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前回と同じ洛中洛外図屏風(個人蔵)より
→ 画面中央の、右から二人目は豊臣秀吉「その人」かも、とも思えて来たのですが…
……… こんな風にこの洛中洛外図を見ていますと、前回記事のとおり、ご覧の廊下橋がさながら日光東照宮の「神橋」のごとく、木幡山伏見城西丸の桓武天皇陵と香華院(こうげいん)に向けて、秀吉本人が本丸から直接「そこ」に渡るための廊下橋だったとすると、この絵はそうとうに皮肉の効いた描き方かもしれません。
つまり秀吉はこの時すでに、現世とあの世を行き来する「橋」の真下の、堀底道にいたのだ……という描き方なのですから。
で、まず今回は初めに、前回の「補足」として、いくつか申し上げますと…
これを南北(上下)を逆に、ひっくり返して見れば…
つまり香華院の袴腰(はかまごし)鐘楼は、屛風絵と同じ角度で見えたことに。
さらにここで、当ブログが桐紋の廊下橋をここに想定した動機を申し添えますと、すでにご覧の測量図のうち、西丸(二の丸)の北東のへりに、下記のような小さな変形(くぼみ?とテラス状の地形)が残っていることに着目したからです。
↓ ↓ ↓
ということで、ご覧のような連想(妄想…)の図をご覧いただいたわけですが、これでもまだ、木幡山伏見城の西丸(二の丸)に「桓武天皇陵」があったことについて、賛成しかねる、という方々のために、今回は是非ともこの話を申し上げてみたいのです。
< 桓武天皇陵の状況証拠? 江戸城はなぜ、大規模な天下普請でも、
本丸のすぐ隣りに同標高の紅葉山を残したのか…… >
さて、申し上げたい「話」というのは、私自身、江戸城の縄張りのある部分について、長いこと疑問に感じていながら、はっきりとした原因や理由が見い出せなかったため、言わば「保留」にしていたナゾとして、これがあります。
本丸の富士見多聞櫓から眺めた、現状の紅葉山
→ → 本丸のすぐ西側の眺望をさえぎっている!
(※手前は乾通りと門長屋、宮内庁の総合倉庫。この日は乾通り一般公開の日)
ご覧の地形を、地理院地図で確認してみますと、紅葉山の頂上を、ほんの数メートルでも削って低くしていれば、西側の展望は(半蔵門を見通せた可能性など)劇的に変わっただろうことが分かります。
――― ということで、皆様ご存じのように紅葉山(もみじやま)とは、徳川家康が亡くなった翌々年の元和4年に東照宮の正遷宮が行われ、以降、江戸時代を通じて将軍家の霊廟が営まれた場所でしたが、では、それ以前はどうだったのかと言えば、例えば慶長8年からの天下普請において、ここは一切、手が付けられなかった部分でありまして、それはむしろ「異様」と申し上げるべき事柄なのではないでしょうか。
いわゆる『慶長十三年江戸図』では、「山」と墨書された紅葉山だけが
すっぽりと“普請や作事から除外された”ような状態に。
これは後々に(=天下普請から15年も後に)紅葉山に東照宮(家康の霊廟)が建立されることを、天下普請の時点で「見越していた」ような扱いがあったことになり、そんなことが家康の全盛期!において、本気で実行されたと考えることに、私なんぞはどうも「違和感」を感じざるをえません。
そういう前例が徳川家や松平家の過去の城にあった、などという話は聞いたことがありませんし、こんなに手回しの良い(良すぎる)措置が、どうして西日本に豊臣家がいまだ健在という情勢下で、家康主従に選択できたのか、本当に理解できないのです。(→ この時点で、西側を見張る意識も欠如 ! ! ? どうして?)
つまり、私がここで申し上げたいのは、慶長8年に天下普請が始まった時点では、将来、徳川家が紅葉山に東照宮を建立することを「見越していた」わけではなくて、これはその時すでに、他のある某城において、前例となる<<模範(もはん)>>が世の中に存在していたから、そうなった(そうしやすかった)のではないのか―――と申し上げてみたいのです。
<< 江戸城の本丸と西丸は、木幡山伏見城の拡大版になっていた ! ! ?… >>
(※両図は同縮尺で同方位です)
まさかっ… とお感じの方も多いことでしょうが、このように両方の城を並べてみますと、桓武天皇陵の円墳が、ちょうど紅葉山と同じ規模になることが“ご愛嬌”とも言えそうで、両者の推移を時系列で確認しておきますと…
・大同元年(806年)/崩御した桓武天皇を柏原山陵に埋葬
・天正18年(1590年)/徳川家康が江戸城に入城。その後、西丸などを増築
・文禄5年(1596年)の慶長伏見地震で指月伏見城が崩壊。豊臣秀吉は即座に木幡山伏見城の築城を開始
・慶長6年(1601年)/関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、伏見城の再建に着手。その過程で西丸の桓武天皇陵を縮小・移設か
・慶長8年(1603年)/徳川家康は天下普請による江戸城の拡張に着手
・元和4年(1618年)/死去した徳川家康をまつる東照宮が、紅葉山に造営される
という風に、江戸城の紅葉山の方が「城」に取り込まれた時期は6年ほど早かったものの、その後ずっと「山」のまま維持された一方で、桓武天皇陵が伏見城内の古墳として整備されたのは、紅葉山の東照宮よりも22年、早かったことになりそうです。
江戸城の「天下普請」直前の状態 / いわゆる『慶長七年江戸図』より
城郭ファンの素直な感想で申せば、こんな城絵図を見せられた場合、紅葉山こそが、この城の「詰めの丸(城)」にふさわしく、その東側(海側)の曲輪は、本丸というよりも、二の丸か重臣屋敷と見えてしまうのが、ごく普通の感覚なのではないでしょうか。
ところが、太田道灌や後北条氏の時代も、実際の江戸城はそのようには使われなかったようでして、ならば、この絵の紅葉山の描き方が「極端すぎる」のか、もしくは、ひょっとして「紅葉山の削平」! ! ということが、どこかの段階で実施されていたのか、ナゾは少しも解けていない感じがいたします。
そんな江戸城のナゾにおいて、<<木幡山伏見城の拡大版になっていたから>>という当ブログの見方は、新たな解釈の方向性をもたらすようにも思うのですが、いかがでしょうか。
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