大注目の松山城「古本壇」は、原初的な「二重天守」の典型か?
西部邁先生が多摩川に入水自殺した翌日の、関東周辺を襲っている大雪は、これは何かの… 大乱の兆(きざ)しではないのかと感じてしまう八王子市民が、気を取り直して、今日の本題を申し上げます。
四国・伊予の松山城と言えば、山頂の本丸の「本壇」上に、江戸後期に再建された三重の大天守や小天守・櫓群が建ち並んでいて、その壮観さに人気の高い城ですが、近年の研究で、築城者の加藤嘉明の時代には「本壇」の様子がだいぶ違っていた可能性が言われています。
1月6日発売の『歴史群像』はご覧になった方も多いかと思いますが、香川元太郎先生がいつもながらのイラストレーションを駆使しながら、その古い時期の本壇…「古本壇」の驚きの姿を見せてくれておりまして、とりわけ私なんぞには大注目の記事です。
と申しますのは、「古本壇」は現状と大きく異なり、曲輪の平面形や石垣の状態が違ううえに、三重の大天守や伝承の五重天守はまだ無く、多聞櫓などがめぐっていたようですが、解説文の中で香川先生は「御殿や天守などの華やかな建物はなさそうだが」と書いておられるものの、いえいえ、どうして、どうして、この時の松山城は、原初的な天守を、しっかりと城下に見せつけていたと私には思えてならないからです。…
ご覧のごとく香川先生ご自身も、古本壇のいちばん西側の建物には、やはり何か特別な位置づけを感じられたようであり、イラストレーションではこの建物だけに(新発見の絵図でも判断しきれない)高欄廻り縁をあえて描き込んでおられます。
今回、私が申し上げたいのは、これこそ大注目の、典型的な「二重天守」ではなかったのかという点なのです。
【ご参考】ちなみに現状の本壇は… 写真は小天守の背後に大天守が見える
現状に比べますと、築城当初は図の左側(いちばん西側)の北櫓-十間廊下-南櫓のあたりがググッとすぼまった平面形になっていて、その突出した石垣上に「二重天守」は建っていたことになります。
したがって、城下から山頂の本丸や古本壇を見上げた場合でも、ことに山麓の二ノ丸(やその後の三ノ丸)が設けられた南西側の城下から見れば、古本壇のいちばん左側に突き出た形でこの「二重天守」が見えたはずであり、決して存在感に劣るような姿ではなかったはずだと思うのです。
慶長期の、三重目が無かった犬山城二重天守を、当サイトが推定したもの
当ブログはこれまでに、「二重天守」が天守の原初的な姿(伝承の楽田城など)に近いものとして注目してまいりましたが、どうも日本人一般の方々の認識として、三重や五重以上の高さがないと、それは天守ではない、という【間違った思い込み】が社会に定着していることに警鐘を鳴らしたい、という気持ちもあって…
<<天守が天守たりえた最大要件は、決して建物の「重数」ではなかった>>
<<それは天守(台)の「位置」であり、織豊系城郭の曲輪群の求心性の中心点であること>>
という風に、繰り返し申し上げてきたところでありまして、この織豊系城郭における一種の原則は、先行した松永久秀の城や、後追いの徳川幕府の治世下では、原則がやや崩れたとはいえ(→萩城天守など例外的な山麓の天守…)慶長7年から加藤嘉明が築いた松山城の「古本壇」に、まさに原則どおりに、広めの天守台の突端(=うずまきの中心点)に二重天守があったとなれば、改めて驚嘆せざるをえません。
同様に、求心性のうずまきの中心点に二重天守をあげていた飛騨高山城
!! ここまでご覧になって、ようやく、今回の記事に「大注目の―――」などという、大仰なタイトルを私が付けてしまった動機が、お分かりいただけたのではないでしょうか。
奇(く)しくも、両者ともに「西」に向かって突出した石垣上に建つ、原初的な二重天守と思しき建物……
なんと、織田信長の小牧山城との酷似。 こんな時空をまたいだ「連環」をまのあたりにしますと、加藤嘉明や金森長近らは、たいへんに意識的であったのではないかとさえ思えてしまうのです。
松山城の本丸などが築かれた勝山の全景(南側から)
さらに申し添えるなら、主たる城下側から本丸を見上げた時の「いちばん左側」という位置は、小牧山城を飛び越えて、織田信長の岐阜城も連想させるものであり、金華山の山頂にも必ずや「二重天守」があったはずだと、ますます確信を深めているところなのです。…
ご存じ、城下側から見上げた岐阜城 / 天守(台)は山頂本丸の「いちばん左側」
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。