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熊本城天守は徳川系の天守??熊本市政の功罪と合わせて考える



熊本城天守は徳川系の天守?? 熊本市政の功罪と合わせて考える

豊臣秀吉の存命中には無かった!熊本城天守(大天守の上層部分/外観復元)

2011年度リポートの中の「豊臣大名の天守マップ」において、これは一言、別途申し添えなければと強く感じたのが、熊本城天守です。

加藤清正による天守の完成は慶長5年か6年(つまり関ヶ原合戦の年か翌年)と言われ、秀吉の存命中はずっと未完成であったため、マップ(慶長3年当時)にも表示しておりません。

―――ところが熊本城天守は、その黒い壁面のためか “豊臣の天守” の代表格として挙げられることが大変に多く、完成の時期から言えば、徳川家康の二条城天守や結城(松平)秀康の福井城天守などと同じく、徳川の覇権が確立される最中に登場した天守だという、重要なポイントがないがしろにされている感があります。

二条城天守/福井城天守/熊本城天守 …これらは唐破風を高く掲げた 同期の桜?

そこで今回から、熊本城天守の複雑な位置づけ(境遇と変遷)について、近年の熊本城の状況も含めて申し上げてみたいと思います。
 
 
 
<熊本城は築城400年か、完成400年か、熊本市長の「政治的」手腕の妙…>
 
 
 
加藤清正による築城は、ご承知のように天正16年(1588年)に城地の一角「古城(ふるしろ)」に入城したものの、全面的な築城工事は「慶長六年(1601)に起こされ同十二年に完成した」(『日本城郭辞典』)等とされて来ました。

しかし天守については、例えば北野隆先生の指摘で、文禄3年(1594年)に小天守の広間が完成したり、慶長5年(1600年)に大天守の畳を敷くなど、着々と完成に向かっていたことが判ります。
 
 
ということは、一般的に言われた慶長6年の「全面的な築城工事」の直前には、すでに大小天守は完成していたばかりか、そうであるなら、少なくとも本丸の石垣普請は “完全に” 出来上がっていたはずでしょう。

となると、なおさら気になって仕方が無いのが、近年の城ブームにも多大な貢献を果たした「熊本城築城400年」の築城年のとらえ方なのです。

華やかに復元された大広間 …復元整備計画の目玉の一つ

思えば番組「司馬遼太郎と城を歩く」の制作当時、熊本城を担当した高橋ディレクターから、熊本城の “築城年” をめぐる市側の説明を又聞きして驚いた記憶があり、それは申し上げたとおりに、清正の熊本(隈本)入城や天守の件が頭にあったからです。

しかし「築城400年」の起算年について、熊本市はまったく違うやり方をしていたわけで、これは三角保之(みすみ やすゆき)前市長、幸山政史(こうやま せいし)現市長(2002年就任/現在3期目)の二代にわたる「政治的」手腕の結果と言うべきでしょう。

では熊本市政が “築城年” の設定にいかに関わって来たのか、下の表をご覧下さい。

ご覧のとおり、“築城年” が市政の都合で設定されて来た経緯が、再確認いただけるのではないでしょうか。

すなわち「築城400年」とは、清正の入城400年目ではなく、全面的な築城再開400年目でもなく、もっとあとの城の完成400年目(2007年/平成19年)に合わせたものであり、一見、正当性があるようでいて、復元整備計画が1997年に出来たことから考えますと、もはやこれしか選択肢は無かった――― と言えるのかもしれません。

ただし、ここで見逃せない(もはや言わずにいられない)重要なポイントは、市の主張する築城年と、いま韓国で公然と言われている「俗説」との、妙な因果関係なのです。
 
 
 
<「熊本城は韓国人が築いた」という俗説の蔓延と、それを許した築城年の解釈>
 
 
 
ご存知の城郭ファンはすでに多いこととは思いますが、改めて「俗説」の概略を申しますと、それは、熊本城は加藤清正が朝鮮の蔚山城(うるさんじょう)から連れ去った1000人の朝鮮人技術者が築いた城で、だから熊本城の見事さは朝鮮の技術によるものなのだ、という内容です。

で、これが韓国では学校教育の場にも採り入れられ、それを学んだ生徒達が、修学旅行で熊本に「大挙して」やって来る、という流れも出来ているそうです。

この「俗説」が完全な間違いであることは、ご承知のように蔚山城の戦いは、新築の城に篭城した日本勢が、押し寄せた明・朝鮮連合軍を最終的には撃退して終わっていることから明らかで、そこから朝鮮の技術者を1000人も連れ帰るなど、シチュエーションとしてありえなかったことです。

おそらくは、膨大な数の捕虜や陶工などを日本国内に連行した件と、有名な蔚山城の激戦とがごっちゃになって出来上がった「俗説」と思われますが、それにしても、最低限、<熊本城は韓国人が築いた> という誤りは正さなければなりません。

ところが、そこで問題になるのが、例の「築城年」の一件なのです。
 
 
つまり、城が完成した慶長12年(1607年)をあくまでも「築城年」にしたい熊本市と、蔚山城の戦い(慶長2年末/1597年)という朝鮮出兵の最終局面で連れ去られた朝鮮人技術者が… という「俗説」を言いたい韓国側とが、妙な符合を見せているのです。

どういうことかと言いますと、ここでもしも(前述の天守の完成時期など)朝鮮出兵が終わる前後には、もう熊本城の中核部分は出来上がっていた(!)という話が社会的にオーソライズされてしまったら、熊本市も、韓国側も、両者とも <都合の悪い立場> に陥ってしまうわけなのです。


(※上写真はブログ「日本全国ビッグマックの旅」様より引用)

現職の幸山政史市長は「選ばれる都市へ」というキャッチフレーズをご自身のホームページに掲げておられますが、そうした姿勢の甲斐あってかどうか、韓国からの観光客もかなり増えたと言われます。

そしてそれに呼応するように、「熊本城は韓国人が築いた」説の火の粉は市長にも降りかかったようで、その中身は朝鮮日報の電子版(「魚拓」云々の画面をもう一度クリック)をご覧いただくとして、ネット情報によれば、熊本市は「市長はそんな発言をしていない」と朝鮮日報の報道を打ち消すコメントを出したとも言います。
 
 
そうであるならば、幸山市長は韓国の親善団体と会った時、熊本城の築城過程について、どういう説明をしたのか、たいへん気になるのですが、なんと同時期には、幸山市長の朝鮮総連の関連施設に対する温情的な政策をめぐって、訴訟が起き、こちらは最高裁で市長側敗訴の判決が確定したそうです。

これはひょっとすると、先々、熊本城もあらぬ運命を背負わされ、タダゴトで済まないのかもしれない、という危惧を抱くのは私だけでしょうか。

(※幸山市長は圧倒的な票差で3期目の当選を果たしています)

熊本市民の皆さん、どうなのでしょう。儲かるなら、こんなことは構わないのでしょうか?

(※次回に続く)

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