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( 前回記事より )
上三重が「三連続」唐造り?の木幡山伏見城天守は、
木造部分だけで8階建て、ということにも……
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前回は屛風絵にある木幡山伏見城の天守について「史上最多階層の天守かも」などと申しましたが、それでは、木造部分の総高はどの程度を想定しているのか?との懸念に応えて、仮にご覧の略図のまま、他の天守との「高さ比較」をしてみますと、こんな感じになります。
【 VS 豊臣大坂城天守 】
木幡山伏見城の方が頭一つ抜けた形で、ちょうど二つ目の唐造りが
豊臣大坂城天守の最上階と同じ高さに。
【 VS 広島城天守 】
こちらも木幡山伏見城の方が頭一つ抜けた形で、
二つ目の唐造りが最上階と同じ高さに。
【 VS 名古屋城天守 】 総高はほぼ匹敵か。だが……
といった形で、後の徳川幕府の巨大天守群に比べますと、名古屋城ならば総高はほぼ拮抗するものの、建物自体はグッと細身に感じられたでしょうし、それでも、少なくとも豊臣秀吉の最晩年の時点では、この天守は「史上最高層」だったのではないか……と妄想しているところです。
で、こんな手前勝手な「妄想」ついでに、この機会に、是非とも触れておきたいテーマがありまして、それは、
< 吉川広家の岩国城天守はなぜ、倭城天守そのままのデザインだったのか >
という素朴な疑問でして、何故なら、天守のあった地点は標高200m以上の本丸内でしたから、そんな高所で、何を思って、二段重ねの唐造りにしたのか?と、よくよく考えてみますと、そこには城主の吉川広家という武将ゆえの、奥深い背景があったようにも思えて来るからです。
横山北東の峰の突端に築かれた岩国城。 峰上に見える復興天守
< 吉川広家の岩国城(唐造り)天守は、毛利家中の武断派として、
朝鮮出兵の激戦を徳川家康に誇示した「再現」意匠かも >
吉川広家(永禄4年1561年-寛永2年1625年)
ご覧の武将・吉川広家の「武勇」を挙げるならば、真っ先に朝鮮出兵での碧蹄館(へきていかん)の戦いや蔚山倭城(ウルサンわじょう)での戦いを挙げざるをえないでしょう。 これらの武勲もあって、広家は豊臣秀吉から「日本槍柱七本」の一人とされた武将でした。
( 包囲された蔚山倭城 / 鍋島報效会蔵「朝鮮軍陣図屏風」より )
ご覧の蔚山倭城においては、救援に向かった吉川広家隊らの劇的な「突入」によって、明・朝鮮軍の包囲が崩れて、みごとに加藤清正ら籠城兵の救出に成功していて、おそらくこれが武勇の第一なのではないでしょうか。
そんな吉川広家(→ 毛利両川体制=毛利・吉川・小早川の一翼をになう吉川氏の当主 / 吉川元春の三男)ですが、もちろん世間的にいちばん知られた話と言えば、関ヶ原合戦で西軍の敗戦を予想した広家は、毛利氏の本領安堵を条件に、徳川家康と「内通」して、陣地の南宮山麓から一歩も動かずに、毛利勢の参戦をはばんだことでしょう。
ところが昨今の吉川広家「評価」ですと、この際の有名な逸話=関ヶ原合戦後に毛利輝元の暗躍を示した書状が見つかったため、徳川家康によって毛利氏が領地没収(お家取りつぶし)になりかかったのを、広家にあてがわれた周防・長門二ヶ国を、輝元にゆずる形で家康らと交渉し、なんとか毛利宗家の存続を勝ち取った、という逸話が―――
な、なんと、江戸時代に吉川氏が、独立大名化をめざして家格上昇のために捏造(ねつぞう)した話だと言われて来ていて、そのあおりをくらってか、広家自身もかなり打算的な人物であり、だからこそ家康と「内通」までしたのだ、といった評価に激変して来ている武将なのです。
ちなみに「捏造(ねつぞう)」だとされる理由は、この件に関わる書状が吉川氏側にしか残っていないから……ということらしいのですが、そもそも「内通」や密約(特にその密約やぶり!)に関わる書状が、あちこちに残っているわけが無い??ようにも感じるものの、まぁ仮にそうだとしても…
私なんぞの印象で言わせていただくなら、実のところ広家は、若い頃から自身の=吉川氏の所領の少なさに不満をつのらせていて、あろうことか他家の、小笠原氏の養子になろうとまで画策した過去があったのは、打算的なのではなくて、それだけ「確信犯」的な願望のマグマが、広家自身の中で育っていたからだろう、と感じられてなりません。
と申しますのも、当ブログでは……
(9年前の当ブログ記事より)
実は「自身の所領の少なさに不満をつのらせる」のは
「武断派」武将の共通項。→ それが朝鮮出兵や関ヶ原合戦の
大きな原動力になった、と思われてならない。……
↓ ↓ ↓
という風に、当ブログでは、かつて朝尾直弘先生が豊臣大名を分類した「集権派vs分権派」という考え方を踏まえつつ、より大上段に構えた言い方では、
郡県制(=中央集権)vs封建制(=分権統治)
とも言える深刻な路線対立が、政権内部や豊臣大名の間に「横断的に」生まれていたように見え、それを具体的な人物で申せば、
中小大名を束ねた吏僚派の石田三成 vs 武断派をまとめた大大名の徳川家康
という有名な対立関係に発展して、豊臣秀吉の死後はもう修復不可能になって、両者が力で激突したのが「関ヶ原」であろう…などと申し上げてまいりました。
では、そもそも当時、なぜ「武断派」武将らが「自身の所領の少なさに不満をつのらせた」かと言えば、まさに吉川広家の周囲の毛利家中の面々がそうなのでしょうが、有力大名のふところに手を突っ込む形での、天下人お気に入りの“一本釣り”抜擢人事やその破格の領地拡大が横行していたから、と言わざるをえないのではないでしょうか。
例えば小早川隆景です。 高松城の水攻め合戦後に、羽柴軍への追撃を制止したのが隆景であったことから、秀吉の絶大な信頼を得て(その後の大戦果は無くても…)伊予一国35万石、後に筑前・名島城33万石へと移封になり、それらは小早川氏の独立大名化で毛利を分解したい、との秀吉の思惑と言われるものの、隆景はそれに付き従って有力大名=輝元と並ぶ五大老へとのし上がりました。
似たような形で、その容姿が秀吉に気に入られた毛利秀包(元就九男・広家の叔父)は、筑後・久留米城13万石の独立大名となりましたし、
一時は毛利宗家・輝元の養子だった毛利秀元(元就四男の穂井田元清の子・広家のいとこ)も、別家の独立大名として長門一円など18万石を得ていて、
さらに毛利氏の外交僧だった安国寺恵瓊(えけい)も、石田三成と通じるなどして、6万石の独立大名化を果たしました。
それに対して、吉川広家は、輝元の家臣という立場のまま11万5千石をあてがわれたものの、例えば関ヶ原以前の豊臣「武断派」七将の石高は、おおむね10万~15万石と少々というのが相場であり、まさに“このカテゴリーに”広家も片付けられていた、と言えてしまうのではないでしょうか。
戦場での実力に自信があればあるほど、「武断派」武将として、天下を騒がしつつある「集権派vs分権派」の大きな争いの中に、自分も打って出たい、との願望がぐんぐん高まっていたとしても、決して広家を責められる状況ではなかったように思いますし、その時、家康との「内通」があくまでも毛利輝元の本領安堵を第一条件に挙げていた以上は、当時の戦況や、武断政治の永続を思えば、家康との密約に飛びつくのは必然の選択と(私なんぞは)思うのです。
結局のところ関ヶ原合戦というのは、「武断派」諸将が東軍・西軍をまたいで、徳川家康に加担した戦争だったのでは―――という気がしておりまして、そういう意味では、吉川広家の評価をことさらに落とす気にもなれないのですが、いかがでしょうか。
東軍が勝った場合の戦後処理は、最初から決まっていた、
と感じざるをえない<南宮山布陣の各武将の末路>。
( 北から眺めた南宮山 / ウィキペディアより )

さて、ここで一つ、ご覧いだきたいのは、同じ南宮山に布陣したまま動かなかった武将どうしの間でも、その立場(何派か)によって、合戦後には厳し過ぎるくらいの「色分け」がなされていまして(→ 毛利秀元はその野心的な了見から「武断派」と見なしつつ)それぞれの色分けをご確認いただきましょう。
( 陣跡の案内看板をもとに作図 )
□毛利秀元(武断派)→ 参戦意欲は満々であったが、その後は結局、長府藩4万7千石の藩主となり、長州藩政にも関与しつつ徳川家光の御伽衆となる
□吉川広家(武断派)→ 敗戦後、長州藩の支藩ではない岩国領3万石の領主となり、岩国城を築城。江戸城下に屋敷を構えて参勤交代も行った
■安国寺恵瓊(吏僚派)→ 敗戦直後に毛利秀元と合流したところを吉川広家に諭されて逃亡。京都に潜伏中に捕縛されて六条河原で斬首になる
■長束正家(吏僚派)→ 居城の水口岡山城まで敗走したものの、寄せ手に欺かれて捕縛される。城の北東・佐久良谷で切腹させられる
■長宗我部盛親(吏僚派?…増田長盛が烏帽子親)→ 領国の土佐まで逃げ延びたものの、領国を没収され、浪々の果てに大坂陣後に捕縛されて六条河原で斬首
戦場では全く同じ行動を取ったのに、この結果、ということに改めて驚いてしまいます。
関ヶ原合戦は別の意味では<豊臣政権「吏僚派」一掃のための戦争>と感じてきた私なんぞには、合戦後に石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の三人がそろって「斬首」になったことも、実に象徴的な演出と思えてなりませんし、その中に安国寺恵瓊が含まれた事実(→ つまりは毛利版「吏僚派」一掃の戦争でもあった可能性?)にもっと着目してもいいはず、と思われてなりません。
かくして、吉川広家は毛利家中の立ち位置から、とても毛利全体を東軍参加へと動かすことは出来なかったため、ならばこの機会に!…という策略の底意も含みつつ「内通」という形で徳川に加担したものの、実際は、家康らの狡猾さ(こうかつさ)にとっくに負けていた(→ 周防・長門二ヶ国を広家に与える話は、そもそも無かったか、空手形だった)と言わざるをえないのでしょう。
< では岩国城の唐造り天守を、どうして倭城天守の「再現」意匠、
とまで申し上げられるか?というと……… >
関ヶ原戦後に広家が築城した岩国城は、なかなか類似例のないプランに。
さて、徳川家康や黒田長政にまんまと“だまされた”形で戦後を迎えた広家は、表立った行動を控えつつも、幕府から岩国領での築城を認められて、ご覧のような、一見、元就時代の吉田郡山城の旧本城のようでいて、なかなか国内では類似例を見つけにくいプランの城を築きました。
(※ご覧の地図は、しだいに範囲を広げて見ていく形です)
という風に、岩国城は、広島の福島正則の領国に向けて突き出した峰の突端に本丸を築き、そこに唐造り天守を建造したわけですが、ご存知のごとく、そこは城下や錦帯橋などからは見えにくい奥まった場所でした。
何故こんな場所に―――天守の常識から外れたやり方に誰もが不思議がるわけですが、広家の築城と言いますと、朝鮮出兵の際には東莱(トンネ)倭城や固城(コソン)倭城も築城していて、とりわけ「固城(コソン)倭城」が大注目と言えそうなのです。
で、ここからは、前回の高田徹先生に続き、城郭談話会の堀口健弐先生のサイト「城郭電脳日記~倭城と日本の城の備忘録~」にある、固城(コソン)倭城の縄張り図を参照させていただきながら、お話を進めてまいります。
エッ? アアアア…っと、これをご覧になってお気づきの方も多いでしょうが、この奇妙な形は、丸い部分が朝鮮式の邑城(径約350mの固城邑城)で、その南側に200m弱の固城(コソン)倭城を広家が付設したものだそうです。
ここで、まことに僭越(せんえつ)ながら、堀口先生の縄張り図を現地の航空写真にダブらせつつ、岩国城と並べてみたいと思うのです。(申し訳ございません…)
同縮尺・同方位で並べてみた固城(コソン)倭城と岩国城
そして、ともに2倍に拡大してみますと…
( 堀口健弐「城郭電脳日記~倭城と日本の城の備忘録~」固城(コソン)倭城の解説文より )
Ⅰ郭が主郭で、西側は海岸段丘に面して落差があるが、地続きの東側は帯曲輪を巡らして2段築成によっている。 東南隅に天守台Aを設ける。 現在は主郭と同レベルに削平されてここに人家が建っているが、1914年に人類学者の鳥居瀧蔵率いる古積調査隊が撮影した古写真によると、主郭面よりも一段高く築かれていることが確認できる。
岩国城の唐造り天守が何故その場所だったか、答えがここにあるのでは!?
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!!――― 邑城の外から直接、倭城に入るルートは、唐造り天守?の周囲をグルっとめぐってから虎口へ…… これぞ防御装置としての唐造りに、最大限の役割を期待した手法だったのかもしれず、このようにして「唐造り」は朝鮮の地で二段重ね、三段重ねと大発展を遂げていたのかも……
海岸段丘上に築かれた固城(コソン)倭城の標高はわずか20mほどであり、対する岩国城の本丸は標高が210mほどですから、あまりにも構想の異なる城でありながら、上記の二つが並んだ図を見て、私なんぞは吉川広家が何をしたかったのか、この岩国城の構えを、いったい誰に見せつけたかったのか、痛いほど解るような気がしてならないのですが。
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