ご覧の甲府城天守台ですが、当ブログでは9年前の記事において、もしも天守が完成していたら真っ暗闇の(はずの)天守台穴倉の内側の石垣に(例えば下記写真の正面の石垣のごとく)巨石がいくつも!組み込まれていることから、この明るい状態こそ、当初からの「完成形」であって、結局、甲府城天守台の上に、天守は一度も築かれなかったのではないか…という風に申し上げました。
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こうした私の考え方は今も変わっておりませんが、前回のブログ記事から申し上げている「移築専用天守の具体策」に関連して、ここで是非とも申し添えておきない「補説」がございまして、それは端的に申せば、移築専用天守の移築順としてお話ししたうち、実は…
想定の移築順:山崎城→近江八幡城→石垣山城→(×甲府城)→淀古城→指月伏見城
ということではなかったのか??というお話です。
すなわち、三番目の石垣山城で非常に短い役目を終えた天守の次の移築先として、小田原陣に参陣していた豊臣秀勝の甲府城に白羽の矢が立ち、そういう築城計画がねられて豊臣秀吉のお墨付きを得たのではないか……
しかしその直後の秀勝の急な移封(甲府→岐阜)によって、築城計画からは「吉兆の移築専用天守」の件だけが消えて!しまって、そのまま新城主の加藤光康のもとで築城計画が(天守台の構想も含めて)実行されたのではなかったのか……という風に考えてみますと、甲府城についての様々なナゾが解けて、すとんと腑(ふ)に落ちるようなのです。
で、何故、こんな突拍子も無い想像を私が始めたかと申せば、実は、下記のごとき、非常に面白い符号が甲府城の天守台にあるからです。
【 ご参考 】甲府城天守台の平面図
(公益財団法人 山梨総合研究所 創立15周年・新世紀甲府城下町研究会設立10周年記念シンポジウム
三浦正幸先生の基調講演「甲府城の幻の天守」のPDFから抜粋させて頂いた平面図より)
【 さらに前回記事より 】石垣山城天守台についての当ブログ自前の推定図
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そしてこれら両図を、同縮尺で、左右に並べてみれば…
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!!……… この同縮尺の比較図をご覧いただいただけで、即座に、とてつもない、この上なく重大な事柄に…お気づきになられたのではないでしょうか。(※とりわけ石垣山城天守台の北東隅の妙な石垣跡の形状!…)
ちなみに甲府城と石垣山城は直線距離で70km弱しか離れていない、といった事実も踏まえますと、この件をここで是が非でも、移築専用天守の説明のうちに加えたい私の心情がお解りいただけるように思うのですが、今回の記事では、この件をごく手短かに申し上げさせて下さい。
< 補説・移築専用天守の具体策→甲府城天守台を再論。
そこは“未完の”移築専用天守の場所か >
では早速、上記の比較図の左右二つを直接にダブらせてみたいと思うのですが、三浦先生の作図をそのままダブらせるのはあまりに恐れ多いため、かわりに、同縮尺にした冒頭の甲府城地図の天守台部分を使う形にしまして、その甲府城の方を赤い表示(※中央の穴倉はやや暗い色調)にして、方角を調整しつつ、両者をダブらせてみますと…
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このように両天守台の台上は同一のもの、と言っても過言ではないほど、形も広さも良く似ておりまして、ためしに例の「移築専用天守の5間四方の身舎(もや)」=下記の黄土色の四角部分を重ねてみれば…
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ご覧のとおり「5間四方の…」は甲府城の穴倉をおおうサイズとして適当な大きさですから、きっと穴倉の内部には天守一階を支える柱等を建て込みつつ、その上に移築専用天守の身舎を組み上げて、周囲には(それまでの通例とは異なって)石垣山城天守の「入側」部分もそっくりそのまま移築させようとした?…と考えても、構造的には何ら無理は無かったはず、と申し上げて良い状況ではないでしょうか。
(※ただひとつ留意すべきは、穴倉の内部には天守一階を支えたはずの柱の「礎石」の類いが(入口の戸の礎石を除けば)ほとんど見当たらないことでありまして、これはやはり「甲府城天守台の上に天守は一度も築かれなかったのでは」と申し上げた当ブログの見方を補強する事象かもしれません…)
かくして、石垣山城天守の「入側」部分もそっくりそのまま甲府城に移築させようとしていた…と考えた場合、そこからは“タナからボタ餅”と申しますか、思わぬ副産物として、幻の石垣山城天守台のかなり詳細な形状が逆算できてしまう!!のです。
どういうことかと申せば、考え方のポイントは、下記の写真や図にある「甲府城天守台のちょっと異様な鋭角の隅角」がどうして出来たか、を想像してみることであり、これが逆算の出発点になります。
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ご覧の甲府城天守台の(正面の)するどい鋭角の隅角というのは、他の城にこうした類似の石垣が全く無いわけではないものの、甲府城の場合、ここを天守への侵入者に横矢をかける場所と想定しますと、三角の隅の奥の方は、どうにも使いようの無いデッドスペースになってしまうわけですから、天守の正面にわざわざこんな鋭角を作る必要性は乏しかったのではないでしょうか。
そこで、この鋭角は、なんらかの(天守の移築に関わる)不可抗力による事情から、結果的に、こうなってしまったのだ……という風に想像力をたくましくしますと、ある考えに到達できまして、そのヒントは(前述のごとく)石垣山城天守台の北東隅の“妙な石垣跡の形状”にあります。
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この妙な形状の石垣跡を、天守台の上から見下ろした様子
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この崩壊した石垣跡をジッと見つめていますと、ここは甲府城の天守台と同様に、付櫓の類いが突出していた痕跡であろう、と思えて来るのですが、さらに周囲の石垣との関連性を考えれば、ここにはおそらく部分的に二段式の石垣が築かれていて、甲府城への“そのまま移築”を本当だとするなら、例えば、下記のような石垣山城天守台の全体像(青緑で図示)も見えて来ると思うのですが、いかがお感じでしょう。
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かくのごとき天守台の全体像をご覧いただくのは、石垣山城天守台の北東隅には(登閣者の導線が立体的に交差する)二階建ての付櫓が建っていたから、と考えた結果でありまして…
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こうであれば、結果的に、甲府城の天守台の正面に異様な鋭角が(わざわざ)設けられたことにも、多少の説明がつくのではないでしょうか。
しかしこれは結論を急ぎ過ぎ……とのご感想もありましょうが、私なんぞがここで申し上げたいのは、当時、羽柴(豊臣)秀吉じまんの「吉兆の移築専用天守」は彼の国内再統一をどんどんスピードアップさせていて、この頃が最も輝いていた時期であり、甲府城の天守台は、まさにそれを“まるごと受け入れる”ための黄金の「座」として計画されたもののように思われ、天守台のまま完成状態になるのも、それでもなお十二分に価値ある姿、とされたのではなかったのか、と。………
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