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秀吉流の天守「解釈変更」の極地は聚楽第か。新規イラスト→摩阿姫が住んだのは最上階 ! ! ?

【即応】キシダフミオが喜々として( ! ! )、安倍派を道連れに
 自派閥を解散宣言。これって、要は「代理戦争」でしょ?


自分だけ安泰ならば仲間はどうでもいい、という笑顔。
自らの根深いコンプレックスを御せないキシダフミオは、
「悲惨さ」が顔ににじみ出て来ています。……… 

 
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さて、昨年末に思い立った新規イラストが、今から思えば、これまでに全く作ったことのない(ドローン写真のような)天守の最上階近くから建物をなめて見下ろす、大きなパースペクティブの画であったために、作業が何度も手戻りして、年末年始に予想外の時間を要してしまいました。

その結果、この2024年の幕明けで、記事のアップを二度も延期させていただくという事態になり、もうこれ以上の延期はしたくありませんので、ひとまず、説明文をやや簡潔にした<速報版>でお届けしたく存じます。

(昨年末のブログ記事より)

で、今回の記事は、ご覧の昨年末の記事(=安土城イラストの補足説明。巧みな“ジャンクション接続”が物語る、天主の「重階」の並列性?について)との「対比」の意味で、是非ともご覧いただきたい内容です。

と申しますのは、織田信長による草創期の「天主」は、天主台上の一階において、
<書院造の「主殿」としての構造が、階の一部にしっかりと取り込まれていた>
という状況を改めてご確認いただけたものの、しかし次の天下人・豊臣秀吉が登場しますと、おそらくは秀吉一人の判断で、そうした<不文律>はあっけなく変えられてしまい、天守の最も注目される階が「一階」から「最上階」へと移り変わったようなのです。……



一昨年の当ブログ記事より
/ 宮上茂隆著・穂積和夫イラストレーション『大坂城 天下一の名城』からの画像引用)


という風に、あろうことか、秀吉は最上階に30人もの宣教師らを登らせて、肩が触れ合うほどの車座になって茶を飲んだと伝わっていて、これは言うなれば、とてつもない天守の「解釈変更」がなされた……とも言える事態だったのではないでしょうか。

そしてその動きは―――
 
 
 
< 秀吉流の天守「解釈変更」の極地は聚楽第か。
  新規イラスト → 摩阿姫が住んだのは最上階 ! !? >

 
 

【 ご参考 】 2015~16年、京大防災研究所などの共同研究チームの探査で、
地中の聚楽第天守台跡は、内掘に大きく突き出た「正方形」平面と推定された。

(※写真は、木づちで地面を叩き、表面波を計測して地中を探査する様子)


そのように天守台は、西側に大きく突き出た形状だった……となれば、そこには
「平入り」が基本の望楼型天守は建てづらく、層塔型を考えざるをえない状況に。


(※ご覧の内堀・外堀の様子は、京大防災研究所の復元図に基づいて作成)

聚楽第天守は、層塔型!?…と考えた場合、がぜん注目される絵画史料は、
かの『御所参内・聚楽第行幸図屏風』に描かれた天守(御三階?)だろう。



→ 層塔型の御三階であれば、内堀に突き出た正方形の天守台でも、無理なく納まる


ということで、従来、天守の描写と言われてきた『聚楽第図屏風』は………

というように当ブログはこの話題を度々、取り上げて来ましたが、その中では、築城当初の聚楽第は天守台のみで天守はまだ存在せず、秀吉時代の後半(天正18年か)になって初めて層塔型の御三階が建てられ、それこそが前田利家の娘で秀吉の側室・摩阿姫(まあひめ)を住まわせた建物ではなかったのか、などと申し上げてまいりました。

そして上記の地中探査の結果を踏まえますと、『御所参内・聚楽第行幸図屏風』にある天守(御三階?)は逆に注目の的となる存在であり、その最上階の描き方は、岡山城の月見櫓と同様に、本丸御殿の側(南東側)だけが大きく開放できる構造になっていた?…とも読み取れる描き方でしょう。



岡山城の月見櫓

この類似を重視した場合、一方で屛風絵の天守(御三階)の下層階は、一転して、おびただしい数の狭間や銃眼(だけ)で埋め尽くされている様子は、他に類例のない、非常に特徴的なコントラストである、と言わざるをえません。

――― これはいったい何故なのか?と考えますと、前回記事のラストで申し上げた「放言」がまたもや、思い出されまして、

<<強いて言えば、天主(天守)の「重階」というのは、上に行けば行くほど、より大切な物がしまってある場所、といった違いしか無かったのではないか…>>

といった想定をここでも適用するなら、例えば、聚楽第の天守にしまっておく「いちばん大切なもの」と言えば、それはもちろん、摩阿姫(まあひめ)その人、になったはずでしょう。
 
 
ならば!!…ということで、摩阿姫はどの階に住んだかと言えば、おのずと「最上階」に住んだのかもしれませんし、その場合、最上階は前出の略画イラストよりもはるかに広いものだったのかもしれない……と、反省せざるをえないように感じるのです。


↓           ↓           ↓
より屛風絵に近いプロポーションの改訂版(※七尺間で、最上階を五間四方に)

 
 
< 最上階を中心にした、パースペクティブのある天守画イラストの作成へ。
  作業を進める上で、是非ともクリアすべき条件。その1、その2 >

 
 
 
【 条件その1 / 背景の北西側には、どういう景色が見えたのか 】

(ご参考 / 6年前の当ブログ記事より)
森島康雄先生が想定する「京中屋敷替え」後の大名屋敷地区(青枠)への移転
(※京大防災研究所による内堀と外掘、足利健亮先生による外郭ラインも図示)

今回のイラスト化では、御三階の周囲や背後の景色については、ほかに良い参考史料もありませんので、前出の京大防災研究所の調査で判明した<豊臣秀次の時代も新たな築造が続いた内堀と外堀>をそのまま描かざるをえません。

その場合、上記の森島康雄先生の「京中屋敷替え」の研究を参照させていただきますと、当時は、それまで本丸を囲んでいた大名屋敷の多くが、聚楽第の東側に移転させられた直後の状態だったと言えそうです。

したがって本丸周辺は(図中の「黒い太線」=『諸国古城之図』の「聚楽」図に描かれた外郭線=築地塀?までの範囲は)まだ外堀があるだけで、それ以外はただの更地(さらち)…狭間塀や木柵も無い、そうとうに殺風景なエリアが広がっていたのではないか……と思うのです。
 
 
【 条件その2 / 屛風絵の最上階の「白鷺」を、どう具体化するのか 】



         

         

過去のブログ記事で何度となく申し上げたとおり、ここに描かれたのは「鶴」ではなくて、「白鷺(しらさぎ)」である、という論点は全く揺るがないものの、では具体的に、最上階のどこに、どういう風に描かれたのか、となりますと、なかなか決定的な判断材料がございません。 ただし、少なくとも……

【ご参考】白鷺は、夏に後頭部の冠羽(かんむりばね)が立つのが特徴。
伝統的な日本画でも、これを鶴との差別点として描くのがふつう。



【同】九羽の白鷺で表現した「九思図(きゅうしず)」の一例(趙仲穆画/元時代)

といった当ブログ独自の視点は堅持しつつ、白鷺はやはり『論語』の君子をあらわした図像「九思図」として描かれたものとし、おそらく最上階は、白鷺(しらさぎ)づくしの襖絵だった、と想定してみました。
 
 
さあ、ではいよいよ、二度にわたる延期を乗り越えての新規イラストを、とくとご覧ください。
 

聚楽第天守(御三階) 当サイト独自の推定復元


 

!! 当ブログの冒頭で「とてつもない解釈変更」があったのかもしれない、と申し上げた意味が、お分かりいただけましたでしょうか。
織田信長の天主に比べれば、これが、どれほど革新的な姿であり、秀吉という破天荒な天下人がやってしまった“解釈変更の極地”だと、私なんぞには思えて来てならないのです。

なお最上階の「白鷺」について付け加えますと、これも私の手前勝手な想像として、例えば、最上階はどの部屋のどの位置にいても、花鳥画の中に「九羽の白鷺」が見える(=数えられる!)といった、摩訶不思議な襖絵の配置が工夫されたのではあるまいか?? などと妄想したのですが、どんなものでしょう。……
 

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