カテゴリー: 豊臣大坂城・石山本願寺城・徳川再建大坂城

 

続・再建大坂城――試しにイラスト化。保留?としての「無地」白壁づくしの天守を見上げれば…

【戦争の結末が見えなくなったプーチン】


( 悪 夢。 独裁者の戦争指導… )

独裁者一人の暴走によって、いまやロシアは 西側諸国から金融封鎖を受け、ソ連時代に続く「第二の国家破綻(はたん)」が見えて来た、とも言われます。
……… 独裁者の 妄想 の恐ろしさ。 話はこれに尽きるのでしょうが、一方で「平和や命のために 現状の侵略は 許しましょう」という発想も、危険この上ない情緒的な判断であり、それを許したら「侵略はやったもの勝ち」の時代になってしまいます。

※           ※           ※

※ ※ ただ、ウクライナのゼレンスキー大統領は、米議会でのオンライン演説で 「真珠湾攻撃」を例に挙げて 飛行禁止区域の設定を求めたようですが、これは断固として「抗議」すべき事柄でしょう。
いまロシアがやっている産科医院への攻撃、アパートへの攻撃、劇場への攻撃と、真珠湾攻撃は同じだ ! ! とされてしまったのですから。
 
で、どうしても ゼレンスキー大統領が例を挙げたいなら、軍事拠点のない市街地 = 無抵抗の市民をねらった、非人道的で 残虐(ざんぎゃく)極まりない爆撃としては、本来なら「東京大空襲」やドレスデン空襲を挙げてしかるべきだったのです。
 
あのような認識の(※自分の都合だけで言いつのる)人物に、大空襲の地「東京」の国会で 演説させていいのでしょうか。 むしろいま世界が注目する人物だからこそ、これを機に、本人に間違いを知らせて、訂正や謝罪の意思が出て来るまで、とりあうべきではなかったはずです。………

 
 
【 追 記 / 3月23日】

 Такеда Шінген(1521-1573)

«Людина – це замок, людина – кам’яна стіна, а людина – рів. Співчуття створює союзника, а образа створює ворога».

※           ※           ※
 
※           ※           ※

ハーマン・メルヴィル著『白鯨』1851年(※近年のフランス語版の表紙より)

なぜ突然に、こんなものを? とお感じでしょうが、今回の新作イラストをご覧になれば、きっとご納得いただけるでしょう。 で、まずは…

【 前回記事のおさらい 】
絶対に沈下の恐れがない地点に築かれた高い天守台と、沈下の可能性もありえた場所に造営された本丸御殿。→ ひときわ高い天守台は(名古屋城と同様に)…



言わば、幕府による徳川忠長「監視用(威圧用)」の天守台であったのかも。

という風に、前回の記事では、幕府による大坂城の再建工事では、ひときわ高い=重い天守台を きっちりと造ることが最優先の事柄になっていた(→ 本丸御殿は二の次だった)可能性を申し上げたわけですが、それは例えば名古屋城の、本丸側も高石垣にした天守台と同じく、幕府や二代将軍・徳川秀忠による 徳川一門への「牽制」や「威圧」のため、と考えるべきものではないでしょうか。(→ 天守は天下人のもの)

もしそうであれば、再建大坂城の天守台は「高さ」とともに「急な傾斜角度」も気になるところでして、そこからあえて申しますと、現在ある復興天守は、もう少し 背の高い建物であった方が、急な天守台にぴったりだったのでは?… との正直な感想も申し上げざるをえません。

→ → ほっそりしたプロポーションで描かれた願生寺蔵「大坂御天守指図」

したがって、ご覧の再建天守の「総高」というのは、それだけ、幕府の徳川忠長に対する警戒心を示したもの、と私なんぞには思えて来てならないのですが、――― そうなると勢い、次なる興味は 再建天守の「色彩はいかに?」 という観点でしょう。

そこで、江戸時代に描かれた大坂城の城絵図の類いをいくつか見て行きますと、おしなべて、あまり際立った特徴も無い白亜の五重天守、といった類型的な描写が多くて、史料的には最上階の屋根が銅瓦葺きであった以外は 確認できないわけですから、全くのところ、とらえどころがありません。

有名な古写真の本丸三重櫓

現に幕末の古写真を見ても、櫓の壁面は、破風板なども含めて、白漆喰の塗り込めですべて統一されたようですから、結局のところ、要は、そういう意匠をどう「解釈」するか? という問題になるのではないでしょうか。

ですから、前回記事の「ゆくゆくは」問題とのからみで申せば、いわゆる「保留」という意味から、天守にも特段の意匠や工夫はほどこされず、当時の一般的な白壁が「無地」として積極的に選択されたのでは…… という風にも思えて来るわけで、その姿はまさに、松岡利郎先生の考証で、板垣真誠先生が描いた下記のイラストレーションに該当するのでしょう。

『歴史群像名城シリーズ1 大坂城』より

……… ただ、ご覧のイラストレーションはせっかくの描写ながらも、カットモデルであり、また空から見下ろした角度でもあるため、当時の人々が、地上からグイッと見上げた際の建物全体の印象は つかみづらいものですので、この際は、ご覧のイラストレーションに基づきながら、下から見上げた「見た目の画」を独自に作ってみようと思い立ちました。

ただし…

【独自の加筆 その1】
前出の願生寺蔵の指図によりますと、最上階だけ 一間の寸法が異なっていて、そのようにしてわざわざ変化をつけたのなら、柱の数を外観に見せる意図もあったのかもしれませんので、(姫路城の大天守と同様に)最上階だけ 柱を見せた「真壁」にしていた姿で描いてみました。

【独自の加筆 その2】
また願生寺の指図では、初層妻側の千鳥破風はどうも角度が “ゆる過ぎる” ように感じられてなりませんで、これはひょっとして、完成時は内閣文庫蔵の指図にある「唐破風」があった(改修された)名残りなのでは?… との妄想をふくらませて、この位置に合うサイズの唐破風に変えてみました。

さらには、現存の大阪城の櫓の造りにならって、最上階の屋根だけに「下り棟」があり、その他の破風には下り棟が無かった、という形にしました。

その結果は……

( まずは 現状の 大阪城天守閣 / 南側より )


↓        ↓        ↓

!!―――― 我ながら、これは「白鯨」Moby-Dick のような天守だ、こんな姿で当時の人々には見えていたのか… と思わず感じ入ってしまいまして、それで冒頭の本の表紙をご覧いただいたわけですが、結果的には、たとえ「無地」の白壁づくしであっても、これはこれで、かなりの “無言の圧力” を! 城主の候補(徳川忠長)に与えたのではなかったでしょうか。

【独自の加筆 その3】
上記イラストでもお分かりのように、願生寺の指図どおりであれば、三重目と四重目の「窓」は床からの高さが2m以上あったことになり、そうなると破風の妻壁には、名古屋城の大天守にも似た小さめの(むしろ使い勝手の良い)窓があったのかもしれず、そのように描きました。



(新旧の比較)

結局のところ、高さは復興天守よりも「頭ひとつ」ぬけ出る形になりまして、これならば、現存の天守台石垣の急角度にも ぴったりだった、と明確に申せましょう。

(※※また余談ながら、現存の天守台は 近い将来、メンテナンスのための「積み直し」が急務になっていることも、改めて感じました…)

――― で、こんな風に並べたツーショットを見ていて、ふと、頭の中に “オール阪神・巨人さん” を思い浮かべてしまったのは…… 余計でしたか。


< 昨年8月の 記念公演 より >

(※ 補 足 / 今回の話題の天守については、世間で「元和期大坂城天守」という言い方が広まっておりますが、元和年間はちょうど大坂城に “天守が無かった時期” に当たるため(→ あったのは焼け残った豊臣の天守台?…)聞いていて違和感を感じますので、当ブログではそう言わずに、また「復活」という意味を込めて、再築でもなく、徳川再建天守 と申し上げております)
 

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。