日: 2013年4月25日

まことに興味が尽きなかった城郭史学会の大会から



まことに興味が尽きなかった城郭史学会の大会から

駿府城天守の周囲を前代未聞の「露台」がめぐっていた可能性についてのお話の続きは、申し訳ございませんが、また一回先送りしまして、先週末のセミナーの感想を是非ともお伝えしたく思います。

4月20日開催の、西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ)先生の日本城郭史学会の大会は、テーマが「安土城天主」でした。

私は以前、まったく個人的な理由から史学会に迷惑をおかけしてしまい、以来、カンペキに敷居が高くなっていたものの、テーマがテーマだけに、矢も盾もたまらず参加させていただいたという次第です。

会場の江戸東京博物館にて

(※西ヶ谷先生が内藤昌先生から寄贈されたというイラスト)

大会テーマの発端になったのは…
千田嘉博著『信長の城』(岩波新書)/ 池上裕子著『織田信長』(吉川弘文館 人物叢書)

  

大会の冒頭、司会の伊藤一美先生が言われるには、昨年に出た「衝撃的な二冊」、ご覧の千田嘉博先生と池上裕子先生の本が企画の発端だったそうです。

不覚にも自分は『織田信長』の方をまるでフォローしてなかったため、セミナー終了後に本屋に飛んで行ったのですが、二冊の安土城のとらえ方は、織田信長の城の「求心性」では一致するものの、「階層性」という概念をめぐっては、異なる見解が対立しているように見えました。
 
 
千田先生の著書はご承知のとおり(前年末に出た『天下人の城』と共に)安土城等について、かなり思い切った論調で自説を展開された注目作でした。

私なんぞは『天下人の城』の段階で、例の『信長公記』類にある天主台の広さについて「文字史料の誤り?」と書かれていたのを見つけた時、ついに来るか、と大きな期待を感じました。

そして次作『信長の城』での「天守」の解釈、天守と織豊系城郭(求心性)との関係などは最大級の賛辞を心中で発したものの、具体的な安土城天主の復元案には「あ…」と複雑な感想を抱いてしまいました。(※今回の文末にその感想を図解付きで申し上げています)
 
 
一方、池上先生の著書は、信長が奉行人制や評定衆などの政治機構を設けず、また百姓と向き合う農政や民政も無く、絶対服従する家臣への直接的な命令だけで“すべて”を動かそうとした点(=ワンマン独裁者?)に注目されました。

ですから、そうであるなら織豊系城郭の「求心性」とは何だったのか、「階層性」の実態はどういうものだったのか、という疑問が大会企画の発端になったのかもしれません。
 
 
で、セミナーの講師には、千田先生の著書で痛烈な批判をあびた(!!)滋賀県文化財保護課の松下浩(まつした ひろし)先生や、宮上茂隆復元案の生き証人・竹林舎建築研究所長の木岡敬雄(きおか たけお)先生をお迎えするなど、意欲的なラインナップでした。
 
 
とりわけ自分にとっては、当サイトで申し上げて来た「大胆仮説」に関連しうる発言がいくつも、発表や質疑応答の中にちりばめられていて、まったく興味の尽きない1日だったのです。

ということで、今回お伝えしますのは、決して当大会の公平かつ妥当な報告文ではなくて、あくまでも私の勝手な我田引水ばかりの印象記であることをお断りしたうえで、順次申し上げて参りましょう。
 
 
 
<山が動いた ! ! / 私にとって最大の福音になった西ヶ谷恭弘先生の「八角」発言>
 
 

西ヶ谷先生の発表「安土城天主復元諸説をめぐって」は、話題になった天主崩壊説(大雨で一度倒壊した)を含む復元諸説の紹介があったわけですが、その最後の <十、「六重目八角四間程」をめぐって> での発言は、これまでの安土城天主の復元の歩みを転換させる契機になって行くのではないでしょうか。

先生は大村由己の『秀吉事記』(『天正記』)が豊臣秀吉の大坂城天守について「四方八角」と表現したことを踏まえて、安土城天主の六重目も「本当に八角形だったのだろうか」と発言されたのです。
 
 
その直前には先生ご自身の(もちろん八角円堂による)復元案の紹介もあったので、よもやそんな展開になるとは思っていなかったため、私は会場の最後列に座ったまま感極まり、思わず目頭が熱くなったことを白状いたします。

八角円堂ではない「十字型八角平面」による六重目/当サイト仮説イラスト

で、決して他意は無いのですが、かつて八角円堂による六重目を含む斬新(ざんしん)な復元案で一世を風靡した内藤昌先生が、昨年の秋に亡くなられたことも含めますと、なにか時代がまた動き始めているような気がいたします。

そして何より、八角円堂による自説の復元案もあるのに、ああいう発言をされた西ヶ谷先生の深意は何だったのか… 非常に重いものを受け取ったように、私なんぞは勝手な感慨にふけってしまうのです。
 
 
 
<宮上茂隆案はいまも変化し続けていた / 木岡敬雄先生の「二段目の石垣」発言>
 
 

木岡先生は宮上茂隆先生のもとで宮上案の図面を引いたという方で、まさに宮上復元の生き証人と申し上げてよいのでしょうが、そんな木岡先生の発言の中にも、ハッとさせられる事柄がありました。

と申しますのは、宮上案に対する三浦正幸先生の批判のホコ先になっているのが、天主台上に復元された複雑な形状の「二段目の石垣」であり、宮上先生は生前にこれの高さを五尺として図面化するように指示したそうです。

以前のブログ記事の作図より/二段目(濃いグリーン)は外観上はすっきり見えても…

木岡先生は指示どおりにこれを高さ五尺で図面化し、それをもとに何枚かのイラストが描かれ、世間に認知されて来たのですが、その一方で、宮上先生は『国華』で次のようにも書いておられました。

(宮上茂隆『国華』第998号/1977年より)

不整八角形の天主台上に、低い石垣を矩形に築き、その上に天主木部が載っていたと思われる。また仮にそうした二重石垣でなかったとしても、天主木部と石垣外側との間には広い空地がとられていたに違いない。
 
 
つまり宮上先生は、二段目が無かったケースにも、ちゃんと目配りしていたのです。

そんな遺志を継いでか、いま竹林舎建築研究所から発表する図面は、木岡先生の新たな復元図として、二段目石垣を高さ1~2尺の低いものにしているそうで、言わば、宮上案はいまも生き続けていた(変化し続けていた)わけです。

私なんぞは、これは素晴らしいことだと思いますし、今後は宮上案の復元図などを見かけた時、それが「宮上図」なのか「木岡図」なのか、見極める楽しみが増えたように感じています。
 
 
 
<『信長の城』への反論の機会がありがたいと… / 松下浩先生の「大手門のズレ」発言>
 
 

ご承知のとおり、20年に及ぶ発掘調査の中で(旧)安土城郭調査研究所が発表した「清涼殿に酷似した本丸御殿」説は、三浦正幸先生や川本重雄先生から強い批判を受け、それに続いて千田先生は、小牧山城にも大手道があることから、安土城「大手道」を天皇の行幸道とした先の発表を、重ねて批判しました。

そんな渦中にある松下先生は、セミナー冒頭で「岩波新書(『信長の城』)の力は恐ろしい」とボヤきながらも、話題の伝信忠邸跡の石垣跡の正しい読み方を力説して、千田説に反論するなど、けっこう涙ぐましい様子に(私には)見えました。
 
 
かく申し上げる当ブログも、これまでに「清涼殿~」説への対案(→記事)をアップしたり、「大手道」や大手門の四つの門は、ひょっとすると信長廟の門構えなのでは?(→記事)などという勝手な推論を申し上げて、批判の後追いをして来た立場にあります。

対案(雁行する御殿群と「儲(もうけ)の御所」説)のイラスト

「大手道」の直線部分は信長廟に向かっている!?

そんな私が思わず身をのり出したのは、発表後の質疑応答で、史学会評議員の坂井尚登さんが問いかけた「大手門の位置」に関する質問でした。

それは上図(やブログ記事)にも小さく描きましたように、大手道の登り口である「大手門」が、安土城郭研究所の発表では右側に微妙にズレているのは何故なのか、という疑問点であり、これに対する松下先生の答え(答え方)がたいへんに興味深かったのです。
 
 
ご承知のように研究所の発表では、四つの門は、内裏や中国の周王城などにならった都城の形式だとしていて、それは松下先生自身が「思いついた」ものだそうですが、先生は先の質問を受けると、ちょっと困ったようなニガ笑いをされて、発表内容に至った経緯について説明されたのです。

ひょっとすると、大手門は幅30m超の「羅城門」級の巨大な門だった!?

(※滋賀県安土城郭研究所『図説 安土城を掘る』掲載の図をもとに作成)

松下先生のお答えによれば、図のように「推定大手門」の左側の石塁もまた推定のものであって、出土した石塁跡のままであれば、その門幅は約30mもあり、「これでは羅城門のようになってしまう」と先生自身が懸念して、一、二の出土礎石をもとに左側の石塁を “推定した” のだそうです。! !

この回答に対して、質問者の坂井さんが「羅城門でもいいんじゃないですか」と応じていたのは、これもまた城郭研究の一つの転機になりうる質疑応答だったのではないでしょうか。

 
 
<では最後に、千田復元案に対する当サイトの感想を申し上げますと…>
 
 

まずは当サイト仮説の図から/『信長公記』類の数値は、南北と東西が逆だったのではないか

当サイトでは、天主台上(二重目)の空地を含む広さは、『信長公記』類に書かれた「二重 石くらの上 廣さ北南へ廿間 東西へ十七間」という数値が逆であったと考えますと、現地の遺構にスンナリ当てはまることを申し上げて来ました。

しかし千田先生が『信長の城』で提起された新復元案は、文献どおりの数値を実現すべく、天主二重目の木造部が天主台から大きくはみ出して建つように、大規模な懸造り(かけづくり)を想定したものです。

千田復元案の根幹を成すのは、ご覧のような「20間×17間」の想定方法

(千田嘉博『信長の城』2013年より)

別言すると懸け造りで天主台から天主が張り出したと考えないと、『安土日記』や『信長公記』の記述と遺跡でわかる実際の天主の規模を合致させることはできないのです。
同様に北側もしくは南側でも天主が懸け造りになっていたと考えれば、南北二〇間の記述とも合致します。
(中略)
天主台石垣の高さによって石垣天端まで伸びた柱がどこまでだったかには解釈の余地がありますが、石垣直下の東列礎石では北から七石目、西側礎石では北から四石目までが、少なくとも天主の懸け造りに関わった礎石と推定しておきたいと思います。
 
 
このように千田復元案とは、天主台の南西側の「二の丸東溜り」で発見された礎石列に立脚したもので、そこを南西端として天主台を取り巻くように懸造りが築かれ、それで文献の「20間×17間」が建物二重目として建てられたとするものです。

(※ただし礎石列は、間隔は2.1mと天主台石蔵のものと同じですが、その軸線・石列の向きは上図のようにずいぶん異なっています…)

ということは、今後、天主台跡の北側において、限定的な発掘調査を行いさえすれば、この千田復元案の評価はかなりハッキリするのではないでしょうか。

仮に先生の著書にあるように、懸造りや天主の全体が南へ(図では上へ)3間ズレていたとしても何かしら「出る」はずでしょうし、出なかった時は、それはそれで興味深い状況になると思われるのです。

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