初の社殿を、のちに(世良田氏の末裔を自称していた)徳川氏ゆかりの地・世良田へと移築したものですが、ご覧の拝殿の奥には、唐門、本殿(神殿)と、それぞれの建物の中心軸をそろえて、奥へと並んでいます。
【ご参考】 新田資料館にある世良田東照宮の模型
< そしてもう一つの積年のナゾが、大きなヒントに。
→ 伝本丸と伝三ノ丸は「建物軸がぴったり一致している」のは何故か >
(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)
(「天主取付台」「伝二ノ丸」「伝三ノ丸」)これらの敷地は天主に次いで高い同一平面上にある。 これらをひとつの面的空間として考えるなら、ここに天主を取り巻くような付属施設としてかなり大規模な建物群があったと想定できる。
このうち、天主の東側にある長いL字の郭が天主取付台である。発掘調査では多聞櫓と考えられる長い建物の存在が確認されている。
さらに伝三の丸跡にも大きな建物の存在が確認されている。天主取付台と伝三の丸跡とは本丸東門である櫓門を廊下橋として繋げる櫓門も発見されている。これらは廊下で行き来できる一体型の建物だったようである。
取付台の建物と伝本丸御殿とは建物軸を違えているが、伝三の丸跡の建物と伝本丸御殿とは建物軸がぴったりと一致していることから、本丸御殿と伝三の丸が二階部分で棟続きであった可能性も考えられるのである。
というように、安土城の発掘調査を主導した木戸先生は指摘していて、伝本丸と伝三ノ丸は高さ約5mの段差があるにも関わらず「建物軸がぴったりと一致している」ため、そこは、伝本丸側の二階が伝三ノ丸の一階に接続する形で「棟続きであった可能性も考えられる」というのです。
しかし、それは何故なのか?…という点までは、木戸先生は言及をひかえておられたのですが、今回申し上げている「赤い柱」の件を踏まえれば、答えはおのずと見えて来るわけでして、その答えは、過去の当ブログ記事といくつもの矛盾点を生じてしまうものの、この際、思い切って申し上げてしまいますと……
!! つまり、伝本丸の行幸の間から伝三ノ丸にかけて連なる「赤い柱の御殿」(“紅雲”寺御殿?)というのは、伝本丸の東半を拝殿としつつ、伝三ノ丸を本殿(=信長自身の廟所)とした、真っ赤な、東へ段状に高まる大建築として、主郭内に横たわっていたのではあるまいか、と。
そしてそれは、むろん、近々に天皇に信長自身を拝ませるための、狡猾(こうかつ)かつ大胆不敵な仕掛けであったのではないでしょうか。……
(→ → のちの東照宮の事例から類推すれば、ひょっとしてひょっとすると、本殿の中央には、西を向いた自身の立像か坐像が ! ? )
【ご参考】 鞍馬山の由岐神社の拝殿(慶長年間)
【ご参考】 亀岡神社の登廊(平戸城二の丸跡/明治時代)
(※ご覧の写真は平戸市地域資源データベース「平戸学」様からの引用です)
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……… 本能寺の変の直後に、子の織田信雄が、思わず、安土城の主郭「だけ」に放火してしまった、という例の事件も、こうであれば、納得できそうで…。
【 追記 】
念のため伝本丸の建物の西半分について申し添えますと、2010年のブログ記事でも取り上げたように、「清涼殿」云々の説よりも、川本重雄先生の反論の方に私は共感しておりまして、記録の「御幸の御間」とは、西半分の殿舎内に設けられた「上々段」のことであろう、と感じております。
が、今回の「赤い柱」の件を踏まえますと、もしかすると……日光東照宮の拝殿にも設けられた「将軍着座の間」が、気になって来て仕方がありません。
(日光東照宮 将軍着座の間)
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