カテゴリー: 安土城(大手道・主郭)・犬山城・鳥取城

続・赤い柱の御殿=それが「尾張造」風であれば本殿は山麓からも屋根が見えたほどの規模に

【 啞然 】何度、韓国にだまされたら、気がすむのですか。キシダさん。
(外相時代の引用画像=韓国は保守の!パク・クネ政権で)



まだ記憶にも新しいご覧の有り様ですが、そもそも、いま懸念が高まる「台湾・尖閣有事」が起きたら、「韓国は米中の間で中立を守る」と断言してはばからないのが、現在の韓国および韓国人のスタンスです。 アジアの民主主義の“命脈”など、彼らの重大事ではないのでしょう。
 
そんな韓国のマスコミ幹部は(保守的な朝鮮日報の主筆でさえ)いま日本が持とうとしている「反撃力」について、日本国内の米軍基地が中国のミサイル攻撃を受けた場合には、“日本人は(韓国人と同じく中立の立場で)反撃力を発動しないかも……”などという、トンデモナイ勘違いを夢想しています。 彼らは抑止力の「よ」の字も理解しておりません。
 
そんな人々を相手に、キシダさんは、またもや、何を……………。

 
→ → 鈴置高史さん注目の、朝鮮日報「楊相勲コラム」を、一度ぜひgoogle翻訳してみては。)
 

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【 追記 】 そのうえ韓国は、在韓米軍の縮小の代償として、独自に北朝鮮と対峙する必要に迫られたために、ついに現職の大統領が「核保有の検討」を明言していて、近い将来に<北東アジアで日本だけが核兵器を持っていない>という、空恐ろしい事態の可能性が生じております。
 
そんな状況下で、キシダさんは、広島G7サミットに「核保有を検討中の韓国大統領」までも招いて、核なき世界をアピールしよう ! ! ……っ、というのですから、世界から見れば、とてつもないマヌケのお人好しに見えかねず、心配の声が殺到してサミット直後に日本株が暴落するのではありませんか??
 
ひょっとすると、その反動で、あわてて「持ち込ませている非核二原則」の実態を表明せざるをえなくなる、のかも。

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(で、前回記事より)
…… 本来ならば天主の下半分には、主郭の御殿や石垣などが重なって見えたはずで、それらは“地面をカットする形で”省略しています。(中略)このことを正直に申し上げておかねばならないのは、“省略したもの”について考えて(画像化して?)行く場合は…

という風に前回に申し上げたことで、今回の記事は是非とも、安土城天主の南東側の手前にタブって見えたはずの“省略したもの”が、具体的に、どういう風に見えていたか?―――という手前勝手な「興味」から始めさせていただきたいのですが、そのための図解用のイラストは、またもや、従来の北西側イラストとの矛盾など、いくつかの訂正を含みつつ、より画角を広げたロングショットでご覧いただきたく存じます。

 
 
< 続・赤い柱の御殿 = それが「尾張造」風であれば
  本殿は山麓からも屋根が見えたほどの規模に >

 
 
 
さて、それでは、安土城の主郭にあったのは文献記録どおりの「赤い柱の御殿」であったとして、仮にそれが、下図のごとき平面形の建物であれば、「本殿」は礎石列から8間×6間の規模ということになりましょう。

では、この上に、どんな建物が建ち上がっていたか?と想像してまいりますと、まずは天主を建てた熱田大工・岡部又右衛門との関係から「熱田神宮」を参照するのが筋道でしょうが、しかし現在の熱田神宮の本殿(本宮)は、明治時代に伊勢神宮と同じ神明造に建て替えられ、それが第二次大戦の米軍の空襲で消失すると、戦後もふたたび神明造で(伊勢神宮の古用材を使って)再建されました。

では、江戸時代まではどういう姿か、と申せば、「尾張造(おわりづくり)」という尾張地方特有の建築様式だったと伝わります。

「尾張造」というのは、本殿の様式を示した名称ではなくて、全体の社殿の配置の仕方だそうで、拝殿・東西の廻廊・祭文殿・渡殿・本殿が、ぎゅっと緊密につながって一本化したところに特徴があり、本殿は「流造(ながれづくり)」になるそうです。
(→ → 前述の8×6間の長短の向きに合致。 また私なんぞの素人目には、尾張造とは、東照宮などの「権現造」が誕生する直前の、過渡的なスタイル…のようにも見えてなりません)

【事例1】
尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ) / 現在の社殿は室町~江戸初期の再建。



【事例2】 真清田神社(ますみだじんじゃ)の本殿 / すべて戦後の再建。

(※写真は「文化遺産オンライン」からの引用です)

【事例3】 津島神社の本殿 / 慶長10年の創建。

(※写真はサイト「津島市の歴史・文化遺産」様からの引用です)

ここで前出の安土城主郭の図をふりかえれば、本殿奥の右側の透き塀(→ 下図のいちばん下のあたり)は「斜めに欠けている」ように想定したのですが、なんと……

【事例4】 大縣神社(おおあがたじんじゃ)の境内図


本殿奥の透き塀の切り欠きの様子

(※写真はトリップアドバイザー様からの引用です)

これは鬼門除けで単なる偶然に過ぎないのかもしれませんが、このような一連の事例を見てしまいますと、安土城の主郭に神社建築の「本殿」があったなら、それはきっと「尾張造」風のものに違いない、と強く感じているところなのです。…
 
 
 
< 画像化にあたっての、もうひとつの懸念。
  織豊期の城の櫓で多用された「突上げ戸」などで、フロイスはそれを
  「窓の美しさ」とまで報告書に書いただろうか?… という疑問。>

 
 
 
(もう一度……『完訳フロイス日本史』第三三章(第一部八四章)より)

彼は都から十四里の近江の国の安土山という山に、その時代までに日本に建てられたもののなかでもっとも壮麗だといわれる七層の城と宮殿を建築した。(中略)
なお宮殿や広間の豪華さ、窓の美しさ、内部で光彩を放っている金、赤く漆で塗られた木柱とすべて塗金した他の柱の数々、食料庫の大きさ…
 
 
さてさて、結論の図解用イラストを仕上げるうえで、どうにも私なんぞが気になって仕方がなかったのは、この「窓の美しさ」の一言でありまして、日本の城でありふれた無骨な突上げ戸や武者窓、または御殿の建具などを安土城で見た場合に、決してお世辞を書く立場になかったフロイスら宣教師が、それを「窓の美しさ」などと書いただろうか?… とのギモンが、頭からぬぐえませんでした。

大坂冬の陣図屏風より

それよりは、ご覧の大坂冬の陣図屏風にあるように、安土城の櫓も<<華頭窓を多用した異例の櫓>>だったとしたなら、「窓の美しさ」はごく自然な反応でしょうし、フロイスらにそう書かせるには、例えば、主郭の南面の多聞櫓などは、華頭窓がズラズラずらぁ―――っと並んでいたのではあるまいか、とも。

(そして、またもや地面をカットせざるをえず。青紫のライン)

さらにお断りせねばならない点として、安土山は山頂から五方向に稜線が下っているわけですが、今回、画像化したい南東側というのも、ちょうどその一つに重なっており、そのせいで、画像の視点をどこまで遠くに引き下げても、手前の峰筋がどんどん重なって見えるばかり!という悪条件があります。

そこで前回イラストと同じ処理でまことに恐縮ですが、やはり地面をカットして画像化せざるをえず、上記のごとく、問題の「本殿」が見やすい青紫のラインでカットさせていただきました。

(作業の途中段階 → 天主の画像にはすでにかなりの「見上げる」角度が…)

ご覧のように、手前の南東側の峰をズバッと断ち切った形で作業を進めまして、実はこの青紫ラインまででも、角度的に多くのものが天主の前にダブって見えたことになり、こうした作業の結論=前回の“省略したもの”はどういう風に見えたか?―――は、こういう険しい立体的な結果になりました。!………
 

【補足/矢印1】
 このようにしてみますと、安土山の山頂部は、現状の天主台上の見晴らしはいいように感じるものの、厳密に申せば多くの方角が山林で隠れており、それは当時も似たような状況があり、特にこの南東側は、少なくとも天主の六重目の縁まで登らないと、こちらの見晴らしは利(き)かなかったことが分かります。

【矢印2】
 櫓の配置については、諸先生方の復元も多いに参照させていただきましたが、主郭の発掘調査の図を見ておりますと、どうも<<門の脇には二重櫓>>というルールが強く徹底されたように感じられ、とりわけ、織田信長が馬で安土山を上り下りした際に通ったはずの「本丸南虎口」は、ご覧のごとき二重(二階)櫓で、厳重に守りを固めていたのではないでしょうか。

【矢印3】
 ご覧の山頂近くにおいても、石垣の合間には「土塁」=芝土居?が多く組み込まれていたはずで、こうして復元してみますと、かなりの急斜面の「切岸」もあって、そこには樹木の類いなど一切、ありえなかったはず……と分かります。

(※ちなみにイラスト左端の樹木は、伝二ノ丸こそ、文献記録にある「広大な庭」や湯殿・御休息の空間であったはず、との当ブログの推定に沿った表現です)

【矢印4】
 イラスト右端の「伝米蔵」は、米蔵の建物を省略しております。

最後に、念のため申し添えますと、ご覧の南東の峰筋からは、こんなに天主が見えにくくなったものの、これ以外の方角からは良く見えたはずで、とりわけ北西側は条件が良く、きっと琵琶湖畔の家臣団屋敷のあたりが「ベストショット」の位置になったのではないでしょうか。
 

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