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大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた



大和郡山城天守をそのまま移築した徳川家康の「ねらい」が見えた

前回は「予談の予談」ということで、私なんぞが感じている石田三成の人物像(いま盛んに言われる「義」の武将ではなくて「預治思想」の権化となった成り上がり高級官僚だったのでは?)を思い切って申し上げましたが、その最後には、ご覧の「武断派」七将と徳川家康との
“壮大な共犯関係” についても、勝手な見方を申し上げました。

そうした見方の出発点になったのは、豊臣秀長(とよとみのひでなが)が「武断派」諸将を「軍中 功を求め、限りなく高禄を欲する者共」と呼び、「それほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ」とまで兄の豊臣秀吉に迫ったと伝える『前野家文書』であり、それに着目した白川亨先生の『歴史群像』の記事でした。

 豊臣秀長像(永観堂蔵)

その『前野家文書』の記述や白川先生の指摘が正しいのなら、秀長は「武断派」に対してかなりの危惧を感じていたことになり、彼等の要求は、豊臣政権の行く末にいつまでも不安定感をもたらす(→もし朝鮮出兵が無かったとしても、そのハケグチは国内でどう処理できるのか?)という前途多難なイメージを持っていたのではないでしょうか。

以前のブログ記事では、秀長が「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」と語ったとおりに、「公儀」を代行した秀長と千利休という巨頭コンビが政権初期を支えたものの、やがて石田三成・安国寺恵瓊らの「吏僚派」が諸大名との取次役として実力をつけ、秀長や利休を圧倒するようになった(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」)との指摘を引用しました。

……となりますと、<秀長・利休コンビ―武断派―吏僚派―関白の豊臣秀次> という豊臣内部の各派閥の関係はどうなっていたのか? それぞれが四つ巴の対立だったのか、そうとも言えないのか、頭の中がこんがらがりそうで、整理が必要です。

そもそも「武断派」と石田三成との対立が言われるのは、およそ朝鮮出兵が始まってからのことと断言していいのでしょうから、それは前回も若干触れたように、「武断派」七将は朝鮮出兵の困難と失敗(=高禄への期待外れと徒労感)が原因で、秀吉亡き豊臣政権には期待が持てない(→番頭役の三成が「預治思想」の権化ではまったく救いが無い!!…)と見限って、外様の大大名・徳川家康との “共謀” に走ったのだと見ていいのでしょう。
 
 
ですから、ここで一つ確認しておきたいのは、そういう権力闘争の対立軸として、石田三成や加藤清正など秀吉子飼いの武将を <吏僚派と武断派> の二派にわけて論じる言い方はおなじみですが、その一方で、かなり早い時期から、外様の諸大名も含めた形の<「集権派」と「分権派」>という大きな色分けで論じることも可能だとされて来た点です。!

この件は、当サイトが天守の形態(望楼型と層塔型)には建造目的の本質的な差があり、それは結局、城主が「集権」「分権」のいずれを志向したかとも関わる、という独自の主張をして来たこともあって、たいへんに興味のある事柄です。

それと申しますのは、近世史の大御所・朝尾直弘先生の「豊臣政権論」という、いまや古典的な論文(1963年!)なのですが、この論文の中で先生は、天正末期(小田原攻め以前)の豊臣政権の<東国政策>のなかに「集権派」と「分権派」が分かれるシチュエーションが生まれ、やがてそれが豊臣政権を崩壊させる「構造的な矛盾」につながったのだとしていて、私なんぞには、まことに印象的だったのです。…
 
 
(朝尾直弘「豊臣政権論」/『岩波講座 日本歴史9 近世1』より)

がんらい、豊臣政権の東国政策には硬軟両派あって、たがいに拮抗していた。
一派は、増田長盛・石田三成に代表されるグループである。長盛・三成は木村吉清とともに、早くから村上上杉氏工作の衝にあたり、その服属の後はこれと密接に連携して東国に触手を伸ばしていた。

(中略)
ここに、増田・石田―上杉―佐竹・宇都宮・結城―蘆名の系列が形成されていたことがわかる。
これに、比較的この派に近い南部・秋田氏を入れると、その背後に北国海運の商業資本の存在まで予測することも可能であるが、それより大きなこの系統の特徴は、いずれも独立の大大名として勢威を誇っていた伊達・北条二氏に隣接し、その力に脅かされていたグループだということである。
つまり、自己の権力確立のために、集権的な中央政権の必要性を切実に感じていた大名グループであった。

朝尾先生が指摘した「集権派」の面々 / 石田三成・上杉景勝・佐竹義宣…

小田原攻め直前の、東国大名の領国と支配地(ムラサキ系:集権派/赤系:分権派)

(さらに「豊臣政権論」より)

同じ東国でも、右の大名たちが中央権力とその物質的援助に依存する側面の強かったのに対し、より独立的に領国権力の形成を全うしたグループがあった。徳川・北条・伊達 三氏である。
豊臣政権の東国政策とは、つまり伊達・北条・徳川対策であり、三成・長盛派が集権派として強硬路線を推進したのは、これら大大名に圧迫された群小大名の征討要請を背景としていたからにほかならない。
徳川服従の後は宥和(ゆうわ)路線は家康を通じておこなわれ、富田知信・津田信勝らがこれにからんで動いており、さらに施薬院全宗・和久宗是といった秀吉側近の名が浮かんでいる。
豊臣秀次・前田利家・浅野長政もこれに近かった。分権派と呼べようか。

朝尾先生が指摘した「分権派」の面々 / 徳川家康・伊達正宗・豊臣秀次…

――― ! ! という風に、こうして見直しますと、朝尾先生が分類した<「集権派」と「分権派」>の色分けは、この直後の小田原攻め(戦国大名・後北条氏の滅亡)から、秀長の病没(毒殺?)と千利休切腹、関白・豊臣秀次の切腹、と続いた豊臣政権の重大事と深くリンクしているようで、なおかつ!後々の関ヶ原合戦の東西両軍の色分けとも大きく重なっていて、驚きなのです。
 
 
 
<豊臣秀長は外様の「分権派」大大名の取りまとめ役を自任していたか>
 
 

さて、そうした中での秀長の役回りが、大きく問われることになると思うのですが、秀長が天正19年に亡くなる3年前に、豊臣に臣下の礼をとって間もない頃の徳川家康が、秀長の居城・大和郡山城を訪問しました。

前述のとおり「公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」と語っていた秀長の心は、外様の大大名との融和に重きがあって、「秀長は豊臣配下となった有力大名と近しい関係をもち、彼らの上洛に際してはその接待役を務めている」(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」)という風に、小早川隆景や徳川家康らに対して、兄・秀吉になりかわる格別なもてなしを行いました。

そうした秀長の厚遇に返礼するため郡山を訪れた家康は、そこで秀長の天守を目撃したはずであり、当ブログでは、近年の大和郡山城天守台の調査結果から、かつて宮上茂隆先生らが主張された「大和郡山城→二条城→淀城への天守移築説」の信ぴょう性が高まった件を申し上げ、松岡利郎先生の淀城天守の復原案も踏まえた推定シミュレーション(イラスト)を作ってご覧に入れました。

松岡利郎先生の淀城天守復原案(赤線の図)が、天守台の礎石列に合致!!

松岡利郎先生の淀城天守復原案(立面図)

当サイトの大和郡山城天守の推定復元シミュレーション
(付櫓を含めれば七階建ての五重天守を、現存天守台の上に再現)

で、ご覧のように秀長の大和郡山城天守は、大きな改築をともなわずに、そっくりそのまま、家康によって二条城に移築されたと思わざるをえない “状況証拠” が出て来ております。

この、天守の歴史において、まことに稀有(けう)な出来事は、それ相応の “意図” が無ければ実現しえないことであり、必ずしも秀長自身は「史上初の四方正面天守」という意識は無かったのかもしれませんが、それを見た家康の心には、この天守に対する強い “思い入れ” が生じていたのでしょう。

かくして誕生した家康の二条城「移築」天守というのは、天下分け目の関ヶ原合戦から三成・安国寺恵瓊・小西行長の “斬首” という決着を経て、かつて秀長が擁護(ようご)した「分権派」の最終的勝利を天下に見せつけた、文字どおりの「金字塔」と見えて来てならないのです。

…      …

 
政権初期を支えた「名補佐役」秀長の尽力によって、豊臣政権は早い時期から「集権」と「分権」の両方をかかえ込んでいたようで、そこにからんだ「武断派」七将の思惑の行方は、朝尾先生の先の論文のしめくくりにある “哲学的な文面” にもあらわされていて、本当に私なんぞは恐れ入ってしまうわけでして、最後は是非とも、その部分をご覧いただきますと…
 
 
(朝尾直弘「豊臣政権論」1963年より)

集権体制が強化されながら、それが豊臣政権として終わりを全うしえなかったのはなぜか。
政権が(豊臣)秀次を抹殺し、関白職を頂点とする支配体制を脱皮した瞬間、「天下をきりしたかゆへき」実力が新しい体制原理として上下に貫徹した。
新しく形成された「公儀」は、もはや関白という伝統的権威においてでなく、実力と実力のぶつけあい、その均衡において成立しており、実力の階層序列の新しい編成をめざして 公然たる運動が開始される場として成立していた。

(中略)
その意味では、秀吉が死にさいして家康らを「五人のしゆ(衆)」と呼び、三成らを「五人の物(者)」と私的なニュアンスの強い呼称で区別したのは(『毛利家文書』九六〇)、豊臣政権末期における政権内部の構造的な矛盾がどこにあったかを明確に示すものであったといえよう。
 

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