続々・すぐ東隣りで――伏見城の成り立ちから見える、茶亭学問所と山里丸が「秀吉の隠居屋敷」だった可能性

Congratulations!!
Prime Minister Kishida intends not to run in LDP presidential election.

日本の次期首相に、保守派から絶大な人気を集める高市早苗大臣が就任するチャンスが、具体的に目の前にあらわれて来ました。

(→8月21日報道では自民党員の59.3%!が次期首相に熱望と)
(※他の有力候補が出られない個々の事情は、こちらの記事をご参照。)

(*For more information on the individual circumstances that prevent other viable candidates from running, please see this article.)
 

【 追記 】ところが今、自民党内外で高市さん「排除」の策略が、怒涛のごとくに進行中だとか。!!!
例えば、突然に売出し中のコバホーク小林鷹之=財務官僚出身と山水会などは、決選投票では高市さんに絶対に投票しない人々!…と理解すべきでしょう。メンバーには長島昭久、細野豪志、松川るい、といった各議員もいますし、支援するのが旧安倍派内の反安倍グループの頭目だった福田達夫…といううえに―――
 
コバホーク自身が、つい最近まで緊縮財政派だった(実は2014年の消費税「増税」の立役者だった!…5%から8%へ主導=アベノミクスの足を引っ張った張本人)とか、最近も積極財政の議連から誘われたら…断った!だとか、半島出身者のスポンサーがいるとか、妻の秋津夫人がもろにリベラルの人権派弁護士っ……だとか、そもそも、あっという間に推薦人20人を集められた“背後関係”→財務省の暗躍(おどしとアメ)とかが言われ始めています。
 
もしかすると、今回のキシダ不出馬から総裁選への流れは、ぜんぶ「財務省」がストーリーを書いていて
(→バイデン撤退・エマニュエル退任による「トランプ再選後を耐え忍ぶ財務省の絶対防衛ライン」を敷くため)去年の特捜部「裏金」捜査を利用した、積極財政を言う真の保守派つぶし・旧安倍派つぶし・高市つぶしの「出来レース」が進行中なのかも。
 
つまり高市さんの推薦人を減らすための、計画的・意図的な多人数の出馬なのだとしたら、恐っ……… これは国民的な戦いの狼煙(のろし)が上がっているようで、この上なく要警戒状況です。

コバホークを支援する自民党議員とは?
( 出馬会見の同席者たち。旧安倍派が多い。なぜか顔がうつむいて… こんな場所で
 “さらし者”にされるのは珍しいこと。やはり、おどしとアメで、動員されたのか? )






この男、3割の岩盤保守層を食い荒らしに来た、新種の冷血ミュータント
(=タカ派を装った、財務省出身の緊縮財政派・財政再建派)なのでは。

→ 今にして思えば、昨年の「裏金」捜査とは、主を失った旧安倍派を「奴隷化」して、
「積極財政」を「根絶する」ための財務省の策略だったのかと。さらなる「増税」路線へ!

これに触発された小泉進次郎も出馬するようですが、“実力的にどう考えても無理”(コバホーク側近の大塚拓談)の進次郎政権が一年ももたないことはストーリーのうちで、ねらいは、世代交代で、高市政権の芽をつむことなのでしょう。
 
今やっているのは<<高市早苗「排除」自民党総裁選>>なのだ、ということがハッキリして来ました。
→→調査で党員の59.3%が望む、と出た人物を「排除」する政党が、世界のどこにありますか!? 自民党は暗黒結社ですか

 
…… 否、もはや日本中で「笑ってもらう」しか、党が生き伸びる道は無いのだ、と覚悟した先生方が多いのかも。 いよいよ日本を世界の笑いものに?


(※ご覧の画像はnote # 小泉進次郎構文より)
 
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延暦13年794年、現在の京都につながる「平安京」を築いて遷都した桓武天皇。
桓武平氏の始祖でもあり、羽柴秀吉は織田信長にならって長く平氏を称していた…

( 写真は延暦寺蔵『桓武天皇像』より )


( 前回記事より / 豊臣秀吉による伏見城は、築城の極地か、それとも… )

 
 

< 続々・すぐ東隣りで―― 伏見城の成り立ちから見える、
  茶亭学問所と山里丸が「秀吉の隠居屋敷」だった可能性 >

 
 

さて、前回記事のラストでご覧いただいたこの図は、伏見城がどういう城だったのか、これまでの皆様の認識からは大いに外れたものでしょうが、これは指月伏見城が(その場所が泰長老の丘の上であれ、桃山町下野に本丸があった場合であれ)どうして築城当初から惣構えで囲んだ「城域」の東半分を、自然丘陵のまま、築城したのか?――との巨大な疑問に対して、それに答えられる、ほぼ唯一の画期的な回答になるのではないでしょうか。

(※これは例えば、松江城の、本丸の北半分に広い後背地(→ 初代藩主ゆかりの上御殿跡や若宮八幡宮など)を設けていた状態とは、まるで規模が異なるものでしょう)

山田邦和先生の桓武天皇陵「桃山丘陵」説に立てば、こうした話ができるわけですが、しかしこれは、天下統一の覇者・秀吉による「築城の極地」と評していいのか、それとも、絶対的な天下人が迷い込んだ「余計きわまる構想」と言うべきなのか、にわかには判断できず、そこで浮上する問いとして……

 A.動機は何だったのか? 西に城下町、東に天皇陵という異次元のものを、惣構えでひとくくりに囲んだ意図は。とりわけ朝鮮出兵との関係はあったのか。
 
 B.築城プロセスはいかに? 最初にそこにあったのは景勝地の伏見と、巨大な桓武天皇陵とすれば、「秀吉の隠居屋敷」から始まる築城過程はどうなるのか。

という二つの大きなテーマが浮上しそうで、今回の記事では(※前回までの曲輪ごとの紹介と並行しつつ)「B」の築城プロセスから(先に)申し上げてみたいと思うのです。
 
 
で、まずは、必要な補足の話題をひとつだけ……

【 補足 】 過去に話題になった、木幡山の小円丘「未発見の古墳」は別物らしい。



(※ご覧のレーザー測量図は、PDF「発掘された伏見城 ~近年の調査成果から~」からの画像引用です)

さて、冒頭の図解をご覧になったとき、とっさに「2009年の桃山陵墓地の立ち入り調査で見つかった未発見の古墳?…」を思い出された方も、いらっしゃるのではないでしょうか。

(記事の文面から)

豊臣秀吉築城の伏見城があった「桃山陵墓地」(京都市伏見区)の二の丸中央部に、城郭としては不自然な直径十数メートル、高さ4~5メートルの小高い土盛りがあることが20日、宮内庁の許可に基づく日本考古学協会などの陵墓調査で確認された。
城郭を描いた絵図などには記載がないため、研究者からは「未発見の古墳では」という声も上がり、今後の研究に向けて大きな謎が浮かび上がった。同志社女子大学の山田邦和教授(考古学)は「築城時になぜ壊されなかったのか不明な点も残る」と指摘した。
……
 
 
というものでしたが、調査結果の報告時に公表されたレーザー測量図でも、木幡山城の二の丸の南部に、はっきりとそれらしき小さな円丘が見えたため、かなりの誤解をまねいたようです。

実は、この円丘については、山田邦和先生がご自身のサイト「平安京閑話」において、
「私の談話も新聞に出ていたが、私の真意とはズレを感じた。マスコミへの対応の難しさをつくづく感じさせられた」
と書いておられるものであり、例えば『ヒストリア』第222号(大阪歴史学会編/2010年10月発行)では、山田先生がこれを「後期古墳を思わせるような腰高のマウンド」「その意義についても議論が戦わせられた」と述べるにとどまっていて、おなじみの中井均先生は「こちらは加藤図にも掲載されておらず、その成立時期から検討する必要があろう」と、切って捨てているような?感じなのです。

かく申す私なんぞも、木幡山の二の丸にあったはずの「桓武天皇陵の本体」というのは、二の丸の内部では最も高い位置の「北部」にあったはず―――と強く感じている者ですので、この小さな円丘はやはり「別物」と申し上げざるをえません。

で、ひとつの考え方としては、徳川幕府が伏見城を再建した際に、幕府は桓武天皇陵がすでに盗掘を受けた状態(→前回ブログご参照)だと知っていたと仮定しますと、再建時に「陵墓の形ばかりの移設」を行った可能性もありえそうで、この円丘はその跡かもしれない…とも思うのですが、いかがでしょう。

(※ここで補足の補足 / ちなみに近年、山田邦和先生の「桃山丘陵」説に対抗する形になった「稲荷山の南の野=深草」説に関しては、次回に、当ブログなりの反論を、きっちりとさせていただく予定です… )
 
 
 

< B.築城プロセスはいかに?
  最初にそこにあったのは景勝地の伏見と、巨大な桓武天皇陵とすれば、
 「秀吉の隠居屋敷」から始まる築城過程はどうなるのか。>

 
 
 
さて、「B」をさぐるうちに非常に気になった資料が、下記の、PDF「指月城跡・伏見城跡 発掘調査総括報告書」にある大正時代の伏見(及び木幡山の徳川再建伏見城跡)の測量図でして、ここに描かれた本丸の「形」があまりにも特徴的で、いつも見慣れた加藤次郎先生の(明治天皇稜を含んだ)復元図とは、まーるで印象が違うため、気になって仕方がありません。………

!……ええっ、木幡山城の本丸は、こんなに南部が細く絞り込まれていたの?…と驚くばかりですが、よくよく見ますと、これは明治天皇陵(伏見桃山御陵)が、まだ上円下方墳の陵墓として完成していなかった頃の図のようなのです。

【 ご参考 】 大林組八十年史から引用した、御斂葬前の伏見桃山御陵の写真

このように御陵は大正元年1912年秋に宝壙(ほうこう)や祭場殿、大鳥居などが約三週間で完成し、崩御した明治天皇の埋葬がなされたものの、その他は、例えば230段の大階段などは大正8年1920年の完成、という風に、段階的に整備が進んだそうですから、上記のような測量図もありえたのかもしれません。

それにしても城郭ファンとしては、本丸の「形」の方が気になって仕方がなく、驚きとともに、こんなものを見てしまうと、城郭ファンなら即座に、こういうことも連想するのではないでしょうか。……

<< 築城前、木幡山の本丸~二の丸は、ひとつながりの山丘だったのかも >>

こうして一つの山丘を二つにしたり、二つの山丘を一つにしたり、というのは豊臣流の大土木工事ではお手のものだったのでしょうから、まぁ、十分にありえたこと……と、ご同意いただけるように思うのですが、こんなことも含めて、築城前の桃山丘陵の桓武天皇陵の「状態」については、色々と予想外の事柄もあるようで……

前回までにご紹介したとおり、桓武天皇陵の本体は、鎌倉時代に朝廷の役人が「件山陵登十許丈、壇廻八十余丈」と報告したそうで、「壇廻八十余丈」つまり周囲が240mあまりとのことですから、図中の赤い円で、周囲240m余≒直径80mの広さを示してみました。

桓武天皇陵は山陵の円墳と考えられるそうですが、ただし、現地の複雑な地形との兼ね合いを考えますと、周囲240m余というのは、おそらくは円墳の一段目の上の広さを測ったものではなかったでしょうか。

となると桓武天皇陵は、円墳の歴史上でも最大規模になりかねません。 と申しますのも、高さの「件山陵登十許丈」については、二の丸の標高が約100mであり、至近にある「治部池」の水面が標高約70mですので、当時はこれがもっと北側まで水堀として広がっていたなら、その水面から測った場合、記録にある高さ「十丈」=約30mを物理的にしっかりと実現できたことになるからです。
(→ したがって、水際を周縁部とすれば径150mほどの史上最大の円墳に?…)

 
 
< そして文禄元年の「秀吉の隠居屋敷」の造営へ。その場所は、
  桓武天皇陵を徹底して管理するために、参道を占拠するような形で
  隠居屋敷が造営されたと考えれば、それはつまり後の…… >

 
 

!!…… 文禄元年の夏、朝鮮出兵のさなか、母・大政所の葬儀を終えた秀吉がにわかに思い立った「秀吉の隠居屋敷(伏見御屋敷/太閤隠居所)」造営から始まった伏見城の歴史というのは、そもそも「秀吉の隠居屋敷」はどこにあったか?という基本的な事柄についても、具体的な手がかりが乏しく、解明は困難、とされる状況が続いてまいりました。

しかし、本当にそうでしょうか?―――というのが、私の基本的なスタンスであり、文献上に残る「茶会」の記録と、「桓武天皇陵」という存在とを、一緒に組み合わせて考えたとき、おのずと結論は見えて来るものだと思えてなりません。

例えば、その点に関して、前々々回からご登場いただいた故・桜井成廣先生は、著書で隠居屋敷の工事は「四十日間程継続したと見え」と書き、さらに以下のようにも説明していて、大きなヒントを残してくれた、と感じております。(※文中二箇所に補足を加えました)

(桜井成廣『豊臣秀吉の居城 聚楽第伏見城編』より)

豪華絢爛の反面に幽玄閑寂な茶趣味を有したのは桃山芸術の特色であって、殊に伏見城は最初から太閤が前記の如く利休好みに造りたいと志して居た程であり、(※文禄二年に再び)名護屋から戻ると間もなく閏九月二十二日から三日間伏見で盛大な口切の茶の湯を催して築城に従事すべき諸大名をもてなした。
そして
(※指月伏見城の)築城準備中の翌文禄三年二月二十一日には早くも伏見の「御山里」で茶会を催し五席あった事を『駒井日記』は記して居る。
 
 
ということは、伏見城の「茶の湯の空間」とは、隠居屋敷の完成時から、指月伏見城の築城前から完成後に至るまで、ずぅ―――っと「並行」して存在し続けていた、と考えた方が合理的な状況証拠があるわけです。


(※注釈/ご覧の図は、茶亭学問所や山里丸の部分だけ、背景の測量図に新しい調査報告から抜き出したものを合成しております)

しかもその空間は、隠居屋敷や指月伏見城から離れた“別個の空間”ではなかった、ということは、徳川家康の侍医・板坂卜斎の『慶長記』にある、わりと有名な一文が、ちゃんと説明しているのではないでしょうか。

「一、文禄三年秀吉公山城国伏見指月をかりそめに城かまへ遂日次第にけつこうに石かけ御天守出来、…」

という文面のうちの「かりそめに城かまへ遂日次第にけつこうに」との表現は、まさに、このような築城プロセスのことを言ったのではないかと思うのです。

かくして本丸~二の丸(西丸)~治部少丸などは、後から「秀吉の隠居屋敷」=茶亭学問所と山里丸に付け加えるように築かれたものの、その位置などは最初から計画されていて、桓武天皇陵や惣構えや城下町や街道との位置関係についても(→ さらには舟入堀と天守との位置関係をも)しっかりとデザインされたものだった、と思われるのです。

そして隠居屋敷の造営の時点で、桓武天皇陵の「管理」という同じ目的から、陵墓の円墳がきれいに切り離されたのではなかったか、と考えている次第です。

(※ここでもう一歩、譲った考え方を申し添えておきますと、築城前の桓武天皇陵は「ひとつながりの山丘」の北東側の尾根に「旧参道」があったのを、豊臣政権が、発展する城下町との接続も容易な南西側に「新参道」を設けて、参道を付け替えた?…という考え方もあるのかもしれません )

※           ※           ※
 
木幡山時代の異様に広くなった二の丸。
ほとんどが桓武天皇陵の本体で占められていたのかも…

(※次回に続く)

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