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続・秀吉流天守台 ~消えた「六十一雁木」と鶴岡八幡宮~



続・秀吉流天守台 ~消えた「六十一雁木」と鶴岡八幡宮~

最初に、お陰様をもちまして、当ブログが累計30万アクセスを超えましたこと、厚く御礼申し上げます。

さて、前回ご紹介した「秀吉流天守台」の件ですが、豊臣大坂城の方については、或る別の解釈もありうることをここで申し添えたいと思います。

二つの天守台はさらにソックリだった可能性も…

上の図のように、もしも豊臣大坂城の付壇の書き込み「石垣高サ六間」がいちばん天守に近い位置にあったならば、この付壇じたいが「幅広の石段だった」という考え方も可能になるわけでして、それは結果的に、小田原城(や肥前名護屋城)にいっそう酷似した天守台になりうる、という点です。

これは大変に魅力的な解釈であり、これによって、問題の「小さな石段」がたった五段しか中井家蔵『本丸図』に描かれていないことも、物理的に説明しやすくなります。

と申しますのは、付壇の方はどの先生方の復元においても、少なくとも詰ノ丸奥御殿の地表から3~4間(6~8m)の高さがあったように復元されているからです。
そんな高さを「たった五段」で登りきれるはずもなく、そこで、いずれの先生方の復元も「小さな石段」をやむなく “二十段前後の石段” としているのが実情なのです。

その点で、もしも「付壇」じたいが実は「石段」であって、高さ3~4間の殆どをそこで登り降りできてしまうのなら、「小さな石段」の方は残りの何尺か(南に続く石塁の高さだけ)を「五段で」カバーすれば、無事に着地できるというわけです。

…… これは本当に、ほんとうに魅力的な解釈なのですが、ここはやはり、『本丸図』の書き込みを尊重しまして、ひとまずこれ以上は追究しないことにしておきます。

で、今回は「秀吉流天守台」のまた別の側面――《天守の上手(かみて)に虎口あり》という、豊臣秀吉の天守群に由来するはずの法則と、その法則が “消えてしまった” 天守群についてお話をしてまいります。

岡山城天守(昭和41年再建)

ご覧の岡山城天守については、以前から「安土城を模した」という『備前軍記』等の言い伝えがよく引用されましたが、正直申しまして、織田信長の安土城天主よりは、よっぽど豊臣秀吉の天守群に似ているはず(!…)と、私は信じて疑わない者の一人です。

建物じたいは比較検討が出来ないとしても、立地の場所、天守台やその周辺のプランは、どう見ても秀吉の天守群に似かよっているとしか思えないからです。
 
 
その特徴的な構造のひとつに「六十一雁木(がんぎ)」という石段があります。

岡山城「六十一雁木」の位置(当図は上が北)

城主の奥御殿にあたる「本段」の、天守に向かって右側(上手/かみて…演劇用語の “客席から見て右側” )に「六十一雁木」とその門があります。

一方、本段の南西(図では左下)の櫓門は、江戸時代には「不明門」(あかずのもん)でしたから、「六十一雁木」は奥御殿の “勝手口” として主要な出入口になっていました。
 
 
名称の「六十一雁木」はもちろん六十一段の石段という意味ですが、現状は二十五段ほどしか無く、かつては旭川の船着場までさらに石段が続いていて、全部で六十一段あったことから、その名が残ったと言われます。

しかしそれは江戸初期の「正保城絵図」において、すでに現状と同じ程度の石段しか描かれていませんので、六十一段のすべてが盛んに実用されたのは、築城者の宇喜多秀家や小早川秀秋の時代(つまり秀吉の影響がまだ色濃いころ)までなのかもしれません。
 
 
それにしては何故、「六十一」という数字が、徳川の世になっても(さもアリガタそうに)継承されたのか、ちょっと疑問に感じていたのですが、なんと…

あの鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の大石段も六十一段だった!

岡山城の築城の約500年前、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、関東の武家政権の精神的支柱として、現在の地に遷宮したのが鶴岡八幡宮です。

ご覧の表紙の写真で、大石段の上に見えるのが上宮の楼門で、左側に写っている大木が源実朝(さねとも)暗殺で有名だった「隠れ銀杏」です。

で、前回に申し上げた「小田原攻め」を終えた秀吉も、帰路にこの鶴岡八幡宮を参詣したわけですが、その時、秀吉が社殿の修理を命じた「修営目論見図」を見るかぎり、石段などの基本的な構造は当時から変わっていないようです。

どの解説本を見ましても、大石段は「六十一段」とされて来ていて(※現状は改修の結果、六十段になってしまったそうですが)武家が「六十一」という石段の数に特別な感情をいだいた理由も、ここから推察できそうです。
 
 
そこで思うのは、天守の上手の「六十一雁木」は、たんに岡山城だけの現象なのだろうか? という疑問です。

西ヶ谷恭弘責任編集『秀吉の城』1996年

秀吉と家臣団の城の “何らかの傾向” を調べたい場合、どの城を選ぶかは人によって違いが出ることもありえますので、私の好みが出ないように、例えばご覧の西ヶ谷恭弘先生の本で取り上げた城を見ますと…

秀吉直臣の城に見られる《天守の上手に虎口あり》という法則?

それは秀吉自身の天下取りの城(山崎宝寺城)に始まっていた?

まず上図の城はいずれも、天守との位置関係において、まったく同じ場所に主要な虎口(正門か、もしくはより実用的な第二の門)が必ず設けられています。

同じプランの城を西ヶ谷先生の本で数えますと、本の「秀吉の城12」「秀吉直臣の城18」のうち、天守の位置がおおよそ確定している城を計19としますと、その中の姫路城、山崎宝寺城、肥前名護屋城、伏見城、会津若松城、甲府城、和歌山城、大和郡山城、岡山城、但馬竹田城、鹿野城、洲本城、熊本城と、13の城が同じプランを採用しています。
 
 
こうした傾向は一方で、おそらくは秀吉の聚楽第を経て、徳川家の駿府城や名古屋城、福井城といった、一連の矩形の城にも引き継がれたのだろうと思われるのです。

名古屋城天守の直下の不明御門(あかずのごもん…城主らの緊急脱出用)を外から見た様子

※現在の再建天守は非常階段も見えてご愛嬌です

以上の結論としまして、実は、豊臣大坂城にも「六十一雁木」があったのではないか、そしてそれは当サイトが申し上げている秀吉晩年の本丸大改造(中井家蔵『本丸図』)で “消えてしまった” のではないか… と私は感じております。

かなり荒唐無稽な印象を持たれるかもしれませんが、でも前回の小田原城天守の長大な石段はどこから生まれたのか? 秀吉は天守に至る参道を設けていたのではないか? という疑問に対する回答が、この豊臣大坂城の “消えた六十一雁木” にあるように思われてならないのです。

それは空想の域を出ないものの、さぞや壮観であったろうと…

そして秀吉は自らの天守を、鶴岡八幡宮と対照させたのではないか、とも…

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