カテゴリー: 安土城天主

安土城と大坂城の天守も相似形だった!?


安土城と大坂城の天守も相似形だった!?

前回、秀吉の大坂築城が、まず天守台の築造から始まったことを申し上げました。
その天守台上に十尺間の黄金天守が建つまでには、実は、一波乱も二波乱もあったものと考えています。

その詳細については2008冬季リポート、及び次回リポートでご紹介しますので、今回はその「天守台」をめぐって、またまた驚きの “相似形” が存在した可能性を指摘いたしましょう。

それは織田信長の最後の城・安土城の天主台にも、かの「空中庭園」があったかもしれない、という話でもあります。

豊臣大坂城の天守台(十尺間の柱割による復元案)

さて、以前にもご覧いただいた秀吉の大坂城天守台ですが、高さ9間余(約18m)の一段目の石垣の上に、石塁(二段目)が四角形にめぐっていて、その上に天守の建築(赤線部分)が載っていました。

そして一段目の北東隅の “空き地” が、信長の岐阜城山麓の四階建て楼閣における「空中庭園」のなごりであった可能性を、以前の記事で申し上げました。

こうした “空き地” が織豊期の天守台によく見られたことは、西ヶ谷恭弘先生が指摘されたとおりです。

では、織豊期天守の産みの親でもある織田信長の、安土城の天主台には、同様の “空き地” は無かったのでしょうか??

そこで、以下にズラッと並べた図は、これまでに登場した安土城天主の復元案のうちのいくつかです。

土屋純一案      古川重春案      櫻井成廣案

渋谷五郎案(右下)    内藤昌案       佐藤大規案

それぞれの詳しい紹介は省略させていただきますが、一点だけ申し上げますと、上記の案はいずれも、天主台が一段で築造され、その天主台いっぱいに建築が建っていた、と考えられた点が共通しています。

一方、下の宮上茂隆先生、松岡利郎先生、西ヶ谷恭弘先生の案は、天主台が「二段式」で築造され、その二段目の上に建築が建っていて、一段目の上は “空き地” だった、という点が上記のものとは異なります。

    宮上茂隆案     松岡利郎案   西ヶ谷恭弘・香川元太郎案

細かいことのようですが、この点が大変に重要なのです。

で、その違いは何によるものか? と申しますと、それは例えば、宮上案が当時の天守の平均的な広さにこだわり、また「安土ノ殿主ハ二重石垣」(『信長記』)と伝わる点を踏まえていることです。
 
 
(宮上茂隆『国華』第998号「安土城天主の復原とその史料に就いて(上)」より)

現実の安土城天主と天主台との関係は恐らく大坂城に似ていた(大坂城が安土城を模した)であろう。すなわち不整八角形の天主台上に、低い石垣を矩形に築き、その上に天主木部が載っていたと思われる。また仮にそうした二重石垣でなかったとしても、天主木部と石垣外側との間には広い空地がとられていたに違いない。
 
 
この二重石垣(二段式)案が少数派なのは、やはり『信長記』『信長公記』類の天主台の広さに関する記述(北南へ廿間 西東へ十七間)を重視すると、そういう結果に落ち着かざるをえないのかもしれません。

ただ、私などが思うには、「二段式」と「広さ」と遺構の三者を満足させる、コロンブスの卵のような、画期的な復元案が無くもない(!…)ように思われるのですが、いずれにしても、現状の天主台跡を全面的に調査すれば、ことはすぐに判明するはずです。

その点、近年の滋賀県による発掘調査は、天主台の外側石垣に関して、八角形と言われる石垣の隅角部を確認するだけに留まり、全体が一段だったのか二段だったのか、という観点から、痕跡を探すような全面的な発掘調査が行われなかった点がやや残念です。

もし将来、活動再開があるなら、是非とも、すべての土砂を撤去した形での調査をお願いしたいところです。
 
 
そんな中でも、冒頭で予告した、天守台の驚きの “相似形” が、予想外の展望を切り開いてくれそうなのです。

静嘉堂文庫蔵『天守指図』二重目

これは先の内藤昌先生の復元案の拠り所となった指図で、現状の天主台遺構とも合致する点が多く、注目された史料です。内藤先生はこの指図(江戸時代の写本)とその書き込みに沿った形で、不規則な八角形の天守台いっぱいに建築が建てられたと考証しました。

すると先の宮上茂隆先生が反論を起こし、大論争となったのです。

(宮上茂隆『国華』第999号「安土城天主の復原とその史料に就いて(下)」より)

『天守指図』の天守のような不整八角形プランの建築が突然現れて、消えていったとは考えられない。その平面は矩形とは何の関係もない文字通りの不整形であり、平面からみて母屋・庇的な構造にもなり得ない。
 
 
ところが、ところが、この『天守指図』… 仮に、書き込みに一切とらわれずに、「線」だけに注目して、次のように色づけしてみた部分と、大坂城天守とを比べますと、思わぬ事実が明らかになるのです。

安土城天主と大坂城天守、実は相似形?

ご覧のとおり、このようにしてみると、両者はともに、天守本体の東側と北側に張り出しのある「相似形の建築」に見えてくるのです。

しかも両者ともに、東側は「天守入口」であり、北側はおそらく「蔵」であって、それらを除いた本体の規模は、ともに「11間×12間」だったと想定できるのです。

すなわち『天守指図』の天守台上にも、やはり周囲に “空き地” がめぐっていて、それらは信長自慢の「空中庭園」であった可能性が想像されてなりません。

はた目には不倶戴天の敵同士とも見えた両先生ですが、なんと、内藤先生が世に出された史料と、宮上先生が強固に主張された説とが、実は、ぴったり重なり合うという事実が隠れていたのです。
 

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