日: 2016年4月11日

信長の「天下」とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?という素朴な疑問から



信長の「天下」とは――いつごろまで「天下布武」印を使ったのか?という素朴な疑問から

天正10年に織田信長が拡大した最大版図(本能寺の変の時点)

近年、信長の時代に「天下」という言葉が示した範囲は、実は、五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五カ国)であった場合が多く、そのため信長が印判に使った「天下布武」の「天下」もまた五畿内を意味していて、したがって信長は、足利義昭を連れて軍勢を五畿内に進め、幕府を再興しつつ中央政治を安定させたかっただけであり、全国統一など まるで目指してはいなかった!――という新たな信長像が大流行しつつあります。

こうした解釈を主導して来たのは、日本中世史(とりわけ中世後期の宗教社会史)がご専門の東洋大学教授・神田千里先生(1949年生まれ)ということになるのでしょうが、例えば神田先生の『織田信長』(ちくま新書)にはこんな風に書いてあります。
 
 
「天下」の範囲について、五畿内という限定された地域を考えれば、「天下布武」の朱印も、五畿内における将軍秩序樹立のスローガンということになろう。
もちろん毛利氏の中国諸国の領有や、上杉氏の越後国支配とも何ら抵触しない、むしろ両立可能なものということになる。そうなれば、この印判を毛利元就や上杉謙信への書状に押捺した織田信長の意図も理解できよう。
あくまでも畿内における「天下」の秩序の樹立をめざす者である、と信長は自己アピールしていたことになる。

 
 
このように「天下布武」の「天下」が五畿内に限られるなら、その印判を押した書状を毛利や上杉に送っても何ら問題は起きず、逆に、もしも「天下布武」が “全国制覇” を意味していたなら、そんな印判状をわざわざ毛利や上杉に送った信長は “バカではないか” というロジック(理屈)は、この他にも松下浩先生や金子拓先生も踏襲して著書で使っておられます。

(前出の『織田信長』より)

織田信長が元亀元年に毛利元就に送った朱印状をみてみよう。その内容はこの年の四月に行った越前攻めに始まる、朝倉・浅井との抗争、有名な姉川合戦などの経緯を報告したものである。
そして最後に「畿内やその他の様子をお聞きになりたいとのことなので、実態を詳しく書きました。また申します」<畿内その他の躰、聞き届けられたき由候条、有姿端々筆を染め候。猶追て申すべき事>と記されている(七月一〇日朱印状、『織田信長文書の研究』上二四五)。
一見して対等な大名同士の友好的なやりとりであり、どこにも「天下統一」の野望を公言する様子はみられない。

 
 
というように、そのロジックを神田先生は説明しておられるのですが、ここでアレッ… と自分なんぞは引っかかるものがあり、ちょっと待って下さい、この朱印状は本当に「対等な大名同士の友好的なやりとり」ですか?… と申し上げたくなってしまうのです。

確かに文面は丁重な言葉を使ってはいるものの、こんな内容を書き送った信長の本音は、言わば、恫喝(どうかつ)そのもの! ! … じゃないか、と私なんぞは感じてしまう方でして、ここに「天下布武」の印が押されていることに、きっと毛利氏の面々は信長の真意をいぶかり、やがて戦慄(せんりつ)したのではなかったか、とも想像してしまいます。
 
 
で、ご承知のように当サイトは <天守は天下布武の革命記念碑(維新碑)説> という仮説をテーマにしてやって来ておりますから、「天下」の語義が揺れ動くようでは、やりにくいことこの上ない、という面もありますし、このところのブログ記事は大坂城つながりで書いて来たものの、この先、さらに「立体的御殿」の話題を書き進めるには、やはり「天下」の意味がはっきりしないと、どんどん書きづらくなるでしょう。

そこで当サイトのスタンスをはっきりさせるために、この「天下」の語義の問題について、このあたりで当サイトなりの思うところを一度、申し上げておくべきだろう、と思い立った次第です。
 

近年、群馬県で発見された本願寺宛て「天下布武」朱印状(天正4年)

さて、信長の「天下布武」印というのは、かの禅僧・沢彦宗恩(たくげん そうおん)が、信長の「我天下をも治めん時は朱印可入候」との願いに応えて「布武天下」という印文の案を示したところ、それを信長が「天下布武」とした、という故事(『政秀寺古記』)が知られています。

以来、その朱印や黒印を押した書状は、全国に650通ほども残っているそうで、例えば奥野高廣著『織田信長文書の研究』によりますと…
 
 
【尾張坂井利貞宛朱印状】

為扶助、旦嶋内弐拾貫文申付上、全知行、不可有相違之状如件、
 永禄十
   十一月日                  信長(朱印=天下布武印)
    坂井文助殿

 
 
これは信長が美濃を攻略した永禄10年、尾張の坂井氏に宛てて「扶助として、旦の島(現在の岐阜市内)のうち弐拾貫文を申し付くるの上は、全く知行し、相違あるべからざるの状 くだんの如し」という風に知行分を与えた朱印状で、これが「天下布武」印を押した最も早い例の一つだそうです。

それから6年、いよいよ信長と将軍・足利義昭の対立が深まり、ついに義昭を京都から追放した元亀4年の後も、大量の印判状を発給し続けました。

そして「天下布武」朱印状のいちばん最後としては、なんと、天正10年5月7日付の書状もあるそうで、時まさに、四国攻めに向かう三男・神戸信孝に宛てて発給したものだそうです。
 
 
【神戸信孝宛朱印状】

  就今度至四国差下条々、
一、讃岐国之儀、一円其方可申付事、
一、阿波国之儀、一円三好山城守(=康長)可申付事、
一、其外両国之儀、信長至淡州出馬之刻、可申出之事、

右条々、聊無相違相守之、国人等相糺忠否、可立置之輩者立置之、可追却之族者追却之、政道以下堅可申付之、万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、
  天正十年五月七日                (朱印=天下布武印)
     三七郎(=神戸信孝)殿

 
 
これは四国の長宗我部氏を討伐したあかつきには、信孝に讃岐国を、三好康長に阿波国をあてがうことを約束し、伊予・土佐の両国については自分が淡路に出陣した時に申し渡す、と指令した文書です。

で、天正10年5月7日といえば、3月に甲斐の武田氏を朝敵として攻め滅ぼし、それから一カ月以上かけて安土に帰還した直後になりますから、こうして生涯の最大版図を得たあとでも、なおも信長は「天下布武」の印判を使い続けていたわけで、この朱印状は信長が本能寺で死ぬ一カ月前のものになります。

(※黒印状を含めれば、これ以後の一カ月間にも何通かあるとのことです…)

では、ご覧の図の時点でもなお「天下布武」の「天下」の意味が、神田先生らがおっしゃった「五畿内」(「足利義昭による畿内平定」)となると、信長本人の意識としては、いったいどういうことになるのでしょう。??

これでは、信長という武将は「もはや無効になった昔の勲章を、いつまでも、死ぬまぎわまで胸に飾り続けた男」…という、いささか情けない人物であったことにもなりかねませんし、場合によっては、もっと始末の悪いことに「そんな振る舞いや天下静謐(せいひつ)という大義名分の陰で、実際は、自らの征服地をどんどん桁違いにまで拡大した男」という、ずいぶんと腹黒い! ! 人物評価さえ出て来てしまうのではないでしょうか。

ですから、文献史学に私のごときド素人が何かと申し上げるのは恐縮ですが、神田先生のご指摘のように「天下」の語句の用例には色々あったのだとしても、とりわけ信長の使った「天下」が「畿内五カ国だけ」という昨今の大流行の解釈に対しては、どうにもガテンが行かないままなのです。
 
 
―― そこで、百歩ゆずって考え直せば、晩年の信長は「朝廷の軍事守護者(立花京子)」「天皇の軍隊(松下浩)」ではずっとあり続けたわけですから、そういう意味で、信長本人は「天下布武」印を使い続けていたのだと考えれば、まだ納得できるわけです。
 
 
つまり信長の心理の “奥底において” は、「朝廷の軍事守護者」であることが第一義であって、足利幕府の再興には殆ど重きが無く! ! 、足利義昭(及びその子の義尋)という存在は、やはり “方便” に過ぎなかったのではないでしょうか。

おそらく信長の目から見れば、尾張統一の頃の守護であった斯波義銀(しば よしかね)なども、足利義昭と、ほぼ同じ存在にしか見えていなかったように感じられますし、彼らは言わば既得権益で社会の支配層たりえた武家でしかなく、本当の武力の保持者=<軍事的実力者> である自分(信長)らこそ、それらを下克上して君臨すべきなのだ、というのが信長の終生の “本音” だったと思えてなりません。
 
 
そこでは、横死した足利義輝への失望も大きく作用したことでしょうし、その後の信長の生涯にとっては、「下克上」と「天下布武(天下静謐)」はまったく矛盾しない! ! という画期的な気づき(→言わば「天正維新」という形?)が、この上なく決定的だったのではないでしょうか。

かく申し上げますのも、信長本人の価値観というのは、武家の「下克上」が起きるなら起こるにまかせればいい、何故なら、「上が弱い」というのがそもそもダメなんだから――― という経験則に裏打ちされていたように思えてならないからです。

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