伝二ノ丸に?「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」があれば…
前回は加藤理文先生の『織田信長の城』からインスパイアされた仮説を色々と申しましたが、すでにご覧のこの図のうち、天主台下の不思議な礎石列が「階(きざはし)」か「懸け造り」だったかという問題では、そもそも、出どころの『信長公記』の語句がやや気になっております。
と申しますのは、『信長公記』に書かれている語句は、よくよく見れば「階」ではなくて「階道」という二文字になっておりまして、古文の用例として「階」と「階道」はどう違ったのか、まったく同じ意味と受け取っていいのか、その実情について、残念ながら私には知識がありません。
(『信長公記』より)
… 其次、他国衆。各階道をあがり、御座敷の内へめされ、忝(かたじけな)くも御幸の御間 拝見なさせられ候なり。
ですから、この「階道」という語句には、まことに素人っぽい印象しか持ちえないわけですが、この語句を「階(きざはし)状の道」だと受け取るならば、冒頭の図のごとき「懸け造りの柱の間を登っていく階段」とイメージするのも、そう無理な話ではないように感じるのですが、どうなのでしょうか。
ちなみにもう一点、補足させていただきますと、そうした「階道」と立体交差する形で、従来から言われて来た伝本丸への通路もあったはずだと思われますので、念のため、図に書き加えておきたく存じます。
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さて、ことほど左様に、安土城の実像はたいへんに謎が多く、前回の記事では『完訳フロイス日本史』の「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭」という記述について、ひょっとすると、千田嘉博先生の御殿配置の考え方ならば、伝二ノ丸の「奥御殿」にそういう「広大な庭」を想定する余裕も生まれるのでは… などと勝手な推測を申し上げました。
と言いますのも、研究者の方々は「広大な庭」がどこに当たるのか、発掘調査でそれらしき遺構が見つからないため、例えば未調査の「八角平」や「馬場平」ではないのか? といった声が過去にあがったものの、同じく未調査の「伝二ノ丸」を想定した声は、なかなか主流になれず仕舞いでした。
その理由としては、やはり伝二ノ丸にはそれ相応の「奥御殿」や「本丸表御殿」を想定した先生方の復元案や、その壮観なコンピュータグラフィックスが世間をうならせていて、とても「庭」ごときが割り込める “余地” は、論理的にも、空気感としても、無かったということでしょう。
そのような中でも、私なんぞは、ある “別の観点” から、伝二ノ丸には「庭」のような大きな空間スペースがあってしかるべきでは… という思いを抱き続けておりまして、その原因は、当サイトで散々ご覧いただいたイラストの、手前に黒くカットした、きわどい「地形」にあります。
(※この説明図は、冒頭のルート図に比べると、南北=上下がひっくり返った状態です)
安土山北西の湖上から見上げた視点で描いた上記イラストは、手前の黒い部分が伝二ノ丸の地面をカットした状態でありまして、その理由(動機)は、こんな風にしませんと、角度的に、伝二ノ丸の「地形」やそこに想定される「建物」群によって、イラストで見せたい天主周辺がずいぶんと隠れてしまうからでした。
――― では “どのくらい隠れるのか?” をご覧いただくため、手前の地面をカットしない、フルサイズのイラストを今回、初めてお見せいたしましょう。
ご覧のとおり、伝二ノ丸の地形は、山麓の湖上から見上げますと、けっこう天主台の足下を隠してしまうことになり、例えば伝二ノ丸の中に描いた建物は、二階建てを想定して描いたのですが、それでも、ご覧の程度まで隠れてしまいます。
したがって、これまでの諸先生方による伝二ノ丸の復元案というのは、曲輪いっぱいに屋根の高い大型の御殿が並んだり、曲輪の周縁(=最前列)に二重櫓や多聞櫓がめぐっていたりしたのですが、そのような状態で考えますと、おそらく天主の下層階からは、城下や琵琶湖もろくに見えなくなってしまう!! 危険が生じたのではないか、と心配して来たのです。
で、そのことは現地で撮影した写真でも…
やや分かりにくい合成写真で恐縮ですが、これは現状の天主台上の南西の隅に立った状態で、伝二ノ丸の方を180度近くグルッと見回しながら撮影した写真でありまして、ざっくりと合成しただけなので、厳密さに欠ける点はご容赦下さい。
で、何を申し上げたいかと言うと、伝二ノ丸の周囲はご覧のとおりの木々が繁茂しておりまして、例えば城下の信長自慢の武家屋敷や常楽寺港などの範囲の風景は、残念ながら、天主台の上からでも、まったく見えない状態にあります。
ですから、このことは、伝二ノ丸の周縁に「二重櫓」や「多聞櫓」がめぐっていたり、そしてさらに屋根の高い「奥御殿」までがひしめいていたりしたなら、繁茂する木々と “まるで同じ効果” を果たしてしまうのではないか!!?… という心配を感じて来たのです。
ということは、いまさら申すまでもなく、天主こそが「見せる城」の白眉(はくび)であるとして、そうした天主と城下との関係において、こちらから見えにくい、ということは、イコール(すなわち)向こうからも見えにくい、という事に他なりません。
そのような状態では、せっかくの画期的な建造物「天主」が台無しになりかねず、もしも安土城において、城下から見上げた時、天主はちょこんと頭が出ていただけ、というのでは、いったい <何のための天主建造(創造)だったのか?> という気がしてならないのです。…
(『完訳フロイス日本史』より)
(天主の説明があって…)これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲をつくかのように何里も離れたところから望見できた。
それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。
信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。
我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参観者に格別の驚愕を与えていた。
さて、以上の結論として、最後に私なりの手前勝手な推測を加えて申し添えますと、伝二ノ丸というのは「奥御殿」の範疇(はんちゅう)ではあっても、そこにあった建物は、例えば「湯殿」や「御休息」といった類いの建物だけであり、それらを「広大な庭」が取り囲むという、言わば信長個人の “くつろぎの場” だったのではないか… そしてその分、「天主」が信長と家族の奥御殿として具体的に機能したのではなかったでしょうか。
そんなレイアウトは例えば、西本願寺・飛雲閣の奥にある二階建ての浴室「黄鶴台」などにつながる構想だったのでは、という風にも勝手に思い描いております。
で、さらに申し添えるなら、広大な庭というのは「我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で…」とあえて修飾して伝えたのですから、ひょっとすると、全部が「枯山水」の庭!! という、龍安寺の石庭などを拡大・充実させて、琵琶湖を背景に、安土山の山頂で再現した “白砂と石組みの空中庭園” ――― とも想像してしまうのですが、いかがなものでしょうか。
(※写真はウィキペディアより)
フロイスの別の報告文では、その庭には「新鮮な緑」があり、「魚」や「水鳥」が泳ぐ池があったとも伝わりますが、もし龍安寺の石庭のような「庭」が、安土山の山頂で、琵琶湖を背景として広がっていたら、そうした信長個人の精神世界に多聞櫓などは邪魔(じゃま)になったはず… との妄想がふくらむ一方なのです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。