結論へ。すぐ東隣りの動機とは?→圧倒的な武力や権力を得るほど、天皇との距離感を縮めて見せた豊臣秀吉の軌跡から

【 引き続きの冒頭余談 】

10月7日。ついに見えました。中韓の「反日」利用政治と、岸破コンビの「反アベ」利用政治は、同じ穴のムジナ…なのだと。

→ → 密かに言われる「自民党大敗とキシダ再登板の悪計」ですが、旧安倍派の比例重複を大量に認めない悪手などで、自民「50以上の議席減」で与党の過半数割れが予想されていて、石破は即日辞任表明、進次郎も選対本部長として「無能」の烙印が。
キシダ再登板に対しては、総選挙の9日後にアメリカ大統領選挙がある ! ! という点が最大のカギをにぎるでしょうが、石破辞任後はただちに「この一連の騒動の全責任はキシダフミオにある」とのキャンペーンが不可欠でしょう。

(※※両院議員総会での総裁選びも、過半数の獲得が無ければ、上位二人の決選投票。やはり「積極財政」連立政権をめざす人が、総理大臣になって欲しいものです。でなければ、増税大連立の悪夢が実現化しそうで… )

 
 
 
10月2日。昨日の組閣=「石破“スキャンダル在庫一掃”内閣」の出来上がり。まだ投票日まで3週間もあるのに!…ほんとに総選挙、やるんですね。

 
 
9月27日。この自民党総裁選の結論 ! ! ! ―――。土壇場で派閥の領袖として「高市以外に入れろっ」と派閥議員に号令したキシダフミオ。
(→ この男、「あのキチガイ女」とも叫んだようで、この男の狂った歴史観や価値観に加えて、安倍元総理が「岸田は気が小さい」と語った人物評どおりの慌てぶり…を見せたらしい )

結局、高市さんが負けた直裁的な原因は、今後10年間で総額15兆円の巨額支援という「ウクライナ密約」の“継承”を、高市さんだけが“拒否”したからではないか……という気がしてならないのですが。


石破当選が決まった瞬間の先物市場などの「失望感」はひどいものに。
これ、石破ショック……というか、キシダ(暗躍)ショックでしょ。

一方、アメリカでは激戦州が全てトランプ優勢に変わったそうですし、石破内閣は始まって早々に「金融ショック内閣」「スキャンダル在庫一掃内閣」になるのが必至なため、早期解散に突っ込まざるを得ない(※大敗の予感→抱きつき増税大連立の悪夢?)らしく…一年程度でボロボロになって退陣したら、もう、党員票でも、論戦でも、高市さんに勝てる総裁候補は存在しません。次は圧勝でしょう。!!

 
――― こうなると、率直に、大局的に言わせていただくと、戦後日本はGHQによって左右両陣営が社会的にインボルブ=組み込まれてしまった、との状況認識を踏まえるなら、この際は、思い切って、21世紀の「第2の保守合同」=共産党以外は立憲民主党もぜんぶ合同して、そして国民に「一億・総党員化」をうながして、その中で、
<<総裁選を事実上の「首相公選制」にしていく>>
というのが、国家百年の計として、いいのではないか??(→ この先、党派対立による国家の決定的な分断を避けつつ、あらゆる選挙が「人」本意の選択になり、なおかつ国レベルの意思決定を白日のもとで決められる!)と心底、思えて来たのですが、いかがでしょう。
 
で、私は昨日、奈良の高市早苗事務所に党員希望の依頼をネットで致しました。実に簡単でした。逆に恐いくらい簡単で……将来的にはマイナンバーでの身元確認が必要かも。(→ 河野太郎がデジタル相を辞めたので、そろそろ、カードにしますか…)

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( 最近の当ブログ記事より )


 
 
< 結論へ。すぐ東隣り…の動機とは?
  → 圧倒的な武力や権力を得れば得るほど、
  天皇との距離感を縮めて見せた豊臣秀吉の軌跡から >

 
 
 
さて、この3ヶ月以上にわたり申し上げてきた「指月伏見城の本当の位置」や「地震後にそのすぐ東隣りで木幡山伏見城は再建された」との一連の当ブログ仮説は、上記の上の方の図の「惣構え」=赤いラインが、どうしてこんな位置でぐるっと大回りで設けられたのか?――その原因に「桓武天皇陵」が深く関わっていたことが、話の根幹を成しております。

では、いったいどうして、豊臣秀吉はこんな特異な城の築き方に至ったか(A.動機は何か?)について、今回はじっくりと申し上げてまいりたいのですが、それにはちょうど、近年、京都御苑の中で!石垣や金箔瓦が見つかって話題になった「京都新城」の実態が、この上なく、参考になりそうです。

( 2020年当時の報道写真などの引用 )





( ※ご覧の推定復元図は「雑感:英雄たちの選択「秀吉の“終活”~発見!幻の京都新城~」2021/09/17」様からの画像引用です )
( → → ご覧のイラストでは、一見、こじんまりした城のようにも見えますが、当記事のラストの図解でもお解りのごとく、
南北から成る単郭?の曲輪はものすごい「広大さ」で、小さい方の北側だけで徳川家康時代の二条城とほぼ同じ広さに。
そしてなおかつ、その北辺には最も重要な門=極楽橋?があったのかもしれません )

「今世紀最大の発見」―――
写真の石垣が発見された時、報道の見出しにはこんな文言が踊っていまして、思わず私なんぞは、今世紀は始まってまだ20年だぞ、いいのか?…との印象が先に立って、ちょっと気持ちが引いた記憶があるものの、今にして思いますと、「築城狂」とも言われる秀吉の最後の城が、この「京都新城」だったことの意味は、実は、思いのほか大きかったのではないか、という気がして来ております。

( → かのルートヴィヒ2世の最後の城が、ヴェルサイユ宮殿を意識した?オーソドックスな?「ヘレンキムゼー城」であったこととも似た感じが… )

ご存知のとおり京都新城が築かれたのは秀吉の最晩年で、申し上げている指月伏見城の築城や木幡山伏見城の再建よりも後の、死の前年=慶長2年1597年であったことから、この城は“秀吉の築城遍歴”の最後の最後の付け足し…ではなくて、むしろある意味では、最後の最後で、ようやく実現した「秀吉の到達点」であった!?…と言うべきなのかもしれません。

と申しますのは、さかのぼる平安時代、平安京において全盛時の藤原氏などが世に示した公家邸の有りよう(→下図。大内裏の南東側に張り付くようにして多数が造営された)が、秀吉の頭の中で、大いに意識されていた可能性が濃厚だと感じられるからです。

【 ご参考 】「二条大路は高級住宅街」

(※ご覧の画像は、京都市の「風俗博物館」様のサイトからの引用です)

( 同サイトの解説文より )
(二条大路は)平安宮(大内裏)の前面を横切る道路として、道幅一七丈(約五一m)の偉容を誇っていた。そうした広大な道にふさわしく、二条大路の南北両側には最高級の貴族の邸宅が林立していた。
 

(名古屋市秀吉清正記念館蔵『豊臣秀吉画像』より)

【 秀吉の軌跡


(※本多忠勝の天正11年の書状に「只今は大坂ニ普請仕られ候、来春は京都をも大坂に引き取るべきの由候」と)

ご覧の図は、当サイトの2010年度リポートでも申し上げた、秀吉が大坂城築城と同時期に画策していたと伝わる「大坂遷都計画」について、かつて内田九州男先生が唱えた、遷都予定地の「天満」説の図解を参考にしながら作成したものです。(→ 大坂城は移転候補地の、南東側の、はす向かい ! ! )

( 内田九州男「大坂遷都計画」/『別冊歴史読本 豊臣秀吉』1989年刊より )

秀吉が築城開始後間もなく遷都を朝廷に申し入れたのであるから、当然その予定地の工事にも着手していたと考えられる。ではそれはどこであったか。結論を先にいえば、それは天満(てんま)であった。
 
 
この大坂遷都計画は、私なんぞの勝手な印象で言わせていただくと、当時の人々が真っ先に連想したものは、大坂が海に近い土地柄だけに(織田信長の「安土」等ではなくて)やはり…平清盛の「福原」遷都だったのではないでしょうか。

しかも秀吉の場合、筑前守を僭称(せんしょう)し、かなり早くから朝鮮出兵(大陸遠征)の構想を抱いていたようですから、「大坂」という選地についても、当然ながら、古代の白村江の戦いの際に、斉明天皇が中大兄皇子や大海人皇子とともに「難波宮」から遠征に船出した故事が、必ずや秀吉らの頭の中にはあったはず、と思われてなりません。

そうした中で、清盛の福原遷都の方は強大な政治力で半ばまで成功したのに対して、秀吉の大坂遷都計画は、自身の願望ばかりが先行したためか、早々と挫折してしまう、という苦い経験に終わりました。
言わば当時の秀吉は、天皇を動かそうとして、1ミリも動かせなかったわけでして、そこで秀吉は持ち前の行動力で“前に出る”ことを決意しました。
 
 
【 秀吉の軌跡




(※ご覧の地図には、戎光祥(えびすこうしょう)出版様のXから「戦国時代京都図」を部分的に利用いたしました)

その後の秀吉は、先ごろ庭園の池の遺構が見つかった「妙顕寺城」の築城を経て、豊臣政権の政庁とも言われる「聚楽第」を築き、そこに後陽成天皇の行幸を実現するに至ったわけですが、ここで是非、ご注目をいただきたいのは、天皇の当時の「内裏」=土御門東洞院の里内裏と、聚楽第との“距離感”なのです。

ご覧の図は7年前の当ブログ記事において、足利健亮先生による聚楽第の外郭(赤枠)や、京大防災研究所による内堀と外掘、そして森島康雄先生が想定した「京中屋敷替え」後の大名屋敷地区(青枠)を、一つに合体させてみたものでした。
そして、かくのごとく二代目の豊臣関白・秀次の時代に「京中屋敷替え」が行われ、そのうえで(新関白・秀次お披露目のための)天皇行幸が再び、金箔瓦で飾り立てた大名屋敷街を往来する形で行われました。

つまり、聚楽第と内裏との間には、天皇や関白の行列を都の人々に見せつける重要な目的もあってか、直線距離で6町=約650mの距離が設けられていて、結局のところ、秀吉らは関白任官を果たして源平藤橘にならぶ氏「豊臣」を天皇から賜ったものの、なおも、その政庁(聚楽第)と内裏との間にはずいぶんな「間」があったことになります。

これは、それまでの足利将軍邸や旧二条城の感覚から申せば、とりたてて不自然に感じないものの、前述の藤原氏らの公家邸とは明らかに異なる居館であって、そもそも当時の豊臣政権の面々では、藤原氏のような朝廷内での役目はとても期待できず、そのため前述のごとき公家邸の「形」はとれなかったのでしょう。

これを「中途半端…」と申し上げてよいのか迷うところですが、秀吉自身は豊臣政権が朝廷の体制にずっぽりと取り込まれる道筋を恐れたのか、自らは早々に太閤(隠居の身)となって甥の秀次にその立場をあずけつつ、対外戦争の前進基地・肥前名護屋城へとおもむきました。

ところが、その朝鮮出兵はしだいに膠着(こうちゃく)状態におちいり、大政所の死をきっかけに伏見に秀吉の隠居屋敷(後の伏見城)を築くと、かの秀次事件が起きて、聚楽第を破却して指月伏見城に家臣団屋敷も集約したとたんに、慶長伏見地震!……という大波乱にみまわれ、そこで秀吉は(当ブログが申し上げたように)すぐ東隣りの桓武天皇陵に「しがみつく」ように木幡山伏見城を再建、という経緯をたどったようです。

そして―――

【 秀吉の軌跡
 死の前年になって、ついに、ついに「内裏」との最接近 ! ! ! を果たした形に。

ご覧の「京都新城」が何故、造営されたか?という理由については、例えば昨年の日本城郭史学会(大会)での福島克彦先生の発表資料によりますと、文献上には「目的」等の記述は何も見つからないものの、完成後の「動静」を伝えた記録からは、「秀吉が子の秀頼を連れて参内する」ための拠点であったことは明白でしょう。

しかも、その立地は当初、内裏から離れた下京の隣地の四条に「四町」四方で築き始めたものの、整地作業が終わった段階で突如、計画が変更されて、
 自此春中、四条に太閤新構有普請けるか、地利狭して又白川出口江有普請、町人壊家を迷惑す(『当代記』)
という風に「地利狭して」との理由を挙げつつ、六町×三町(後に四町)の広さで場所を変えて完成させたものの、結局は、内裏のはす向かい!!というベストポジションを確保したわけであり、本当に「地利狭して」が理由だったのか、かなり疑わしいものでしょう。

この場所はまさに、前述の「藤原氏らの公家邸」を人々に想起させるにうってつけの場所ですし、こういう秀吉の最終決断というのは、普通の感覚で言えば、<<自分はまだしも、子の秀頼には公家として生きる道をしっかりと残したい>>との願望が込められたもの、としか見えません。
 
ただ、これを単なる「貴族化願望」などと言うのは正確ではないように思われまして、厳密に申せば、豊臣氏を永続させるためには、いわゆる「源平交替」思想からほど遠い地点に、秀頼を逃がしてしまうこと――― つまり世間の誰が見ても、あれは公家だと見えるような「形」に早く変えてしまうことが、何よりも急務(→自分が死ぬ前に)かもしれず、そこに「京都新城」の最大の眼目があったのだろうと思われてならないのです。
 
 
尊皇家として自他共に認める秀吉でしたが、こうして見ますと、やはり自身の心理としては、自分は「豊臣」姓を賜ったものの、やはり藤原氏のようにはなれない…との感覚が強くて、それらは全て秀次や秀頼らの次世代に託したいと考えていたのではなかったでしょうか。
 
(※その辺りの思惑を、秀次は大きく読み間違えたようで、聚楽第に外堀など築かずに、公家としての役回りに徹しつつ、秀頼の成人後には娘を輿入れさせてバトンタッチを行う、との話を快諾していれば、何の問題も起きなかったのでしょう)
 
 
したがって、桓武天皇陵にしがみついた木幡山伏見城について申せば、これは例えば、織田信長死後の安土城が「信長廟」を山頂にいただく城跡になったと同様に、伏見城もまた、地震後の再建で、平安京をひらいた桓武天皇の陵墓にさらに近づいた「形」をとることで、自分の死後も「平安京を護持する」城(跡)として、公家筆頭の豊臣氏が代々、祭礼を行っていく、といった未来を思い描いた可能性もあったのではないでしょうか。……
(→ 決め切れなかった軍都・大坂城との両建て?)

( 前回の当ブログ記事より )


高台院像(高台寺蔵)

【 秀吉(後)の軌跡その後の京都新城は、なおも高台院屋敷として…

ここで最後に申し添えておきたいのは、問題の「京都新城」のその後の様子です。

ご存じのごとく、関ヶ原合戦(伏見城の戦い)の際に「京都新城」は自ら城構えを壊すなどして窮地を乗り切りつつ、秀吉の妻・北政所(高台院)の隠居屋敷として一部が維持されたわけですが、その「形」は上記の図のようなものでした。

!……… これはやはり、高台院が秀吉の「遺志」を守って、ここにあえて移り住んだのだ(※かの高台寺の建立後も屋敷は維持された)と言わざるをえないのでしょうし、実際に、高台院はこの屋敷に羽柴利次(=木下利房の次男を自らの養子!として「羽柴利次」と名乗らせた)を引き取っていて、彼女はここで、来たるべきチャンスを、じっと待ち続けていたようなのです。……
 

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