カテゴリー: 安土城(大手道・主郭)・犬山城・鳥取城

なんとも難しい時代の安土城発掘と、痛恨の天主跡「展望台」化。成果報告会の印象から

( 安易化する世間一般と行政…… )


( 逆に、精緻化する専門分野と行政…… )

……… ご覧のように、かつての古き良き?時代の「常識」や「塩梅(あんばい)」は官・民ともに成立しない、なんとも難しく、面倒な時代になったものだ、と感じる今日この頃ですが、先日、安土城の「令和の大調査」による最初の成果報告会が、東京でも開かれたため、それに参加してきました。

初めに、かなり出過ぎたことを申しますと、そもそも今回の調査というのは、色々と違った方向性の施策が交錯したもののようでして、例えば、滋賀県HPに掲載(2023年4月11日)の「特別史跡安土城跡整備基本計画」の整備イメージパース図によれば、

これは要するに、
福岡城や大和郡山城のようになる、ということでしょうか?

→ → もともと開けた場所の福岡城や大和郡山城はいいとしても、これでは逆に、
 山中の遺跡=安土城の謎めいた雰囲気を、スッカァ―――ン!と吹き飛ばすようで…

(しかも、よーく見れば、穴倉などが「立入禁止」になるように柵を巡らせてあります)
 
(→ つまりこれは、大勢の見学者をここに迎える(公園化の)ための史跡保存の措置なのでしょうが、そのために、日本の城郭史上、貴重この上ない天主台が「ただの展望台」に堕する感があるのは、本末転倒 ! ! ………という気がしてなりません)
 
(→ と申しますのも、我が国固有の建造物「天守」を、ただの観光用展望台としか見ない姿勢こそ、戦後日本の悪しき政治風土ゆえの慣習でしょうし、コンクリート天守といった恥ずかしい「擬態建築」にはならないものの、安土城天主跡もいよいよ「展望台」になってしまうのか……との事態は、私にとって、かなり耐え難いことです)

【 しかも当時の天主台の高さは、諸先生方の復元がバラバラの状態 】

14年前の当ブログ記事でも比較した(下記の図などの)とおりに、当時の天主台の高さは諸先生方の復元がバラバラの状態であり、その後の発掘調査でもそれに決着をつけられる知見は得られておりません。したがって上記の整備イメージは、実際の天主台の高さとは「無関係なもの」と言わざるをえません。 ひょっとするとこの先、国内外の詳しい見学者からは、展望台の高さの設定について、問い合わせが出続けるのかもしれません。

(下図の内藤案と佐藤案の天主台高さは、2mほどの違いがある)

 
【 つまり安土城の天主台は「遺跡」然とした姿であること 】

厳密に申せば、福岡城や大和郡山城の天守台はいちおう天端まで石垣が残るものの、安土城の場合、おそらく豊臣政権下の「破城」という歴史によって、半分程度までしか石垣が残っておらず、「遺跡」然とした姿であることは大きな相違点でしょう。
――― そこで例えば、世界中から観光客を集める石造遺跡「コロッセオ」は、近年、円形劇場の地下を通り抜け、劇場の床の位置のアリーナに出る新しい観光ルートを設けて人気です。 しかし、これらは努めて最小限の範囲であり、遺跡の上をまるごと覆うような真似はしていません。 どちらが「主」なのか、という分別でしょう。

といった感じでありまして、「令和の大調査」によって、せっかく安土城天主台の実態がいろいろと判明しても、最終的には上記のごとき整備イメージ(痛恨の展望台化…)にするための「事前調査」なのかと思うと、どうにも前向きになれない自分がいるわけです。

しかしそうした一方で、天主台の「東側」の調査となれば、下記のような天守画イラストを作った当ブログとしては注目しないわけに参りませんし、東側にも“大きな宝物”が埋まっていそうですから、ここに着目された調査担当の方々の「問題意識」には、大いに賛同するところです。

それでは、すでに滋賀県の「知事公室 広報課 web滋賀+1」で公開された「令和5年度発掘調査区平面図」図1-3を、ここに改めて引用させていただきますと…

これが成果報告会の配布資料にも載っておりまして、滋賀県の文化財保護課の岩橋隆浩主幹から色々と説明があったわけですが、ここからは、私なんぞの勝手な興味による注目点を、この図を活用させていただきながら申し上げてみたいと思うのです。
 
 
 
< 想像以上に徹底的な「破城」を受けたのが安土城の主郭 ! ! ―――
  という風に、私なんぞも認識を改める必要がありそうで… >

 
 

まずは上図を、当ブログで何度もご覧いただいた作図にダブらせますと…



 
 
 
【 勝手な注目点 その1 】
これは前々から分かっていた事柄でしょうが、やはりショックです……

(成果報告会の配布資料より)
石垣修理に関する遺構
本丸取付台では、一部を除いてその周囲にある石垣の積み直しが、昭和40年代に行われており、腐植土を除去した段階で、この修理に伴うと考えられる遺構を検出した。
(中略)残されている写真を見ると、この部分の遺構面については、昭和40年代の修理以前にすでに欠失していたものと推察される。
 
という風に、成果報告会の場で岩橋主幹からはっきりと説明されてしまうと、私のような世代=つまり、この辺りが閉鎖される以前の1990年代などにここを訪れて、下記のごときアナログ写真をパチパチと撮っていた者にとっては、内心、ショックが大きいです。

その頃もすでに、主郭の大手側や天主台上の南側石塁などは修築された石垣だ、とは聞いていたものの、こちら側もそうだったか!というダメ押しの一撃は(言われてみれば確かにキレイ過ぎますが)けっこう重くズシリと来ます。

ご覧のモノクロ写真は、上図の「昭和に積み足し修復した部分」の北西隅角の石垣


ですが、これは、それだけ安土城主郭の「破城」が徹底的に行われた証拠とも考えるべきでしょうし、豊臣政権以降の安土城というのは、本当に、見る影もなかったのだ……という風に、私なんぞも、かなり認識を改める必要がありそうです。

では、いったい誰が、いま見られる主郭の石垣を整えたかと言えば、かの穴太流の人間国宝・粟田万喜三(あわた まきぞう)さんがその修築の概要をインタビューで答えた記事が過去の歴史雑誌にあったように思うものの、何故か家中の本をひっくり返してもそれが見つからず、おぼろげな記憶だけで私が申し上げるのは恐悦至極ですが、要は、万喜三さんが「かなりやってしまった」とのニュアンスだったと記憶しています。

それとは違う記事のページより(『歴史読本』昭和六十三年八月号)

ですから結果的に、いま見られる主郭の<天端まである石垣>は、ほとんどが万喜三さんが昭和に積み足して造り上げたもの―――と言ってしまっても過言では無いようでして、ある意味での「安土城址の不都合な真実」を見たような気がしました。

そして大事なことは、そんな万喜三さんであっても、天主台石垣の修築だけは慎重に避けた ! ! ! ―――わけでありまして、それはやはり、穴倉のある天主台の最終的な高さは「自分には決められない」という技術者の結論(ある種の自負)だったのではないでしょうか。
 
 

【 勝手な注目点 その2 】
本丸取付台の建物と天主台との間に「通路」か。ならば懸造り舞台の方は?……

(成果報告会の配布資料より)
(本丸取付台の建物の)西側柱列の外には石列があり、その外側の遺構面が一段低くなり瓦片などが堆積している状況を確認しました。(中略)西側柱列の外側は天主台石垣裾部まで建物等がなく通路状の空間であった可能性が高くなりました。
 
 
さて、かねがね、安土城天主は天主台をはみ出して連なる巨大な連続建物だったのかも?…といった考え方が、例の岐阜城の山麓居館を「増築しまくり温泉旅館」風に考える案からの連想で、先生方の間で取りざたされてまいりましたが、少なくとも今回の天主北東側では、それは無さそう、との結果になりました。

そうしますと、当ブログの天守画イラストとのからみで申せば、過去に申し上げた「天主の東側にも懸造り舞台があったのでは?」との大胆仮説の真偽を見極めるうえで、結果を左右する大きな動きが、調査担当者の間で俎上(そじょう)に上がったようです。 それは……



【 ご参考のyoutube 】
崩落土石は、安土城天主の炎上・崩落を今に伝える「生き証人」と語る岩橋主幹

(成果報告会の配布資料より)
石垣上部が倒壊し、下部の築石の前面に堆積している状況を確認しました。(中略)残存する築石の高さがほぼ揃っていることから、自然倒壊したものではなく、人為的に崩された、「破城」が行われた可能性も考えられます。
 
 
ということで、注目の崩落土石をどうするかの結論はまだのようですが、当ブログとしては、要は、ここの土中に残存した天主台石垣にも、南西側と同様の「寄せ掛け柱が焼けた痕跡」!などが見つかれば、一発で、懸造り舞台の可能性を言い続けられるわけですが、そうは問屋が卸さない事態になりました。

成果報告会の後半では、平成の調査でもおなじみの松下浩先生(文化財保護課課長補佐)が「破城」をテーマに語っておられましたが、当ブログの冒頭から申し上げたとおり、私自身、天主台跡は「遺跡」然としたものであり、そのうえ主郭全体が(思っていた以上に)徹底的な「破城」を受けた存在なのだと認識できたのは、今回の調査の成果によるものと感じております。

いくぶん気になるのは、日本全国の主だった城跡は多くが「破城」「城破り(しろわり)」を受けた可能性がありうるのでしょうから、「破城」の痕跡の土砂等を<<どう扱うか>>は今後の発掘のあり方への影響も大きそうで、本当に、難しい時代になったものです。―――――
 

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