カテゴリー: 天守の発祥/鎌刃城・岐阜城・旧二条城・二条城/織田信長の「立体的御殿」

この世の頂に住まうための高殿


この世の頂(いただき)に住まうための高殿

備中松山城天守(岡山県高梁市)

現存十二天守のひとつ、備中松山城天守は、海抜430mの臥牛山(がぎゅうさん)の頂にあるものの、建物の全高はわずかに11m弱という、小ぶりな二重の天守です。

それでも初めて現地を訪れたとき、ふもとの備中高梁駅の陸橋から、山頂にはっきりと遠望できたことが忘れられません。

当シリーズの年度リポート前説の冒頭で「武士がなぜ安土桃山時代になって突然、天守のような高層建築を必要としたのか…」などと書いておりますが、ご覧の備中松山城天守のように、必ずしも建物の「大小」が「天守であるか否か」の決定的な条件ではないため、その辺の混乱をまねかないようにチョットだけ書きます。

まず結論から先に申し上げますと、「高層建築」という最大の特色も、実は、天守が誕生したのちに、あとから “必要に迫られて” 追加された要素かもしれない、というお話になります。

では、いったい天守とは何なのか??……各地の城を見たなかで「これぞ天守」という、原初的なイメージを感じた景色がこれです。

金華山の山頂に建つ岐阜城天守(復興)

岐阜城はご承知のとおり、鎌倉時代からの来歴を経て、かの斎藤道三が居城として拡充を図った城ですが、それを後に織田信長が奪取すると、ふもとに四階建ての楼閣などを建てて、山頂には「主城(フロイス日本史の翻訳より)」を築いたと伝わります。

写真は岐阜城の南6kmほどの地点から眺めた様子で、つまりは信長の軍勢が長年、攻め続けたときに見ていた景観に近く、信長は “あの山にわが城を” と心に誓い、それを実現して山頂に「主城」を建てたことになります。
 
 
(『フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳より)

「宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。」
「同所の前廊から彼は私たちに美濃と尾張の大部分を示しましたが、すべて平坦で、山と城から展望することができました。」

 

岐阜城天守から展望した名古屋方面(遠くのツインタワーが名古屋駅前)

フロイス日本史で「主城」と表現された山頂の天守は、普段は信長の家族しか立ち入れない私的な空間であり、信長は毎日、馬でふもとの御殿まで往復したとも云います。

そこに草創期の天守の一つがあったはずですが、どんな建築であったかを伝える史料は乏しく、例えば城戸久先生の三重四階の復元案(→ 池田輝政時代?)が貴重な試みになっています。

このように草創期の天守は、いきなり五重や七重が構想されたわけではなく、おそらく最初の天守は二重から四重ほどの規模ではなかったかと言われます。

では、それを建てた時点で、施主(織田信長)の意識としては、何をもって「天主」と判別していたのでしょうか?
 
 
フロイス日本史の文面からは、少なくとも次の二点が抽出できると思われます。
1.それは山頂にあった
2.そこから美濃と尾張の大部分が見えた

この1と2から、逆を想像してみますと、信長の新たな版図(美濃と尾張の大部分)からも「主城」がよく見えたことは確実だと思われます。

どうやら以前の記事でも話題の「四方正面」と関係のありそうな話になってきましたが、そうした1と2のイメージを、信長の脳裏に浮かび上がらせた「原典」のようなものは、どこかに存在しなかったのでしょうか?

そう考えた場合に、最も有力な候補として浮上してくるのが、中国古来の祭祀儀礼「封禅(ほうぜん)」ではないかと思われてなりません。…

泰山(山東省泰安市)

「封禅」とは、例えば映画『ラストエンペラー』で主人公の溥儀が満州国皇帝に即位するシーンで、清朝皇帝の衣服を着て土壇のうえで祈った儀式がそれなのですが、古代王朝の王(天子)や歴代皇帝の多くは、霊峰「泰山(たいざん)」の山頂に登り、天下の統一と太平を天に告げる「封禅」の儀式を行いました。

(石橋丑雄『天壇』1957より)

「封」は山上に土を盛って壇を築き、以って天を祀るの儀であり、「禅」は山下の土を削って墠(せん)を造り、以って地を祭るの儀である。
(中略)
自ら天に近く三元(天・地・人)の中間に立ってこれを如実に直結し、上は天下の統一と太平とを天帝に申告し、下は受命の天子たることを普(あまね)く天下に宣布せんとする構想の下に行われた(後略)

 
 
これだけを聞かれると、なんだか信長自身が帝位につこうとしたかのように聞こえてしまいますが、信長が封禅を行ったという事実はありません。

あくまで信長の想像力の “材料” として、それまで武家屋敷には皆無だった「天主と天主台」が突如、出現するための「原典」のイメージとなるには、最も有力ではないか、と申し上げたいのです。

例えば、信長はこの城を改修すると地名を「岐阜」に改め、その年から、かの「天下布武」の印判を使い始めています。

ご承知のように岐阜の「岐」は、古代中国の王朝、周の文王・武王が「岐山」を拠点にして天下統一を成し遂げたことにちなみ、「阜」は孔子が生まれた儒教の聖地「曲阜(きょくふ)」に由来すると言われます。

その孔子が生まれた時代は、まさに周が衰退して戦乱の世(春秋時代)を迎えたころで、そうした国家の分裂をなげく心から、儒教は生まれたとも申せましょう。

ですから「天下布武」をかかげた信長の意識には、応仁の乱から続く戦国の世を国家の分裂と解し、場合によっては足利幕府に代わってでも、再統一を果たす勢力になりたいという願望があって、それを万民に示すため、主城と天主を「封禅」の場に擬した山頂に築いたのではなかったでしょうか??
 
 
フロイス日本史では、信長は「ヨーロッパやインドにはこのような城があるか」と度々フロイスに問いかけています。

我々はこの質問に「明(中国)にあるか」という言葉がなかったことに、もっと注意を向けるべきではないかと思われます。

つまり信長自身の意識のなかに、山頂の主城や天主と同じ類いのものは、ひょっとすると明(中国)にもあるかもしれない、という危惧があって、それを暗に認めてしまった発言であるかもしれないからです。

織田信長像(複製)

幸いにして、天守は、我が国固有の建造物となったわけですが、それがいつ「高層建築」に変貌したかと言えば、それもまた、信長がみずから行ったことと言わざるをえません。

重臣・柴田勝家が守備した北ノ庄城(福井市)は、築城のおりに、信長が直々に縄張りを行ったと云われ、辺りは現在の福井市街で、平野のど真ん中でした。

ここで信長は、天守をなんとしても天に近づけるため、実に「九重」とも伝わる超高層化した天守を、初めて建造させたのです。…
 

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