カテゴリー: 安土城「大手道」・犬山城・鳥取城

異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?


異様な「大手門」は信長の存命中は無かった?

前回、幻の「安土山図屏風」について、絵の概略のイメージを作ってみましたが、その左隻の方をシャルヴォア『日本史』の銅版画と比べてみますと、いくつかの発見があります。

上:安土山図屏風(左隻)イメージ / 下:シャルヴォア『日本史』銅版画

ご覧のとおり、双方の描写には共通する点が多々あるように思われ、中でも今回、特にご注目いただきたいのは “城道” です。

と申しますのは、銅版画で主郭部につながる城道は、現地のその周辺の道とおおよそ一致するように見えるからです。

例えば、銅版画の主郭部の虎口(本丸南虎口?)から出た城道が、山の斜面を西へ斜めに下って摠見寺につながるところなど、良く似ています。

そして注目すべきはその下、両側に屋敷(曲輪)群が多数連なった「大手道(おおてみち)」と思しき城道も描かれている点です。

(※銅版画は道がややクネクネと曲がっていて、一見、西斜面の「七曲道」のようにも見えますが、急峻な「七曲道」の両側に屋敷群が連なることは無く、やはり「大手道」と見る方が自然でしょう。)

発掘調査後の「大手道」現状

「大手道」は平成元年から行われた滋賀県の発掘調査で姿を現し、御所の清涼殿と同じプランの礎石列とともに、歴史ファンの話題をさらった大発見です。

山の南斜面に長さ約180m、幅9mもの直線的な石段が続き、両側に石垣造りの曲輪跡が並んでいて、その上は左右に道が屈曲しながら主郭部に達しています。
 
 
発掘調査関係者の報告では、これは「天皇のための大手道」(滋賀県安土城郭調査研究所『安土城・信長の夢』2004)とされていますが、ただ、これほど大掛かりな城道でありながら、『信長記』類などの文献にはまったく登場せず、「大手道」の名称も当時のものではないという、やや留意すべき点もあります。

小牧山城にも「大手道」が…

そして、ここで指摘せざるをえないポイントが、「大手道」は織田信長の以前の城・小牧山城にも、ちゃんとあった、という事実でしょう。

小牧山城は信長が美濃攻略以前の永禄6年、居城として築いた城で、山の南斜面に(道幅は安土城の半分ほどですが)約150mの直線的な「大手道」が築かれています。

小牧市教育委員会の中嶋隆先生は、発掘調査の結果から、「大手道」は一部の改修を除く大部分が信長時代のままと考えられるとし、そのねらいを推測しています。

(『信長の城下町』2008所収/中嶋隆「小牧城下町」より)

「南麓の城下から見上げたときの印象や大手道を通って主郭へ至る途中での視覚を重視して、新しい装いを施した城を造り出そうとしたのではないかと思われる。」
 
 
こうなりますと、「大手道」とは、信長の築城術において、どういう目的を与えられた城道なのか?という疑問が改めて浮上し、少なくとも “安土城だけの検討では解明しきれない” ように思えて来ます。

近江八幡城/直線的な城道の脇に並ぶ曲輪跡の石垣

(※例えばその他にも「両側に屋敷(曲輪)群をともなった直線的な城道」という点では、近江八幡城や犬山城などの例も思い浮かびます。)
(※このうち近江八幡城のケースでは、それは、城下町と、山の南斜面の中腹にあった城主・豊臣秀次の屋敷とを「最短」で結ぶための直線的な城道であり、一見すると「領国内の大名権力の集中」というテーマに深く関わる形態のようにも感じられます。)

その点では、小牧山城も似たようなもので、信長の築いた城下町が山の南麓約1km四方に広がっていたとされ、「大手道」は視覚的な効果はもちろんのこと、実際は、信長自身が城下町から山の鞍部まで馬で一気に駆け上がるための設備だったのかもしれません。
 
 
その意味でたいへん気になるのは、安土城「大手道」の石段が、踏み面(づら)を広くして築かれている点です。

これは各地の神社などでも見られる手法で、馬(神馬)がそこを駆け上がれるように、馬の歩幅に合わせて造られる石段です。

この石段の件は、信長の「大手道」とは本来、何だったのか? という命題に解明の光を当てる “物証” の一つとも思われるのですが、そうした中で、「大手道」の南端で思いもよらぬ発見があり、逆に “謎” が深まってしまいました。

それは日本国内のどの城郭にも例のない「大手門を中心に建ち並ぶ四つの門」です。

「大手道」南端の大手門跡周辺/この左右に門が一列に並んでいた

こうした門構えは、安土城の以前も、以後も、城郭では類似例がありません。

この謎の状況について、滋賀県の報告書類では「天皇を迎え入れるにあたり城そのものを内裏に見立てて玄関を内裏と同じ三門にした」(滋賀県安土城郭調査研究所『図説 安土城を掘る』2004)という解釈を行い、それに通用口の枡形門が加わって、四つの門が建ち並んだとしています。

しかしこれは、正直申しまして、やや無理のある拙速、のように感じられてなりません。

むしろ、もっと視野を広くして、あらゆる状況のバリエーションを想定して、解釈を下しても良かったのでは、と思われるのです。

そこで大胆な問いを申し上げますと、例えば、この「四つの門」は本当に、信長の存命中から、現状のような遺構が出来上がっていたのでしょうか??

例えば、江戸城内の紅葉山東照宮 → 歴代将軍の廟所の門が並んでいた…

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