カテゴリー: 北ノ庄城

北ノ庄城「九重」天守や会津若松城「七重」天守は幻ではない



北ノ庄城「九重」天守や会津若松城「七重」天守は幻ではない

ふたたび私的な極論 / 天守のいちばん原初的なイメージ

このところ、私的な極論として、もっとも原初的な天守のイメージを手前勝手に申し上げて来たわけですが、その中では「天守としての条件が整うならば平屋建ても」などと極端な仮定の話まで申し上げてしまいました。

そうした天守誕生の契機についての考え方は微動だにしないものの、それならば「天守はいつ高層化を始めたのか?」という疑問は残るわけで、そうした観点から今回は、2012年度リポートの当初の予告内容(「層塔型天守はどこで生まれたか 朝鮮出兵-藤堂高虎の遠征路をゆく」)について、翌年度への先送りと若干の軌道修正をせねばならないと思い立った事情を含めまして、お話を申し上げたいと思います。
 
 
 
<天守高層化への「実験」が北ノ庄城で行われたと仮定しますと…>
 
 

ご覧の図は以前の記事の中で、本能寺の変の頃にあったと思われる天守を積極的に挙げてみたもので、この中で「三重天守」を上回る規模が確実と言えるのは、じつに安土城と北ノ庄城だけであり、その他では松ヶ島城や神戸城、坂本城が微妙… といったところではないでしょうか。

そして時系列的に見ますと、その中でもかなり早い時期(安土築城開始の前年の天正3年とも)に、頭抜けて高層化されたのが、柴田勝家の守る北ノ庄城の天守だということになります。

(『柴田合戦記』より)

(信長亡き後、羽柴秀吉軍は)終に甲ノ丸に攻め詰める。丸の内には大石を以て磊(らい)を積み上ぐ、其の墻(かき)数仭(じん)なり。晋の平公造るところの九層台に比して、天守九重に上げ、石の柱を鉄の扉重々に構へ、精兵三百余楯(たて)籠り、これを防ぐ。城内閑地なく、五歩に一楼、十歩に一閣、廊下斜に連なり、天守高く聳(そび)ゆ。
 
 
ここには「五歩に一楼」等とお決まりの形容詞があるものの、天守が「九重」だったと伝える書状等は他にも複数あるようで、この天守が相当な規模であったことは間違いなく、おそらく「九重」は文字どおりの階数だったのではないかと感じております。

と申しますのも、何故、北ノ庄城天守がいきなり高層化されたのか? という建築の位置づけや時期的なタイミング(信長のねらい)を推し測りますと、それは安土城天主に取り掛かる直前の「実験台」であったと思わざるをえないからです。

ですから、もし全てが信長のねらいどおりに運んでいたなら、安土城天主もまた「九重」天守として完成していたのかも… とさえ思われて来るのです。

福井平野(右下の白っぽい市街地の中央に福井城址/北ノ庄城の後身)

(出典:IPA「教育用画像素材集サイト」

かなり以前の記事でも申し上げたことですが、信長が小牧山城、岐阜城と、あえて山城に居城を構え、その山頂に「主城(フロイス日本史)」と呼ばれた事実上の天守を築いたねらいは、中国古来の易姓革命にちなんで天高く築いた政治的モニュメント(の創造と見せつけ)であったはずです。

そして越前… 一向一揆の拠点であり、北の上杉と対峙する、福井平野というまっ平らな土地のど真ん中に、北ノ庄城とその天守を築くことになった時、やはり「天高く」あるために、信長はかつてない規模の高層化を命じたのだろうと思われます。

信長はみずから北ノ庄城の縄張りも行ったそうで、近年、現地で出土した石瓦には金箔を張ったかのような漆塗りの痕跡があるとかで、北ノ庄城天守もまた豪華な「立体的御殿」だったのかどうか、そしてどのような外観をしていたのか、多くの人々の興味を誘っています。

北ノ庄城天守の推定復元模型(柴田神社/ウィキペディアより)

ご覧の模型は、柴田勝豊ゆかりの質朴な丸岡城天守を参考にしたそうですが、幻の「九重」天守の姿を推定する場合は、色々なアプローチがありうるでしょう。

そこで冒頭から申し上げているように、もしも北ノ庄城天守が安土城天主の「実験台」であったのならば、それは<安土城天主に瓜二つの建築だった>という考え方も、当然ありうるはずです。

つまり、設計の流用(先行試用)という可能性も、十分にありえたのではないかと申し上げたいのです。

例えば、例えばの仮説… 設計が流用されていた場合の一つの推定

※冒頭の文献どおりの「九重」で、なおかつ外観はまさに「実験台」で瓜二つ

前言のとおり、文献史料にいくつも残る「九重」は案外、本当の事ではないかと思う理由がこれでして、こういう風に、あくまでも安土城天主の「実験台」として想定するのならば、「九重」もそう不思議なケタはずれの数字ではないように感じられます。

しかも、こうした事情(信長の肝いり)で「九重」が実現されたのなら、その情報が織田家中のかなりの範囲に広がっても不思議ではありません。

そこで、もう一言だけ付け加えますと、信長亡き後、柴田勝家が秀吉との覇権争いのさなかで、あそこまで北ノ庄城にこだわった理由も、案外、こんなところにあったのではないかと想像するのですが…。
 
 
 
<もう一つの超高層天守、会津若松城「七重」天守は、
 文人大名としての「踏襲」をふまえた創意(本歌取り)の産物か>

 
 
 
会津若松城の天守は、信長の旧臣で豊臣大名の蒲生氏郷(がもう うじさと)が創建した当時(文禄年間~)は、七重の天守だったのではないか、という話がありますが、それについて建築史の大御所・平井聖先生は…

(平井聖「幻の蒲生氏七重天主」/『歴史群像 名城シリーズ 会津若松城』より)

氏郷の建てた七重の天守は、元和二年(一六一六)に幕府に提出した「領国絵図(控)」に描かれている。
元和二年はまだ加藤明成が天守を改築する前である上に、幕府に提出する図面であるからことさら誇張して描くわけはなく、また小さく嘘を描くということも考えにくい。
従って、七重の天守が実際に存在していたと考えるべきだろう。

 
 
この件に関しては、私なんぞは長い間、西ヶ谷恭弘先生が『戦国の城』シリーズで主張された、大入母屋屋根をもつ黒壁の復元案の方に賛意を感じて来たのですが、ふと前掲書の次の部分を読み直した時、「アレッ…」と自身の手ぬかりに気づいてしまったのです。

(平井聖「幻の蒲生氏七重天主」より)

七重の天守について、氏郷が豊臣秀吉の肥前名護屋城の天守を模したとのいい伝えもあるが、ほぼ同時期に建てられただけに、どの程度まねることができたか疑わしい。
その上、板倉家に伝えられた屏風の模本(佐賀県立博物館蔵)に描かれた名護屋城天守は、五重である上に屋根の形式なども全く似ていない。

では氏郷が模倣(もほう)した可能性があるのはどこ?
肥前名護屋城天守…下三重が同大で建ち上がっていた、という仮定の独自イラスト

(平井聖「幻の蒲生氏七重天主」より)

一つの仮定として、七重を五重に改める時に、下の二重を除いて、上部の五重を利用し、もとの天守の張出を新しい建物につけるなどして形をととのえたということも考えられる。(中略)
慶長の地震でいたんだとしても、天守の重みや構造から、破損したのは下部の一・二重と考えられ、上の五重を再利用することは十分に現実的なことなのである。
 
 
!!!… 何という手ぬかり。自分が一年前にリポートで描いたイラストに、会津若松城の答えをちゃんと描き込んでいた、ということに気づいたのは、つい最近の事です。

すでにお分かりのように「肥前名護屋城の天守を模した」というのが、下三重が同大で建ち上がっていたことであれば、「七重を五重に改める時に、下の二重を除いて、上部の五重を利用し、もとの天守の張出を新しい建物につけるなど」した場合、それはまさに、現在の五重天守そのままの姿なのです。!―――

会津若松城天守(昭和40年に外観復元)

試しに、上記の考え方で「七重」天守を逆算してみると…

このようにして見ますと、蒲生氏郷が七重の天守を構想したのは、やはり数寄や和歌に通じた文人大名らしく、旧主・信長の安土城の七重天主を「本歌取り」しながらも、秀吉の肥前名護屋城天守にも目配りし、なおかつ自らの創意も盛り込む、という多芸さのなせる業だったのでしょう。

そして前述の平井先生の解釈に従いますと、ご覧のとおり、会津若松城「七重」天守はすでに「層塔型天守」の要素を備えていたことになってしまうのです。   

自分は最近まで、層塔型天守が意識的に造型されたのは、藤堂高虎が朝鮮出兵で感得したものを丹波亀山城で具体化したものであり、それを受けて、細川忠興や小堀遠州が「層塔型」に磨きをかけて行ったのだ、という大まかな見立てを持っていました。

ところが、今回申し上げたように、そんな登場人物らに先駆けた人物として「蒲生氏郷」を考慮に入れねばならない事態になり、リポートの軌道修正を考える必要が出て来てしまった、というわけなのです。…

(※次回に続く/会津若松城「七重」天守のイラスト化など)

(※2019年6月13日の追記/「再考・会津若松城の七重天守の「懸出し」はどこにあったのか」の回も是非ご参照下さい)
 

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