改定版・スピンオフ画像化/徳川家康が再建した伏見城天守も「銀」の錺(かざり)金具とすれば…

【改訂版についてのお知らせ】

今月10日に今回の最新版ブログをアップしましたが、その中に、私がまだ二十歳台(今から30数年前)に行なった罪過… 伏見城跡をどうしても自分の目で見たいとの願望から、明治天皇陵に含まれることを知りながら、本丸跡に入ったことを、天守台跡の土壇の写真とともに、当記事にアップいたしました。

当時の私は、まだテレビの仕事もした事のない、企業向け映像プロダクションの一社員の身でした。ですから上記の伏見城跡の件はNHKとは関係の「か」の字もない時期のことであり、現地で見た様子などは、今の今まで誰にも話したことはなく、私が黙って墓に一緒に持って行けばいいのか、もしくは遺言代わりに土壇の寸法等を皆様に披露すべきか… と考えていた事柄でした。

しかし、天皇陵について、それをけがす行為は断じて許されることではなく、今回の記事をそのまま掲示することに対して、猛烈な抗議をされる方がいらっしゃいましたことは、私としては、むしろ深く感謝すべきことと考えます。

そこで当記事は「改定版」として、改めてアップさせていただくことにします。

( 作画と著述:横手聡 )


(本多博之著『天下統一とシルバーラッシュ 銀と戦国の流通革命』より)

(徳川幕府の)貨幣製造の組織である小判座(金座)は、まず慶長六年に江戸と京都に置かれた後、同十二年に駿府(家康の隠棲地)、さらに元和七年(一六二一)に佐渡に置かれた。一方、銀座は、まず慶長六年に伏見、同十一年に駿府、そして年不詳ながら長崎にも置かれた。…
 
 
前回に引用の『天下統一とシルバーラッシュ』には「銀座は、まず慶長六年に伏見」とありました。

ということは、もしも前回記事のとおりに、駿府城天守の「銀」の錺(かざり)金具が「銀座」設置と関連づけた意匠であったのなら、同じく徳川家康が再建した伏見城の天守にも「銀」の錺金具が輝いた可能性は、かなり濃厚なのでは――― という風に思えて来ます。

で、家康再建の伏見城天守はその後、二条城に移築されて寛永度の二条城天守になったとも伝わりますが(一方で造営材木帳に基づく新築説もありますが)移築説の場合において、私がどうしても想像するのは、家康とたいへんに縁の深かった天守だけに、きっと大和郡山城天守 → 慶長度二条城天守のケースと同じく、一切の改築を加えない、言わば「そのまま移築」が行なわれたのでは――― という風にも強く感じるのです。

と あえて申しますのも、2013年に、伏見城跡を大阪歴史学会や京都府が調査したところ、

「本丸と二の丸を渡る巨大な土橋(長さ約40メートル、幅約5メートル)や幅数十メートルの堀、天守の土台(一辺十数メートル、高さ約5メートル)など多数の遺構を確認した」
(※日経新聞「秀吉最後の城を全域調査 京都・伏見、創建時の石垣確認」より)

といった調査報告があり、現状の天守台跡の土壇は「一辺十数メートル」であると改めて確認されました。

加藤次郎著『伏見桃山の文化史』1953年刊より
加藤次郎氏作成「秀吉在世時代 伏見城 丸の内図」(部分)



(※上記書には図中の天守台跡の説明文は特に記載されておりません)

【補足】→ 今井邦彦氏のツィッター画像

ご覧のとおり、天守台跡の土壇は、天下の名城にしては <期待外れなほどに小規模> という印象ですし、上記の「一辺十数メートル」とは、京間で換算すれば一辺が8間(南北はやや長く9間か10間)程度の規模でしかないことになります。

かつては土壇の周りに石垣が張られていたことは明白でしょうが、それにしても、有名な城絵図の墨書の「16間×18間」!といった巨大天守台の跡とは、とても考えられないものであり、その後に思い切った規模縮小で築き直されたはずで、あえて申せば… 石垣を含めて「東西10間×南北11間」程度の天守台かと思えてなりません。

これが私が「そのまま移築」を感じている第一の理由でして、二条城への移築があったなら、天守の木造部分は <100%のまま一切 規模を変えずに移築できたはず!…> という印象しか無いのです。

中井家蔵の建地割図「二條御城御天守」

(※当図の細部をめぐる問題点は記事の後半で…)

さて、ご覧の建地割図は(※今年の注目ニュースの一つ『木子家指図』と同様に)『愚子見記』の「二條御天守 七尺間 十間九間 物見 四間三間」という記録に合致するものですが、図の左側に「南妻」とあるように、ご覧の南面の初重の幅(梁行)が七尺間の9間なのですから、京間では9間半になり、前述の「東西10間×南北11間」程度の天守台には “ほぼぴったり” で納まるサイズや方角になります。

(※図の右側の不審な「梁行拾間半 桁行拾二間半」も記事の後半で…)
(※ちなみに寛永度二条城天守の図面類としては、他に中井家配下の棟梁・安田家に伝わる同種の建地割図もあるそうですが、これは妻面の右半だけで、しかも平側の破風についての墨書が無いとのこと)

上記の建地割図と対になって中井家に伝わる、地階平面図

そして私が「そのまま移築」を感じている第二の理由が、ご覧の「地階平面図」の不思議な構造でありまして、どうもこの地階(土台之御間)には「古い時期の天守の手法」がまぎれ込んでいるようなのです。…

その前にまずは基本的な疑問を先に挙げておきますと、この階の北壁(図の下方)には「鉄御門」が描かれていて、その外側には「附天守」が付設されたにも関わらず「鉄御門」で防備するという、彦根城天守にも見られる厳重さを示すのですが、それに比べて、この地階には東側と北側の「多聞櫓」との接続用の扉や引戸などが全く描かれておりません。

――― ということは、これは姫路城大天守などと同様に、渡り櫓(多聞櫓)との出入りは「この上の一階から!」という構造の可能性が、非常に濃厚なのではないでしょうか。

そしてご覧の地階平面図の 最大の注目ポイントは、北側(図の下側)部分に、あたかも「入口の土間」を設けたかのような「古い時期の天守の手法」が見られることでしょう。

ご覧のごときデザインは、例えば、豊臣大坂城や犬山城、福知山城などの天守と共通する手法であろうと思えて来ますし、そもそもこんな形が 寛永期の幕府の天守に見られること自体が奇妙ですから、私なんぞはこれこそ、この天守が度重なる移築を、しかもその最後は「そのまま移築」だった痕跡(こんせき)と見えてならないのです。

ですから半地下構造の穴倉を囲んだ「石塁」(狭間石?)は、創建時は「途中まで」であったのかもしれませんし、その北側(下側)部分はまさに豊臣大坂城天守と同様に、天守壁面が(石塁無しで)台上まで直接に降りて床面に接していて、その外側にすぐ「附天守」が接続していた、と考えた方が、よほど合理的な構造だったのではないでしょうか。
 

しかし しかし、ご承知のごとく 建地割図の方には いくつか問題点がありまして、その最たるものが、赤丸で囲った東西の破風の種類や数が、江戸中期の修理記録とまるで異なっている点で、しかも都立中央図書館蔵の『木子家指図』と照らし合わせても、また別の違いがある! という混沌とした状態です。

ご覧の図では 東西ともに 上から「此方桁行破風一口」「此方唐破風一口」「此方破風一口」と書かれていて、つまり初重屋根の破風がいちばん小さくて 単純で 数が少ない という不思議な配置ではあるものの、かつて宮上茂隆先生が推定した「御殿側の東面だけ修理の記録どおりか」といった考え方とも、はっきりと違いが示されています。

ちなみに『木子家指図』の破風の設け方については、都立中央図書館の画像で 是非ともご確認いただきたいのですが、過去に制作されたCG画像などと比べても、平側の破風が明らかに違っていて(※有名なCG画像は軒唐破風、しかし木子家指図は向唐破風=据唐破風・置唐破風とも言う別物で)そして墨書の「寛永五年」というのは、後水尾天皇がこの天守に登った寛永3年の行幸よりも後のことになります。

(なお、中井家蔵の建地割図の右側の墨書「梁行拾間半 桁行拾二間半」は、京間の数値としても図や現存天守台と合致しないものであり、他の城絵図や文献では天守台を「十間半 十一間半」と書いたものが多いため、ひょっとすると 単純な写し間違い かもしれません… )

――― ということで、そろそろ結論を申せば、寛永度二条城天守の外観がふたたび “混沌” として来た中で、私なんぞは 圧倒的に!中井家図の「古い時期の天守の手法」に興味がわきますので、この際は、移築説の真偽とは別に…

<中井家の両図は 伏見城 二条城の「そのまま移築」の 計画図だったのでは!?>

という想定の上で、仮に「そのまま移築」が実行された場合の、二条城天守をイラスト化してみました。

それはまことに勝手ながら、徳川家康が再建した伏見城天守を逆算しうるイラスト、と申しますか、それでいて「銀」の錺金具がひきたつ色使いを想像しながら、小堀遠州が関与した造営の雰囲気(=名古屋城天守と同じ強めの屋根の反りなど)を感じられるものを目指しました。…

当記事の「そのまま移築」が実行された場合の、
寛永度二条城天守の姿
(北西側より)

!!…… このように「そのまま移築」を画像化してみますと、この天守は南北妻の層塔型天守でありながら、伏見城下を向いた「東西」面を重視した破風デザインであったのかもしれません。

そして何より「初重屋根の破風がいちばん小さくて 単純で 数が少ない」という不思議な配置には、北と東の多聞櫓から天守一階に出入りするには 二階建ての屋根裏を通路としたはずで、その二階屋根と初重破風が重なって見える(※本丸御殿からは合計4つに、天守全体では上から1・2・3・4個と見事な配置になる)という、れっきとした理由(動機)があったのだ… と初めて理解できるのではないでしょうか。

かくして「そのまま移築」が実行されていれば、少なくとも破風の改造は、江戸初期の貞享年間に「多聞櫓が撤去されたあと」でなければ不可能だったでしょうし、そういう改造の動機も生まれなかったはず、とだけは言えそうです。

(※追記 / ちなみに「層塔型天守」の出現時期については、当サイトはすでに、豊臣秀吉の時代に蒲生氏郷が建造した会津若松城天守が 七重の層塔型であった、とのイラストも描いた立場にあります)

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