暴走ぎみ。創建時の丹波亀山城天守は「懸出し」を片側に寄せた「黒い」板張り層塔型だったか?

【 引き続きの冒頭余談 / 前回の後半部分だけ 】

 
まるで記録映画の「紅衛兵」みたいな、ヒステリックな、深田萌絵の演説。本当に、参政党は、こんな人を党の候補者として公認するのですか?……


(※写真は「DJ学問ラジオ」様より)

こういう事が度重なると、地域の一有権者として素朴に思うのは、その地域で選ぶのが「国会議員」なのですから、立候補者には、最低でも、その選挙区内での5年くらいの「居住経験」を義務付けるべきではないのか……とも思えて来て、政党の候補者選びにとっては都合が悪そうですが、そう感じざるをえない状況です。!!…

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で、この人、本当に「紅衛兵」なのかも……と思えて来る動画もあって、好き嫌いはございましょうが、ご参考までに。→【朝香豊の日本再興チャンネル】萩生田事務所が告訴するのは当たり前 内乱罪になるわけがない

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いつもどおり!に、「化けの皮」がはがれるのが早過ぎる、小泉進次郎。
 
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( 前回記事より / 改訂版 )

さて、前々回から「黒い板張りの層塔型天守」について、それは「望楼型から層塔型へ」「黒い天守から白い天守へ」という天守の変遷が、食い違いのように、ズレて進行したために出現した形態なのかも…という推測を申し上げまして、そうした考え方を示した時系列の略図も作ってご覧に入れました。

ですが、このままですと大変に分かりにくいため、今回はこれに具体な事例を書き込んでお見せしたいと思うのですが、まずは、この略図のうちの「斜線」の意味について、ざっとお話させていただきますと……
 
 
【 真ん中の図の、薄茶色の「望楼型天守」の増減について 】
→ これは、我が国には金閣や銀閣など、四方に屋根を葺き下ろした楼閣建築の歴史もあったわけですし、その一方で、天守には「立体的御殿」(三浦正幸先生の著書など)といった見方もあるのですから、当然のことながら、天守が発祥した時点でも、すでに天守には層塔型と望楼型の両方があったはず…と考える方が自然ではないでしょうか。

その割合は全く分からないものの、少なくとも、その後の豊臣政権下で、豊臣秀吉が好んだ「入母屋屋根を三つ重ねた望楼型天守」が豊臣大名の城で流行したことでしょうから、その影響で、薄茶色の部分がこんな風に増減したのではなかったか?…と考えたのが、真ん中の図になります。
 
 
【 それに遅れて、慶長2年に現れた「黒い」天守の、減少傾向について 】
→ また当サイトでは、多聞山城をはじめ、文献や絵画史料で“外壁の色”が確認できる初期の天守は、どれも白壁ばかり、という事実に注目していて、ならば黒い天守の始まりはいつか?と申せば、おそらく慶長2年の木幡山伏見城天守が「黒い五重天守」の始まりであり、その直後に(秀吉の直臣の城において)黒い岡山城天守や広島城天守が続いたのではなかったか、と考えております。

ただし、望楼型天守が、江戸中期までに新たな出現が途絶えたため、その減少とともに「黒い」天守は数が下降線をたどり、黒い望楼型天守の最後の出現は寛永5年1628年に再建の丸岡城天守、白い望楼型天守の最後は延享4年1747年に再建の高知城天守、となったようです。

黒い望楼型天守の最後の出現、丸岡城天守。
かつては「日本最古か」とも言われたこの天守は、
実は、最も「新しい」望楼型天守の一つかもしれません。

(※それにしても、この「黒い」「白い」望楼型天守が、ともに「現存十二天守」として残っている点はやや気になる現象でして、何故ならば、もしもこれ以降に別の望楼型天守が出現していても、それが幕末までに消滅していたなら、われわれ現代人はそれを望楼型として「全く確認できない」立場だからです。……)
 

では、こうした略図の上に(見た目でも分かりやすいように)天守画イラストの天守を中心にしながら、具体的な事例を並べてみますと…

( )内は各天守の完成年 : 永=永禄、天=天正、文=文禄、慶=慶長

!――― 天守画イラストを使って並べますとこんな感じになりまして、ここには姫路城天守や彦根城天守といった有名どころが入りきらない状態でして、まことに恐縮至極ですが、さらにこの図は、当サイトであれこれと申し上げてきた独自の説が満載ですので、色々と注釈をさせていただく必要がありましょう。
 
 
【注① この図では「聚楽第・御三階」が初の層塔型天守かのようになりましたが…】

当サイトではこの他にも、蒲生氏郷の会津若松城「七重」天守(文禄元年の完成か)がすでに層塔型だった、という想定の天守画イラストも描いておりまして、先ほども申し上げたとおり、層塔型天守はもっともっと以前からあったはず、というのが基本スタンスですから、例えば図の左下隅の「太田道灌の江戸城・含雪斎」も(壁の色の都合でここに置きましたが)屛風絵に層塔型天守のように描かれている、との解釈に基づいたものです。
 
 
【注② 辰巳櫓の意匠に残った?金沢城創建天守の黒漆喰壁?について】

建物の具体像が一切つかめないままの金沢城の創建天守に対して、当ブログでは、江戸時代に金沢城のランドマークになった、非常に特異な意匠の「辰巳櫓」に注目しつつ、そこからの「逆算」で創建天守の姿を思い描いたわけですが、その辰巳櫓の壁は、残された図面で「黒色」に塗られていて、黒漆喰壁か、ねずみ漆喰壁と思われます。

しかも金沢城には、近年に復元された櫓門「鼠多門」もあって、海鼠(なまこ)壁の平瓦の目地に黒漆喰を用いたそうですから、きっと辰巳櫓の壁も、黒い漆喰壁で仕上げられたのでしょう。
となれば、当ブログの「逆算」創建天守も、色は黒色であっても、壁の仕上げ方の意図としては、「白い(漆喰壁の)天守」と同じ部類であろうと考えました。
 
 
【注③ 広島城天守の建造時期は、西ヶ谷恭弘先生のお考えを支持する立場で…】

昭和20年の原爆投下で失われた広島城天守については、かつて西ヶ谷恭弘先生がおっしゃった、
「三層以上は層塔式という寄棟形式の逓減率(ていげんりつ)が大きくなる手法で、名古屋・松江・萩・姫路城と共通する慶長後期の型を呈している。以上の点からも、原爆で失われ、今復原されている型の広島城天守の造営は、毛利氏時代ではなく、福島正則時代のことと考えられる」(『日本の城〔戦国~江戸〕編』)
というお考えに、私なんぞは今もなお強く共感していて、そのためこの天守の完成年は「慶長6年以降」とさせていただきました。

ですから、慶長2年の木幡山伏見城天守による「黒い五重天守の始まり」に呼応した形で、この福島正則の広島城天守も、同じ色彩で完成したのではなかったでしょうか。
そして一方、毛利氏時代の広島城天守については、同じブログ記事で、全く別の位置に建つ、白壁の天守があった可能性を申し上げていて、むしろそうでなくては、毛利氏がその後に建造した萩城天守の、独特の位置や白い外観について、まるで説明がつかない、と思うからです。

萩城天守(ウィキペディアより)


毛利氏時代の広島城天守は…

 
 
 

【注④ 佐倉城に移築された「銅櫓」の前身・含雪斎の壁は、当然ながら…】

さて、太田道灌時代の江戸城・含雪斎は、書斎の「斎」の名のとおり、徳川家康時代の富士見亭御文庫につながる「文庫」として、防火のための銅板張りであった可能性が高かったと思われ、それが佐倉城への移築後も踏襲されたのでしょう。したがって、防火という意味では白漆喰の側かもしれませんが、壁の造り方としては「黒い(板張りの)天守」と同じ部類としました。
 
 
【注⑤ 豊臣大坂城天守は一般に「黒い望楼型天守」と言われるものの…】

この件は当サイトのスタート時から、豊臣秀吉による大坂城の創建天守が“黒っぽく見えた”のは、大型の紋章の金金具を打ち付けた下地の窓板が黒塗りであったためで、建物じたいは黒い柱を見せた「白漆喰の真壁造り」であったはず、と申し上げて来ております。
 
 
【注⑥ 一方、豊臣秀頼による再建天守の完成年は、大幅な見直しの必要が…】



(慶長9年1604年、秀頼時代の豊臣大坂城が完成して輝きをとりもどす)

当ブログでは9年前の記事で、ご覧のような略画イラストをお目にかけていて、秀頼再建天守の完成は1604年とお示ししたものの、その後、私自身の大きな「見落とし」があったことに気づきまして、それは中心的な史料である『愚子見記』の記述の並び方でした。

「一、大坂御殿守 七尺間 十七間 十五間 物見 四間五尺 二間五尺」
このように『愚子見記』には、最上階「物見」の平面規模が「四間五尺×二間五尺」という、たいへんに奇妙な数値の「大坂御殿守」の記述がありまして、当サイトは、これは単純な書き間違いではなく、秀頼再建天守の存在を示した証拠の一つであろう、と考えて、天守画イラストを描くなどして来ました。

しかし、ここで私が見落とした重大事…とは、各天守の記述の並び方でありまして、『愚子見記』はここ以外の場所でも、天守を羅列する場合には、
<<建てられた時系列の順に並べる>>
という書き方が一貫しているようで、この点を踏まえて上記の部分を見直しますと、秀頼再建天守は「尾張御殿守」=名古屋城天守よりも「後に」完成していたことになり、すなわち慶長17年の末よりも後で、なおかつ大坂冬の陣の慶長19年秋までの間と言わざるをえません。

となると、年度リポートにも書きましたとおり、この再建天守は、徳川家康のトレードマークとも言える仮称「唐破風天守」のデザインを踏襲しているため、再建計画はおそらく幕府公認のもので、千姫の輿入れとともに始まったものでしょうから、それから慶長18~19年の完成までに「10年近い工期を要した!」という異常事態が起きていたのかもしれません。

それをあえて想像しますと、大坂城内には反対論(慎重論)がうごめいていて、工事が遅々として進まなかった……のかどうか、良く分かりませんが、いずれにしても、今回の記事を借りて、この点について訂正をさせていただきたいと思うのです。
 
 
さて、今回の記事では、図中の「黄色いクエスチョンマーク」に当てはまる、ある有名な天守(慶長14年完成)について、是非とも申し添えておきたいのです。

 
 
< 暴走ぎみ。創建時の丹波亀山城天守は、
 「懸出し」を片側に寄せた「黒い」板張りの層塔型だったか? >

 
 

明治5年1872年に撮影の、丹波亀山城の本丸南面(ウィキペディアより)

この古写真をよくよくご覧になりますと、中央の天守は、他の見慣れた白漆喰壁の層塔型天守に比べて、軒の出が、異様に小さい(浅い!)ことに驚かれるのではないでしょうか。

これは前々回から申し上げている「黒い板張りの層塔型天守」…例えば松山城の大天守などと比べても、なおいっそう、軒の出が浅いように見えてなりません。

ちなみにこの天守は、ご存じのとおり三浦正幸先生が「前身は今治城天守であり、それが初の層塔型天守だった」と主張された建物ですが、三浦先生の見立てがなかなか決着を見ない中でも、少なくとも写真の「軒の出」の様子から申せば、
< 創建時は「黒い板張りの層塔型天守」だったのではないか >
との疑いがぬぐえないようにも思うのですが、いかがでしょう。

そしてさらに申し上げたいのは、この古写真をじっとご覧になれば、窓の並び方が(特に三重目と四重目は)妙に片寄って配置されたことに、お気づきになるのではないでしょうか。

これは三浦先生の研究室から発表された立面図でも、こうした不揃いがあることは確認済みのようで、そこで何故こんな姿になったかと考えてみますと、上記の今治城からの「移築」の痕跡…とも解釈できるのかもしれませんが、これはなにしろ一城を代表する天守なのですから、そんな不手際の類いではなくて、むしろ屛風絵に例があるような……

「戦国合戦図屏風」個人蔵より




【 ご参考 】 会津若松城の復興天守に復元された「懸出し」

ということで、ご覧の「懸出し」=軒先に近い所から、天守の足元に向けて銃撃を行うための張り出しが、例えば上記の屛風絵のように、かつては階の片側に寄せた位置に設けられていて、窓の不揃いはそれらを撤去した後のなごりなのだ…という風に解釈しますと、かなり、すんなりと得心できるのではないでしょうか。

ですから例えば、ご覧のように「懸出し」を三重目の四方の壁の片側に寄せて配置しつつ、なおかつ壁面は「黒い板張り」だったと想像すれば、どこか、うっすらと“奇妙”にも感じられた(=ぬうっと立つ、のっぺらぼうな感じの?)古写真の丹波亀山城天守が、がぜん、戦闘力を前面に押し出した層塔型天守に“化けて”見えるのですが、どうお感じでしょうか。………
 

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