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まずは(今回の記事のテーマのためにも)ご覧のスクショの話題から始めさせていただきたいのですが、昨年あたりから、建築エコノミストの森山高至さんが評した「クマ被害」「隈タイマー」なるものが、世間を騒がせております。
…… そんな最中に、例の大屋根リングの大阪・関西万博が始まったのは、神様のいたずらと申しますか、目新しいアイデアに飛びつく危うさ、と言いますか、私の地元、京王線・高尾山口駅舎でも似たような被害=言わんこっちゃない状況が発生しています。
これは皆様ご存じのとおり、新国立競技場などで有名な建築家の隈研吾(くま けんご)さんがデザインに取り入れた、新技術による素木(白木/しらき)の屋根や外壁オブジェが、雨ざらしのままでも耐久性があるとされたものの、実際には、想定をはるかに上回る、驚異的なスピードで「劣化」が進んでいる、という“事件”です。
自然素材の木材で「環境に溶け込む建築」「負ける建築」で人気だったが…
(某YouTubeより)
原因としては、隈研吾さんがインタビューで「保護塗料の性能が低かった」と話している事に留まらず、現行の建築基準法では、まず不燃性や難燃性が求められるため、木材の中にホウ酸塩とリン酸塩を注入して結晶化させる新技術によって、素木(白木)のような見た目の「燃えない木」を作って使ったものの、その「耐候性」の方は、ちゃんと確認されていなかった!……という、言わば“大人の事情”の落とし穴が指摘されています。
この事件は結局、われわれ日本人の素木(白木)愛好心を利用して、説明不足のまま、建築家や建設業界が荒稼ぎしたことにもなり、落とし穴を見逃した自治体などへの批判もあって、社会的な波紋の広がりが心配されていて、私なんぞは「コンクリート天守の木造再建」に対して、この事件が、余計な懐疑論のプロパガンダにつながったりはしないだろうか…と心配です。
要は、上記の建築エコノミスト・森山さんが言う「(日本の伝統建築は)気候を考慮していろんな工夫をして、神社やお寺を作ってきています。だから白木そのものに問題があるのではなくて、そういった伝統的な建築の知恵を完全に無視しています」との指摘のとおり、長い時間や経験を経て検証されたやり方(=まさに「保守」思想!)に対して、見たこともない驚きの手法で人気を博すビジネス(=現代建築家の常套手段…)が挑戦して、もろくも失敗してしまったケースなのかもしれません。
【 ご参考 】
嶋原城廻之絵図に描かれた島原城天守 → 黒い板張りの層塔型天守!?
高松城下図屏風に描かれた高松城天守 → これも?
さて、そんな「クマ被害」の話題を初めに申し上げたのは、実は、ご覧の絵画史料の島原城天守や高松城天守のように、
<< 黒い板張りの層塔型天守 >>
という、考えてみれば、これまで言われてきた天守の歴史観(→ 望楼型から層塔型へ、黒い天守から白い天守へ、という時系列のとらえ方)からしますと、あきらかに変則的な姿の天守が、当時の絵画史料や指図類や現存天守の事例などをすべて合算しますと、その累計は、そうとうな数にのぼっていた( ! ! …)という歴史的現象があります。
試しに、そうした事例を列挙しますと、上記の島原城や高松城をはじめ、
八代城、岡城、日出城、松山城、大洲城、鳥取城、和歌山城、桑名城、加納城、小浜城、松本城、白河小峰城、米沢城…
という風に、一時期は「黒い板張り」だった「層塔型天守」の候補を含めれば、かなりの数になっていて、しかもこれらは天守の先進地域「西国」の方に多かった、という意外な一面もあります。
さらには、これらに共通した具体的な構造を挙げますと、他の徳川将軍家や譜代大名などの「白い層塔型天守」に比べますと、軒の出が半分程度しかなく、それは織豊期の望楼型天守と同然の軒の深さ(浅さ!)であったと言えましょう。
【 現存例 】 松山城の大天守 → 軒の出は「半間」ほどしかない。
これはいったい何故なのか?と原因を推測しつつ、当時の事情を想像してみますと、現在の「クマ被害」を笑ってもいられない背景が、そこにあったような気がしてなりませんで、しかもそこから、タイトルの「やはり木幡山伏見城の天守は黒い天守の発祥か」との結論も出て来そうなのです。
< 意外に数が多かった、黒い板張りの層塔型天守。これをどう考えるか >
さて、今では層塔型天守と言うと、真っ白い漆喰塗りの建物、という固定観念が現代人の頭にこびりついているため、ちょっと不思議に感じられるものの、よくよく考えますと、実際の歴史はひょっとすると…
「望楼型から層塔型へ」と「黒い天守から白い天守へ」という変遷は、
現実には、食い違いのように、ズレて進行していたのかもしれず、
そのズレた間の時期は、<黒い板張りの層塔型天守>が、当然のように
全国に普及していたのかもしれない!?…
といった考え方もありうるのではないでしょうか。
ならばその時期、<黒い板張りの層塔型天守>は、旧豊臣大名を中心に、彼らの積極的な選択肢の一つとして存在していたのかもしれず、その動機は、そもそも層塔型の第一の目的が(※三浦正幸先生のご指摘のとおり)天守内部からの銃撃(弾道)を周囲にまんべんなく散らす目的だったとすれば、邪魔になる入母屋破風は無い方が良かったのでしょうし、そしてまた、「軒の出」についても(風雨が壁に当たることを覚悟してでも)小さくて浅い方が銃撃に適していたのかもしれません。!!
( 過去のブログ記事より )
< 優先すべきは、風雨から守る板張りか、耐火性や見栄えの白漆喰か。
問題の時期の人々には、「クマ被害」をまねいた感情と同じものが?…
迷いを解消したのは、「腕木」の多用による軒の深さの実現、かも >
【ご参考】8年前の記事より /『モンタヌス日本誌』から
第一の屋は窓及入口の上に斗出し、第一階の上に尚五階あり。上に進むに随ひて狭小なり。
当ブログでは8年前に、『モンタヌス日本誌』にある大坂城の天守の記述は、実は、宣教師による駿府城天守の記録が「まぎれ込んだもの」ではなかったか?などと申し上げましたが、その記述のうち、改めて気になるのが、ご覧の「第一の屋は窓及入口の上に斗出し」との文言でしょう。
このブログ記事では八木清勝先生の復元による天守模型で説明しているため、「斗出し」が玄関の屋根のこととしていますが、例えば下記の写真のように、「斗出し」は初重全体の屋根や「腕木(うでぎ)」のことであった場合も十分に考えられ、それをわざわざ「第一の屋」と断っている点は注目ポイントなのかもしれません。
その頃は、弘前城の辰巳櫓のように、「腕木」が支えたのは「第一の屋」だけ?
例えばご覧のとおり、駿府城天守が建造された頃(慶長15年頃)はまだ、重箱構造の一階と二階の間の、小さな葺き降ろし屋根だけに「腕木」があったのが普通で、
その後、それがどういうプロセスで、上の階の(最上階以外の)屋根にも広がって「腕木」全盛の時代になったかは、私自身はよく分からないものの(※そうした研究がすでにあるのなら勉強不足でスミマセンが…)こういう腕木の流行こそが、黒い天守から白い天守へと主流が移り変わったことの、「具体的な契機」だったのではないのか!?―――という気がしてなりません。
当時の人々にしてみれば、腕木を多用することで軒の出をいっぺんに大きく出来るのなら、この際、上から下まで全ての外壁を白漆喰の一色にしても、ぜんぜん恐くない、といった“そろばん勘定”が心理的に強く働いたのかもしれず、むしろその方が「豊臣か徳川か」よりも(※もちろん漆喰の低廉化とともに)天守の「黒い白い」に直結した出来事であったように………感じてしまうのです。
< やはり黒い天守の発祥?=木幡山伏見城。
天守の「黒か白か」は、まずは「軒の深さ」で決まった事柄のはず >
さてさて、当ブログは木幡山伏見城天守の色彩について、過去に岡山城天守との比較から「黒い天守の始まりなのでは」としたものの、このところの記事では「上三重が唐造りの三段重ねかも」と申し上げていて、こうなると色彩の「黒」はどうなってしまうのか?との懸念が生じています。
しかしそれは今回、ここまでに申し上げた事柄からも、「やはり真っ黒な天守だったはず」と言えそうで、その理由は、端的に、かの小倉城天守の最上階の「唐造り」が真っ黒であったこと → 外側に突き出た「唐造り」は当然、風雨の影響を強く受ける箇所であるため、黒塗りの雨戸で完全におおわれた、という事実を思えば、結論は明らかではないでしょうか。
あの黒塗り最上階が三段重ねになっていた、と想像すれば、もうこれ以上に「真っ黒い印象」の天守も無かったように感じますし、この際は、以前の記事でお見せした略図を、誤解を生まないように、真っ黒さがより際立つ表現に訂正しておきたいと思います。
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