再考・会津若松城の七重天守の「懸出し」はどこにあったのか

再考・会津若松城の七重天守の「懸出し」はどこにあったのか

平井聖先生の考察を参考にしながら、蒲生氏郷が創建した七重天守を推定復元し、


現地に再現してみると…(※上下二図はともに「東面」を想定)

ご覧の略図やイラストは7年前の当ブログ記事でお目にかけたものですが、これらは平井先生の「七重の天守が実際に存在していたと考えるべきだろう」「肥前名護屋城の天守を模したとのいい伝えもある」「七重を五重に改める時に、下の二重を除いて、上部の五重を利用し、もとの天守の張出を新しい建物につけるなどして形をととのえた ということも考えられる」(歴史群像 名城シリーズ 会津若松城)との考察に基づいて、その天守は下三重が同大の構造だった、とする年度リポートの推理も加味して描いた略図やイラストです。

ただしこれらは、四方の張出し(懸出し)は幕末の状態そのままの方角で移し変えたものであり、さらに最上階の屋根だけは『領国絵図』の描写にしたがって、棟方向を90度ずらしたものでした。

【ご参考】会津藩の領内を「北」から見て描いた『領国絵図』
→ ここに描かれた七重天守は、すなわち「北面」であろうと解釈した…

かくして、懸出しの方角は幕末と同じままで、しかし最上階屋根だけは90度ずらす、という工夫をした結果、ご覧の「北面」のはず?の描写にピッタリと合わせることが出来たわけです。

冒頭の略図・イラストはこんな考え方から描いたものでありまして、『領国絵図』の七重天守が北面だという「解釈」に、大きく依存したものでした。

前回ブログより(※藤岡通夫先生の立面図=東面を使って作成)

――― ところが、前回の記事のごとく、藤岡先生の『会津若松史』第二巻1965年の論述において、会津藩が幕府に提出した明細書には「懸出し四ヶ所二間に三間づつ。但し上より四重目南北、五重目東西、外一ヶ所」との記録があり、その「四重目南北、五重目東西」は幕末の状態とは方角が90度違いますし、『領国絵図』の北面の(はずの)七重天守とも方角が90度違う、という矛盾(むじゅん)が生じています。

これはいったい何故なのか? 原因がよく分からないのですが、冒頭の略図やイラストは、やはりもう一度、解釈を再考してみる必要があるのかもしれません。…

そこでこの際、藤岡先生の論述の該当部分を ごっそり引用して お目にかけた方がいいのではないか?? と思い立ちまして、藤岡先生が文中に加えた(  )の注釈部分や、巻頭の正誤表も反映させた形で、該当する282頁と283頁をそっくりそのまま、全文を引用してみたいと思うのです。

ちなみに引用箇所は、その直前までが加藤明成時代の五重天守への改築についての論述であり、それに続く「天守の規模」という段落になります。

天守の規模
次に加藤明成の天守改築を推定させる大きな理由は、天守の様式そのものにある。天守の規模は、幕府に提出した明細書によると、次のように記されている。
御天守 初重 十一間半四方(約二〇・九メートル)百三十二坪五厘
                        二百六十四畳半敷
    二重 九間半四方 (約一七・三メートル)九十坪二分五厘
                        百八十畳半敷
    三重 七間半四方 (約一三・六メートル)五十六坪二分五厘
                        百十二畳半敷
    四重 五間半四方 (約一〇メートル)  三十坪二分五厘
                        六十畳半敷
    五重 三間半四方 (約六・四メートル) 十二坪二分五厘
                        二十四畳半敷
  坪合 三百二十一坪二分五厘
  畳敷 六百四十二畳半なり

 
 
と、ここまでが前半の282頁(と正誤表による訂正)ですが、ご覧のように初重の坪数「百三十二坪五厘」が本来は「百三十二坪二分五厘」という風に「二分」を書きもらしたものだと感じる以外は、特におかしな点も見当りませんが、やはり一見して、これらは「五重天守の記録」だと言わざるをえないのでしょう。

しかし、続く283頁には…
 
 
 懸出し四ヶ所二間(約三・六メートル)に三間(約五・五メートル)づつ。但上より四重目南北、五重目東西、外一ヶ所、東下塩蔵の露二間。
 高欄五間(約九メートル)四方 縁幅四尺(約一・二メートル)づつ。
 井戸一つ深さ拾六間(約二九・一メートル)差渡九尺程(約二・七メートル)
 土台より棟まで高さ十六間(約二九・一メートル)土台まで石垣の高六間(約一〇・九メートル) 但障子まで八間(一四・五メートル)
 御天守 石垣惣廻り塀共土台折り廻し
  東西三間(約五・四メートル)南北十八間(約三二・四メートル)なり

 
 
とありまして、このページの頭の「懸出し四ヶ所 ~ 但し上より四重目南北、五重目東西」という問題の記述だけが不自然であり、そのほかは五重天守の記録として特に問題は無さそうなのです。

――― これはいったいどういうことか?と再考しますと、結局、一つの仮説として、ご覧の『領国絵図』の七重天守が「北面」だという解釈が間違っていて、描かれたのは実は東面か西面であり、したがって当ブログの略図やイラストも、方角が90度ズレていたのかもしれない、という反省点が浮上するわけでして、そんな七重天守は、加藤明成が五重に改築した際に、懸出しの方角を90度ずらして、幕末の状態に変更したのではなかったのか… と。

実際はそんな改築が行なわれたものの、会津藩の記録上は、七重天守の懸出しの情報が “まぎれ込んで” しまっていたのだ…… という風にでも考えるのが、いちばん合理的な結論のように思えて来たのです。!

【冒頭の略図の「改定版」を作ってみました】


そして藤岡先生はその後、著書『城と城下町』昭和63年版のなかで、七重天守を描いた古絵図について、

「この図ならびに加藤氏時代の天守によって蒲生氏時代の創築天守を推定することも可能になるが、それは二重目より六重目までの各重に入母屋屋根がなく寄棟造りとなっていた点、松本城天守と軌を一にするもので、すでに江戸時代の先駆をなす手法をみたであろう。寛永改築の時に上の二重を壊したと伝えるのは表現が悪く、全体に縮めて二重を減らしたのだが、形式手法にはかなりよく前規を踏襲していたかと思われて興味深いものがある

という風に、蒲生氏郷の七重天守が <<すでに層塔型天守だった>> という考え方に立っておられたことは、私としては、まことに心強く、改めて 意を強くするものであります。
 

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。