カテゴリー: 安土城(大手道・主郭)・犬山城・鳥取城

安土城イラストの補足説明。巧みな“ジャンクション接続”が物語る、天主の「重階」の並列性?について

【 引き続きの、驚愕(きょうがく)の冒頭余談… 】
ハァァ?? 話題の「コスプレおばさん」が着ていたアイヌの着物というのは、なんと、税金で作った一点モノで、一着200万円、だって ! !?
→ →「アイヌ利権」の実情を語る砂澤陣(すなざわ じん)氏のお話から。


 
 
【 今こそ、ただ一言。】
安倍派若手議員の皆さん。高市勉強会への結集を。


 
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【 怒りの追記… 】
やはり、パーティー券の捜査は、安倍派と、二階派だけ??
 結局は、増税メガネの番犬になりさがった形の、東京地検。

そう言われたくなかったら、来年の国会会期中も、議員以外の
逮捕や取り調べ(特にキシダ派の会計責任者)をやってみろ。


                 ……… このままでは、東京恥犬!?
  

 
そして、東京恥犬!?が「増税メガネ」を支えた結果が、これだ。
鈴木財務大臣・ウクライナに6500億円の追加支援を表明
いま、戦争は終わる気配がなく、しかもアメリカの軍事支援が途絶えるなかで、6500億円は間違いなく「戦費」! ! に化ける。つまりこれは、
ロシア兵を殺しまくる金で、この先、もっと必要になる、という当たり前のことに(上記のリンク記事も)全く触れていない。
具体的にはアメリカ製兵器の購入費と輸送費か。 日本のリベラル層は、「支援」の名がつけば、たったこれだけの政府発表+マスコミの連携でダマされるのだ。……


 
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< 安土城イラストの補足説明。 巧みな“ジャンクション接続”が
  物語る、天主の「重階」の並列性?について >

 
 
 
さて、前回は2023年分の天守画イラスト+αギャラリーの「一斉更新」をお知らせしましたが、該当する新規イラストを改めて見ていて、安土城に関しては、説明不足や言葉足らずが少なくないように感じまして、そこで今回は是非、その点の補足説明を(図解とともに)させていただこうと思います。

話の焦点になって来るのは、伝本丸の側から天主に向かう際の登閣路の構造でありまして、その様子からは、これまで当然至極と思われた織田信長の城づくりの鉄則(=強い求心性や階層性)に対して、若干の疑問(…ひょっとすると天主内の重階だけは別?)が生じかねない様子で、ちょっと見逃せないものがあります。

で、そうした事柄を示唆するのは、次の二点のイラストでして…



これらを最初にご覧いただいた際のブログ説明文では…

これらはひとえに『天守指図』の解釈に従った結果であり、従来イラストよりもさらに込み入った感じの外観になりますが、それはこちら側=南東側が天主の「内正面」にあたっていて、城の様々な機能や使い勝手の要求に応える必要があったからだと想定しております。
 
図【→1】 伝本丸にあった御殿との接続方法としては、このように「東側」懸造り舞台との一体的な構造とすれば、御殿の「二階」!への接続だったのかもしれません。
 
図【→2】 『天守指図』に従って二重目(天主台上一階)の内部、南西隅の一角に「対面の場」(十二畳 鵞(がちょう)の間)を想定しますと、建物の南側に張り出した出窓(次八畳 儒者の間)というのは、言わば「中門廊」の役割を兼ねていたのかもしれません。

 
 
といった説明をさせていただいたものの、特に【2】の方では、「中門廊」の役割を兼ねていたのかも……などと申しても、天主内部の「十二畳 鵞(がちょう)の間」や「次八畳 儒者の間」との位置関係を踏まえてお見せしないと、とてもご理解はいただけなかっただろうと反省しております。

そこで今回、新たな図解で補足してまいりますと、まず、ご存知のように書院造の「中門廊」とは、広縁の一隅に鉤形(かぎがた)に突き出た部分であり、寝殿造の中門廊の名残りとされ、機能的には、

中門廊は家臣の控え所となったり館への出入口としての機能をもち、儀式に際しては参列者の席が設けられるなど、上層住宅にはなくてはならない施設であった。(大和智『日本の美術405 城と御殿』より)

というものですから…

おなじみ『匠明』の昔六間七間ノ主殿之図では、左下に「中門」。


園城寺の勧学院客殿(慶長5年再建)の場合……

このような「中門廊」が安土城天主とどう関係したのか?と申せば、静嘉堂文庫蔵『天守指図』に対する当サイトの解釈では、天主二重目(天主台上一階)は以下のように考えられまして、このうちの「次八畳 儒者の間」の建物外側(南側/図では上方)への出っ張りは、いったい何なのか?……が問題になって来るわけです。


( 注 : なお当図の左上にある「御縁六畳」だけは、今回のイラスト化に
際して、想定する位置を訂正させていただきました )

これを分かりやすくご覧いただくため、天守画イラストと比べやすい角度に回転させますと……

このようにした上で、イラスト手前側の「伝本丸」からの天主への登閣路が、どういう風に想定できるかを図示してみましょう。

!!――― という風に、ご覧の場所は、実に巧みな立体交差によって、地階穴倉や二重目、三重目へと分岐するジャンクション地点!になっていたことが、容易にご想像いただけるでしょう。

しかも「門」という墨書が正確なものと考えた場合、ここからは天主台上の南端の小道をつたって行くと、問題の「次八畳 儒者の間」の出っ張りまで進むことも出来ます。
 
 
で、この形が、その先の「対面の場」と思われる「十二畳 鵞(がちょう)の間」との位置関係を踏まえれば、まるで「中門廊の役割を兼ねていた」!ように見えてならない――― と申し上げた次第なのです。
 
 
しかもここでもう一点、ご注目いただきたいのは、『匠明』の主殿之図とやや異なり、安土城天主や勧学院客殿や光浄院客殿の方が、ともに共通していた配置として、中門廊のすぐ奥に「鞘(さや)の間」が設けられた点が非常に重要だと思われます。

上記写真の勧学院客殿の平面図


また同じく園城寺の光浄院客殿の場合も…


↓        ↓        ↓


(※『天守指図』は「ここにも鞘の間か」と示した部分に、単に「たな」との墨書があります。ただし
  当サイトは、『天守指図』の墨書は全面的に後付けだった可能性を疑っております。 → 年度リポート)

「鞘の間」とは文字どおり、ここで刀を預け、主人や城主との対面を待つ部屋であったわけですから、実にふさわしい配置に(安土城天主も!)なっていた、と理解できるのではないでしょうか。

ですから、結局のところ、天主二重目(天主台上一階)は、

<書院造の「主殿」としての構造や配置を、階の一部にしっかりと取り込んでいた>

という状況が改めて確認できまして、これは2020年に申し上げた「木子家指図の最大の衝撃――「てんしゅ」は「殿主」と「天守」が上下に合体したもの、との解釈が実在していた」という当ブログ記事とも、みごとに通底する現象でしょう。
 
 
 
< 巧みな“ジャンクション接続”が物語る、
  天主の「重階」の並列性?について >

 
 

さて、以上を踏まえた上で、是非とも申し添えるべきは、もしも上記のように安土城天主が入口付近において、地階の穴倉にも、そのまま二重目(天主台上一階)にも、すぐさま三重目にも上がれる「ジャンクション地点」を設けていたとなれば、事はまことに重大でしょう。

なぜなら、少なくとも、地階穴倉と、二重目(天主台上一階)と、三重目には、いわゆる「階層性」が無かった!?…… どの階も並列で、同等の位置づけであって、格式ではどちらが上とも下とも言い切れない関係だった、といった話になりかねないからです。
 
 
その一方では、皆様ご存じのとおり、織田信長の城づくりと言えば、強い求心性や階層性がトレードマークのようなもので、信長の小牧山城や岐阜城、安土城では、

求心的で階層的な城郭構造をつくうとしていた信長は、家臣に対して絶対的な存在として臨み、圧倒的な上下関係を構築していたのです。(千田嘉博『信長の城』より)

との理解がもう一般に定着しておりますし、まさに私なんぞもその通りだと思うものの、今回のジャンクション接続の件はそれにあらがう要素になってしまうでしょう。
 

さらに、天主の二重目や三重目には正室(御上)の部屋が?…

そんな中でも、ここで一歩、立ち止まって考えてみますと、例えば信長の正室(濃姫/鷺山殿)は城内のどこに住んでいたか?というと、岐阜城についてのフロイスの記録では、

(山麓の宮殿の)二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。(『完訳フロイス日本史2』より)

とあって、この時の「婦人」が誰かは定かでないものの、もしこの「宮殿」の一階にも<書院造の「主殿」としての構造や配置が組み込まれていた>のなら、彼女はそのすぐ上の階に居た(住んでいた)ことになります。
 

また、安土城天主の各階の障壁画の「画題」に注目したこの本は、刊行当時に大いに話題になりましたが、最上階の画題が儒教画、その直下の階が仏教画、さらに下の各階が花鳥画等々であったため、こうした上下関係が信長の“政治思想”を物語るかのようにも語られました。

しかし今、冷静になって考えれば、信長がそういった宗教政策の類い=儒教を仏教よりも優先した政策などを、具体的に行った、という話はとんと聞きませんし、そもそも信長であれば、この階層の中に「キリスト教」が含まれないのは何故だろう、との疑問もありうるでしょう。
 
 
――― そこで、この際は、思い切って、主殿の上に正室の部屋があったとか、安土城天主の障壁画は(画題よりも)最上階こそ狩野永徳の直筆!だった、という点に最大限の重きをおいて放言させていただきますと、

<<強いて言えば、天主(天守)の「重階」というのは、上に行けば行くほど、より大切な物がしまってある場所、という程度の“違い”しか無かったのではないのか…>>
 
<<それはひとえに、上の階ほど“奪われにくい” ! ! といった、極めて実利的な目的で、階の配置が決まっていたのではあるまいか…>>

とさえ、今の私なんぞには思えて来る始末なのですが、果たして、どうなのでしょう。
 

【 ご参考 】
上層階が宝物庫としての塔(トルレ)であったと思しき、豊臣大坂城天守。
ここも天守台上の二階が、北政所らの「御上の階」か…



そして、同じことは、太田道灌時代の江戸城「含雪斎」でも!?……
 これも谷文晁の絵から考えれば、最上階が、貴重な書物をおさめた、
宝物庫同然の「文庫」であったとしか考えられない。

 

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