カテゴリー: 天守の発祥/鎌刃城・岐阜城・旧二条城・二条城/織田信長の「立体的御殿」

続・ドンジョンvs天守!翻訳の隠れた意図をさぐる


続・ドンジョンvs天守! 翻訳の隠れた意図をさぐる

Donjon     vs     Tenshu
ピュイヴェール城(フランス)     丸岡城(福井県)   

前回も申し上げたとおり、初めて天守をDonjonと翻訳した書物は特定できておりませんが、「天守とドンジョンが翻訳語どうし」という事態には、実のところ、日本の城郭研究の側からの “呼び水” があった節があります。

それは古くは、戦前から活躍した城郭研究のパイオニアの一人、大類伸(おおるい のぶる)先生の著作にもさかのぼります。

(大類伸『城郭之研究』1915年/大正4年!!)

要するに天守閣は封建時代の階級的思想の表現である。少数の武士階級が、多数の民衆を圧服して、社会に立つた時代の産物に外ならぬ。これが支那思想の産物であるとは到底考へられぬ。
併し西洋の封建城郭には厳として天守閣の存するのを認めるのである。固より其の構造も名称も本邦のものとは全く別物であるが、一城の中枢たる最も壮大な建築たる点に於ては全然同一である。

 
 
ご覧のように日本側の主要な専門家が、欧州の城の主塔(キープ/ドンジョン)を「天守閣」と呼んでしまって来た、という歴史的な経緯があるのです。

ですから、この文章がわざわざ「固(もと)より其(そ)の構造も名称も本邦のものとは全く別物であるが」とはっきり断ってはいても、こうした書物を参照した人が、思わず天守(天守閣)をDonjonと翻訳したとしても、それを責めることはできないでしょう。

また上の文章と同様のことは、近年まで城郭研究の “大御所の一人” であった井上宗和(いのうえむねかず)先生の著書にも多々見受けられることは、城郭ファンの間ではよく知られた点です。

さらに下の世代で申しますと、「戦国期拠点城郭」という(おそらく天守の発祥にとっても)たいへんに重要な指摘をされている、千田嘉博(せんだよしひろ)先生もまた、著書の中でキープやドンジョンを「天守閣」とお書きになっています。
例えば下の『別冊歴史読本⑯』巻頭特集の序文でも…

(『日本の城 世界の城』1999所収/千田嘉博「ヨーロッパ古城紀行」)

欧州古城紀行は再現された土と木づくりの城を出発点に、各国の中世城郭の精髄をめぐり、ついで大砲戦に備えた要塞や防御都市へと進んでいく。
天守閣のなかの螺旋階段など足元の悪いところも多く、高い塔の上から身を乗り出しての写真撮影はたいへん危険をともなう。

 
 
何故、わざわざ欧州の主塔を「天守閣」と書くような筆法が、今日まで綿々と続いて来たのでしょうか?

実は、そこには「天守とは何か」をめぐる、研究者間の、かなり根深い思想の対立が横たわっているようなのです…。

例えば下の本では、ブログ冒頭の大類伸先生について、城郭研究の歴史における位置づけが試みられていて参考になります。

井上章一『南蛮幻想』(2008年)

これは伝統建築の意匠論など多数の著作がある井上章一先生の本ですが、450頁余に及ぶ本書は、前半まるごとを費やして、「天守閣」についての江戸時代から今日に至る認識の変化を、数多くの引用文を挙げて追跡した力作です。

例えば江戸時代の半ばにはもう、天守が何のために建っているのか、日本人はさっぱり解らなくなっていて、禁教の「天主教(キリスト教)起源説」がまことしやかに語られるなど、アレやコレやと邪推がなされた経緯が分かります。

そして時代を経るごとに、研究者の考え方に “変化のうねり” が生じて来て、明治時代になると田中義成(たなかよしなり)が「天主は梵語」だとする「仏典起源説」をとなえ、天主=須弥山の帝釈天という考え方を打ち出したそうです。そして…

(井上章一『南蛮幻想』2008)

大類が、はじめてその城郭論をあらわしたのは、一九一〇(明治四十三)年のことである。そして、彼ははやくもその第一論文で、いままでの定説を否定した。「本邦城櫓並天守閣の発達」と題された論文が、それである。
(中略)
天守閣の具体的なルーツには、室町時代の武家屋敷にあった主殿のことを、あげている。主殿が発展をとげて、天守閣にいたったとする理解である。
(中略)
ヨーロッパにも日本にも、いわゆるフューダリズム(封建制)の時代があった。封建諸侯、大名などといった戦士階級が、それぞれの所領で、民衆を支配する。そんな時代を、日欧がともに通過してきたことへ、大類は目をむける。と同時に、文官優位の中国がそういう時代をもたなかったことも、書きそえた。
けっきょく、天守閣は、戦士階級が民衆を圧迫する封建制の産物であるという。だから、封建時代のあった日本と欧州には、それが成立した。だが、封建諸侯の割拠しにくい中国だと、その出現は「到底考へられぬ」ことになる。これが、大類伸のいだいていた基本的な見取図である。

 
 
この井上先生の指摘に従がえば、大類先生と同様に、今なお欧州のキープやドンジョンを「天守閣」と呼ぶ先生方にも、ひょっとすると、そうした思想的な背景を類推できるのかもしれません。

すなわち、“封建時代を共有した日本と欧州には、両者とも自然のうちに「天守閣」が生まれたはずだ” と。

そして『南蛮幻想』はその後、鳥羽正雄、藤岡道夫、城戸久、内藤昌、宮上茂隆といった先生方が登場し、考え方の主流が「日本起源説」からしだいに(安土城天主の)「中国起源説」に移った経緯も紹介しています。

かくして「天守とドンジョンが相対する翻訳語どうし」という事態には、思わぬ事情が起因していた可能性があるわけですが、正直申しまして、「それでもナントカならないものか…」という気持ちは変わりません。

すなわち、日欧が封建主義を経験したと言っても、天守が登場したのは安土桃山時代の直前のことで、それ以前の鎌倉・室町時代に天守は無かったわけですし、また建築的に見て、天守は断じてドンジョンと同じではないからです。

さらに当ブログは、織田信長の懇望によって詠まれた七言詩「安土山ノ記」において、安土城の山頂の主格部が「宮」と表現され、始皇帝の「阿房宮」(あぼうきゅう)に見立てられたことを申し上げました。

七言詩「安土山ノ記」より

 六十扶桑第一山   六十ノ扶桑第一ノ山
 老松積翠白雲間   老松翠ヲ積テ白雲間ニアリ
 宮高大似阿房殿   宮ノ高キコト阿房殿ヨリモ大ニ似タリ
 城険固於函谷関   城ノ険キコト函谷関ヨリモ固シ
 …         …

これはとりもなおさず「中国起源説」の有効性を示しているのでしょうし、そのうえで、結果的に天守が「日本固有の建造物」に落ち着いたことにも、何ら問題は無いはず、と考えられます。

袁耀「擬阿房宮図軸」(部分)/後世の描画の一例

(※詳細は「信長が安土山を「始皇帝の阿房宮」に見立てたのは…」参照)

何故なら、ご覧のとおり、日本に伝わった「阿房宮」というのは(実際とは異なり)大河・渭水の南岸にそそりたつ岩山の楼閣として伝わった可能性が濃厚であり、そこでやはり信長という「個人」=ひとりの日本人のイマジネーションこそが、天守(ともに水辺の山の頂にある岐阜城天守や安土城天主)を誕生させた発意の何十%かを、確実に担ったのだと思えてならないからです。
 

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