家康の江戸城天守を再々考→愚子見記「物見 七間五尺 五間五尺」の真意、そして「権現様御好」と「台徳院様御好」の違いを吟味するなら…

【 それは日米連携による、米国内製造業の復活へのニューディール政策らしいが… 】

話題のトランプ関税で、日本が口約束した5500億ドル=約80兆円分の対米投資というのは、どうやら、日本の超巨額の外貨準備高(1兆3000億ドル弱)を担保にして、日本の政府系機関が米国の銀行から資金調達したものを、米国内の製造業復活に向けて様々に投資して、そのリターンの1割を日本が得て、9割を米国内に留保していく、という計画だとのこと。
 
つまりトランプ大統領は、日本人の「死蔵された巨富」をもとに自国の繫栄を取り戻そうとしているわけで、これに対する日本人としての感情は色々とありましょうが、そんなことよりこの件が雄弁に物語るのは、日本の財務省の「税収の範囲内で国家予算を組みたい」という答弁が、本当に、原始人の火起こし……のごとき、時代遅れの国家運営だということではないでしょうか。

!!……… つまり、ひょっとして今、イシバやモリヤマを何が何でも辞めさせない(=積極財政の高市政権や玉木政権を是が非でも防ぎたい)というのは、財務官僚が、こうした計画の実態を日本国民に知られたくないからでは?…とも思えて来て、そもそも、なんで日本人が、自前の巨額の外貨準備等をもとにして、自国の復活や将来像を描けないのか、理不尽にも程があると思えてなりません。

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( まずは前回記事の補足を一言。)
上三重に「層塔型」を取り入れることは、必ずしも、
最上階の面積を大きく広げるための措置ではなかったようです。
ご覧の広島城天守の姿形が、まさに、それを証明しております。

――― ということで、今回の本題の方に移りますと…

(前回記事より)
東照社縁起絵巻に描かれた「ある天守」。一般には駿府城天守と言われるものの、
当サイトでは、これは江戸城の慶長度天守を描いたもの、と考えています。



(同じく前回記事より)
…… ちなみに、冒頭の東照社縁起絵巻に関しては、実は、住吉如慶筆の
「東照宮縁起絵巻(和歌山東照宮本/正保3年奉納)」の方が、上三重が唐造り?っぽくて、
いっそう木幡山伏見城天守に似ているように見えて、興味津々です。

さて、前回の記事では、ラストでご覧のような比較の画像を付け加えさせていただきましたが、この東照社縁起絵巻に関しては、2012年度リポートで故・鎌田純子先生の論考(『名古屋東照宮蔵「東照宮縁起絵巻」の製作背景について』)を参照しつつ、同様の絵巻が8本、江戸時代に作られたことをご紹介しました。

で、これをよくよく見直しますと、上記の比較の画像で並べた住吉如慶の③「和歌山東照宮本」には、それに先行した同じ絵師の①「仙波東照宮本」=川越の仙波東照宮に奉納された絵巻があったものの、それは現存せず、詳しい描写が確認できないのですが、しかしそれでも同じ絵師だったわけですから、似たような描きぶりであった可能性は濃厚でしょう。

そうして考えますと、それこそが最も古いオリジナルの描写であって、③「和歌山東照宮本」はそれを多少ブラッシュアップした描写に当たるのかもしれない……と考えた場合、上記の比較の画像は、狩野探幽の描写に負けるとも劣らない貴重な絵画史料になるのではないでしょうか。

リフレイン( 住吉如慶の絵巻の方が、上三重が唐造り?っぽくて… )

そこで、そこで、なのですが、もしもこの住吉如慶の描写の方が、狩野探幽よりも実像に近かった(!?)としたら、具体的にはどうなるのか……とのギモンが私の心の内にわいて来まして、徳川家康の江戸城(慶長度)天守については、これまでも再三再四、A案・B案・C案とお目にかけて来たものの、ここで、何もせずに済ますわけにもいかないのでは……と気がせいて来たのです。

しかも私自身、A案・B案・C案と考えを度々改めつつも、結局、なかなか天守画イラストの方に踏み切れなかった経緯もありまして、それはどこかまだ、“フルスイングで振り切った”感触が得られなかったからでして、そこでこの際、思い切って「D案」を追加することに致しました。
 
 
 
< 家康の江戸城天守を再々考 → まずは
  愚子見記の記述「物見 七間五尺 五間五尺」の真意から >

 
 


 
一、江戸御殿守 七尺間 十八間 十六間 物見 七間五尺 五間五尺
高石ヨリ棟迄二十二間半 是権現様御好也       

さて、これは『愚子見記』の有名な江戸城(慶長度)天守の記録ですが、このうち「物見 七間五尺 五間五尺」という部分は、何故こんなに中途半端な数値になったか?という点で申しますと、今日まで、ここにさほど重要な秘密が隠れているとは思わず、徳川再建の大坂城天守にも見られた「最上階だけ柱間をせばめた手法」の類いか…といった程度の認識しかありませんでした。

そこで今回、具体的に「物見 七間五尺 五間五尺」という数値がどういう風に成立したのかを推測(計算)してみますと、例えば下記の図のようにして、七尺間での「七間五尺 五間五尺」が出来上がった、と考えるのが、いちばん妥当な解釈だと申せましょうし、したがって全体を同じ柱間で均等に割り付けたわけではなかったようなのです。

「物見」最上階の平面は…


一方、天守台上の一階「七尺間 十八間 十六間」は…

このような<最上階と一階の組み合わせ>は、他の様々な天守の事例と突き合わせてみますと、意外なことに、かなり類例の少ない、特殊な「組み合わせ」なのだ…ということが分かってまいります。

そうした中でも、最も近いと思われるのが、下記の有名な「江戸御天守図(中井家指図)」でありまして、これは当サイトでは二代将軍・徳川秀忠の「元和度天守」の指図と考えて、天守画イラストの作成にも用いて来たものでした。

何故これが「最も近い」かと申しますと、最上階(物見)をよくよくご覧いただくと、いちばん外側の柱間が、若干、せばめられて描いてあるようにも見えまして、内側の身舎(もや)を七尺間とした場合、これをバカ正直に測ってみますと、ここだけは六尺五寸間(京間)になっていたように思われるのです。

そして一階の方はどうか、と申せば、たぶん七尺間で均等に割り付けられたのでしょうから、まさに上記の<最上階と一階の組み合わせ>に最も似ているのが、これ(中井家指図)と言えそうなのです。

…………… という風に考えて参りますと、結果的に、家康の慶長度天守と秀忠の元和度天守は「ものすごく似ていた」!?…か、まかり間違えば「この指図じたいが家康の慶長度天守のもの」との結論にも向かいかねず、当サイトとしては非常にマズいことになりそうでして、気が気でないのですが、断じて、そうではなかったのだ!…というお話をここから始めてさせていただきたいのです。
 
 
 
< 家康の江戸城天守を再々考 → そしてさらに
 「権現様御好」と「台徳院様御好」の違いを吟味するなら… >

 
 
 
では前出の『愚子見記』の文面を、先ほどと同じ個所からしばらく先までを、抜き出してご参照いただきたいのですが、以下の抜き出し部分は、途中を省略したり、間の行をあえて何行かダブらせて表示していますので、その点はご注意をいただきたく存じます。


↓    ↓    ↓
( 途中略 )
↓    ↓    ↓

↓    ↓    ↓
( 四行ダブり )
↓    ↓    ↓

…… という風に、ご覧の「城郭」のくだりは、まず初めに、中国大陸において城郭の西北隅などの城楼に四天王の形像を納めた話を挙げながら、筆者の法隆寺大工・平政隆が考えた、日本の城郭に天守が建てられた理由の推測を述べたうえで、
・四つの天守(=家康の江戸城慶長度天守、名古屋城天守、豊臣秀頼再建の?大坂城天守、二条城寛永度天守)を完成した時系列順に並べて、
・それに続いて、そもそも日本の天守は安土城と楽田城から始まったもの、との話をはさみつつ、
・そのうえで「御殿守当御代中井大和守差図之覚」として、九つの天守(=家康再建の伏見城天守、二条城慶長度天守、焼失した駿府城天守、家康の江戸城慶長度天守、家康再建の駿府城天守、名古屋城天守、二代将軍秀忠の江戸城元和度天守、二条城寛永度天守、大坂城寛永度天守)を同じく時系列順に並べて、
・その後に、天守や櫓を見栄えよく建てるためのコツなどの話が続いて行く、といった流れになっています。
 
 
で、ここで私が是非とも強調したいのは、この文中には「権現様御好」と「台徳院様御好」の二つの文言が含まれていて、それぞれが家康と二代目秀忠の「御好」の天守であったと断っているわけですが、こういう風に書いてある以上は、両者は完全に(様式が)異なるもの、と考えるべきだろう、という点なのです。

何故かと申しますと…

この一連の文章中の具体的な天守の事例は、いきなり「家康の江戸城慶長度天守」から始まって!おりまして、それが「権現様御好也」と言うからには、これこそが、あらゆる天守の筆頭に掲げるべきもの、との思い入れがあってのこと…だったのではないでしょうか。

ここまで平政隆が強調して書いた動機としては、それが徳川の治世の始まりにふさわしい建築だったか、それ以前の全ての天守を総括して余りある建築だったか、いずれにしても、江戸城の慶長度天守は家康の事績にもなぞらえられる天守であった、との意図が見え隠れしているように感じられてならないのです。

で、それに対しまして…

二代目秀忠の「台徳院様御好也」は、このように江戸城の元和度天守の記述の中にあるわけですが、濃い赤ラインで大きく囲ったのは、どれも、かの小堀遠州が!造営に関与した天守群になります。

で、その間にはさみ込むようにして「台徳院様御好也」とあるのですから、これは取りも直さず、いわゆる「遠州好み」と「台徳院様御好」には強い関連性があって、おそらく、多数の破風を並べた(徳川の巨大天守群に特有の)並べ方などに「綺麗さび」の極意が活かされていた、といった意味合いのように思えて来るのです。

ですから「権現様御好」と「台徳院様御好」というのは、決して二人の個人的な趣味嗜好の違いではなくて、平政隆がかくのごとく理路整然と並べて見せたとおりに、「○○様式」とか「○○流」とも言っていいような、明らかに異なる「様式の違い」を伝えた文言だった……のではないでしょうか。

(※また当然ながら、江戸城の慶長度天守と元和度天守は「高さ」が殆ど変わらなかったわけですから、そうした「高さ」に関する趣味嗜好ではなかったことも明らかでしょう)
(※なお古語の「好み」については、2012年度リポートの中で、大野晋ほか編著『岩波古語辞典』1974年刊をもとに、
 〔名〕1.趣味。嗜好。2.えりごのみ。注文。
という風に、二分の一の確率で「注文」の意味→特注の様式、であった可能性も申し上げております)

 

――― 以上のごとく、『愚子見記』が数値で指し示した「物見」最上階や一階の平面形は、決して「江戸御天守図(中井家指図)」の元和度天守ではなくて、あくまでも別様式の、家康の慶長度天守の独自のものなのだ、と強調しておきたいのです。……



(※次回に続く)

 

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