すぐ東隣りで甦(よみがえ)り。地震を無かったことにしたかったか?…構成や要素がまるで同じままの指月城と木幡山城

【 “神がかりトランプ”がやって来る 】
 これに相対するには、九州(台湾)方面から攻めのぼる“おんな足利尊氏”の、高市早苗さんだけしか、まともに切り結べる日本人はいないでしょ。


 
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前回記事の「これぞ秀吉流。舟入(ふないり)の奥正面に天守が見える→水上のビスタVista登城路が指し示す ! ! 指月伏見城の本当の場所」でご覧いただいた様々な地図や傾斜量図、加藤次郎先生の木幡山伏見城の復元図を、改めて、一枚に統合してみました。

(※補足のご説明 / 前回記事では、当サイトが考える指月伏見城の中心部分は、惣構え=城域の中心点に計画されたもの、とだけ申し上げましたが、その点に関しては、『駒井日記』の文禄三年正月二十日条に、
「一 大坂御普請割之様子、伏見之丸之石垣 同惣構堀 大坂惣構堀 此三ヶ所エ三に分而被仰付由」
との記述があるため、文禄三年は、指月伏見城の築城開始と同時に、伏見の惣構え堀の方も工事が始まっていたらしく、それら全体が一体的な計画のもとにあった可能性は濃厚です)

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さて、そうなりますと、今回の最大のテーマは、上図の「?」マークで示した場所にあった(はずの)指月伏見城とは、どんな城であったかを、可能な限り、はっきりと皆様にお示しすることでしょう。

で、この場所というのは、京都の城の研究の第一人者・森島康雄先生の論考によれば、すぐ西側の地中で、慶長伏見地震の際に動いた断層のズレの跡が、過去の発掘調査で見つかった場所だそうで、つまりそれだけ指月伏見城じたいの崩壊も激しかったうえに、その後の木幡山の築城では「?」から西側一帯に新たな大名屋敷が整備され、また徳川の再建時にも若干の整備が加わったとのことですから、この一帯には「指月伏見城」らしき痕跡などは、何も無い、と思われて来ました。

ですが、前回記事の「舟入堀」の件を含めて、ここには「指月伏見城」の存在を考えさせる手掛かりが、ちゃんと残されているではないか ! !………と長年、私は思い続けて来たわけでして、どういうことかと申せば、それは以下の「3点セット」に他なりません。

指月伏見城と木幡山伏見城の“相似形”を感じさせる
共通項の3点セット

【3点セットの1】
 ともに奥正面に天守が見える形で、大規模に設けられた「舟入堀」がある

 (→ 前回ブログ記事をご参照)
 
 
【3点セットの2】
 舟入堀を上がったすぐの所には、似た広さや形の「茶亭学問所(山里丸)兼 迎賓館」とおぼしき曲輪(地形)が存在する

 
舟入堀を上がってすぐの丘の上に、ともに「茶亭学問所(山里丸)兼 迎賓館」とおぼしき曲輪(地形)が存在することには、実は、動かしがたい理由やその物的証拠がわずかながらも存在しています。

と申しますのは、下記の絵は前回ブログでもご登場いただいた桜井成廣先生(1902-1995)が発見し、著書『戦国名将の居城』や『歴史読本』昭和52年6月号で披露された屛風絵にある、木幡山伏見城の方の?「舟入堀」と「茶亭学問所」の描写です。

ご覧の右側(右隻1扇2扇)の建物は、まさに豊臣秀吉が、徳川家康、前田利家、伊達政宗と四人で、それぞれに建物四隅の茶室に分かれて、大名衆に茶をふるまった、という政宗の『命期集』のエピソードどおりの建物として描かれております。

で、どうしてこの建物が舟入堀から上がってすぐの丘の上にあったか?と申せば、同じ右隻の左側(5扇6扇)には舟入堀の水面に映る「月」が描かれていて、丘の上から“水面の月をめでた”ことが表現されています。
(→ 有名な「月見の機械(からくり)」の伝承どおり? この件はご存知のごとく、元をたどれば、巨椋池に臨む伏見の指月の丘が「宵の天空に光る月」「宇治川の川面に映る月」「巨椋池に揺れる月」「盃に浮かぶ月」の四つの月を楽しめる景勝地=橘俊綱の伏見山荘であった歴史や伝説を踏まえたものです)

したがって、ご覧の地形や舟入堀と茶亭学問所の「位置関係」には、明確な動機やねらいがあったわけでして、結局のところ、指月城と木幡山城がそっくりのレイアウトを踏襲したのも、それは当然の結果であろう…と申し上げるしかありません。

ちなみに申せば、省略した中央部分には船着き場の建物が描かれ、また左隻には、舟入堀の南端に渡された「橋(百間橋)」や夜空の「月」が描かれていますが、桜井先生の著書によると、この屛風じたいについては、伏見桃山御陵の管理所長・山崎鉄丸氏らとの検討の上で、「木幡山城の」茶亭学問所を描いたものと鑑定されたそうです。
…… 前回ブログで申し上げたとおり、桜井先生は指月城を「泰長老の丘の上に」推定復元された先生ですから、まさか、この屛風が「指月城の」茶亭学問所を描いた可能性などは、寸分も考慮されなかったのでしょう。

博識で知られた桜井先生に比べれば、私なんぞは足元にも及びませんが、前回の記事から、指月城と木幡山城の“相似形”を申し上げている立場としては、この屛風じたいについても、瓜二つのような「指月城の方の」茶亭学問所を描いた可能性も、考えざるをえないように感じております。
 
 
【3点セットの3】
 ともに本丸の背後(東側)を守った水堀の一環として、「治部池」前身の堀と「紅雪堀」が残る

 
下記の写真は、近年は全く近づけなくなった形の「治部池」ですが、池の位置から考えれば、これは例えば指月伏見城の本丸のすぐ東側にあった天然の「水堀」が、この池の前身であった、という可能性も十分に考えられるのではないでしょうか。 そして木幡山城においては、これとそっくりの位置に「紅雪堀」が設けられたことになります。


(※ご覧の写真は、Googleクチコミの森上智央さんの投稿からの引用写真です)

したがって……


↓        ↓        ↓
指月城と木幡山城は、曲輪の構成が、非常に似ていたのではないのか ! !?

 
しかも例えば、

すぐ東隣りで甦(よみがえ)り。地震を無かったことにしたかったか?…
 構成や要素がまるで同じままの指月伏見城と木幡山伏見城
、という風に。


(そこで、現地の地形や、発掘調査の知見を参考にした、当サイト仮説の図示です)


――― 仮に、このようにしてみますと、むしろ「指月伏見城」こそが、本来の伏見城!……であったのだ、ということが(私なんぞには)だんだんと納得できてまいりましたし、城下とのマッチングにおいては、こんな城の方が、はるかに城下からの見栄えは良く、まさに豊臣流の築城の定石どおりだろうという気がしてなりません。

注目すべきは周囲270度!の城下や街道、京都方面からの見栄え
(※赤丸と矢印は「豊後橋(観月橋)」手前からの目線)

これは実に、秀吉の得意満面の笑顔が見えて来そうな城構えだと感じられてならないのですが、それでは、ご覧の「仮説の城」について、それぞれの「曲輪」で現状で申し上げられる範囲の事柄を列挙してまいりたく、まずは現在の地図とダブらせて、位置を分かりやすく致しますと……

 
【 本丸 】 桃山町下野にあった「本丸」の上段は、出土遺物から考えても、移築専用天守と平櫓や多聞櫓だけの曲輪か



【 写真1 】


【 写真2 】

ご覧のような二の丸との段差(高さ約7m)が西側の城下側だけ、といった地形の一帯が、周辺では最も高い地点を含んでおりまして、現在の地名は徳川家康の四男・松平下野守忠吉に由来する「桃山町下野」こそ、指月伏見城の本丸の場所であろうと考えています。

総体的に見れば、この本丸の築き方は、どこか、飛騨高山城や金沢城の築き方にも似ているため、本丸の中は、同一平面でも長屋や多聞櫓でさらに上段・下段の二区画に分けられていたように思えてなりませんし…

( ご参考 )

現在までの発掘調査では、ここから石垣や焼土、金箔瓦を含む(塀瓦と思しき小ぶりの)瓦片が大量に見つかったものの、大型の建物の瓦が乏しい、といった状況でありまして、これは過去の発掘が、上記の「段差」に関わる地点に集中して来たことの影響ではないのか?…と、やや残念に思うものの、すでに光明は見えているのかもしれません。 と申しますのは……

数年前に本丸と二の丸の段差の際に建てられた某アパート


このアパートの建設時に行われた発掘調査の報告書PDFより

ご覧の発掘では、より新しい時期の石垣(05SLと命名/下図では左図の破線状に示されたライン)と、その奥の土中から、より古い石垣(01SLと命名/右図の破線ライン)という、ほぼ一直線の二つの石垣が見つかり、上記の写真は古い方の石垣になります。 まるで落し積みかのような三角の石は、報告書によれば、当時も土中にあった「根石」と見られるとのこと。

で、注目すべきは、右図の古い方の石垣01SLは、多様な石材を使いながらも花崗岩が少なく、自然石と粗割り石で築くなど、古い要素が見られるうえに、「根石」より上の部分が火災の熱で変色して、表面が割れる「石爆ぜ(いしはぜ)」が起きていた、というのです。(下図のグレー部分が土中の根石、白色部分が被熱した築石 )


そして、どうしても私の目を引きつけるのが、ご覧の白っぽい焼けた築石なのですが、これ(石材番号1)は「石英斑岩」だそうで、報告書は「石英斑岩は山科音羽川上流域の産出の可能性がある」とした上で、こうも指摘していて、驚いてしまうのです。

( 同報告書 :『伏見城跡 京都市伏見区桃山町下野27-1の発掘調査』より )

山科の石材は一般に『山科石』と呼ばれ、方広寺、二条城といった豊徳期の建造物に使用されている。 これらの社寺城郭が伏見城築城の前後に建造されたことからも、本調査地における使用石材が山科石主体である可能性は高いと言えよう。 なお、小瀬甫庵の『太閤記』には、伏見城築城に関し、「文禄三年二月初此より、廿五万人乃着到にて、醍醐、山科、比叡山、雲母坂より、大石を引出す事夥し」との記述がある。
 
 
!!………な、なんと。私の目を(いや誰の目をも)引きつける、たった一個の、土中に残された焼け石に<<最大のヒント>>が託されていたようなのです。

報告書の方は「今回の調査成果を総括的に」みて、古い石垣01SLを木幡山時代の大名屋敷の石垣と推定し、新しい石垣05SLを徳川再建時の大名屋敷のもの、と推定したものの、白い石に託された<<最大のヒント>>を思えば、石垣はもう一声古いもので、こんな風にも言えるのではないでしょうか。

――― 大注目の「石英斑岩の、山科石かもしれない、1mを超える大ぶりな焼けた築石」について、最大限の想像力(…妄想力!)を働かせて言わせていただくなら、これはまさに「文禄三年」に築かれた指月伏見城本丸の西側石垣のいちばん下に見えていた築石であり、慶長伏見地震では石垣も半ば崩壊したものの、木幡山再建時に、ここは、上部の石垣を積み直すだけで大名屋敷の石垣とされたのではなかったか??
そしてそれが関ヶ原合戦の前哨戦か、戦後の西軍大名屋敷の焼き払いで焼け焦げ、その後、徳川幕府の再建時に(この石以外の)すべての焼け石は撤去されて、新しい徳川期の(05SLの)花崗岩を多用した石垣に積み変わったのだ……という風に。

いかがでしょう。

( ご覧の石垣は「現地保存」となり、アパートの地下の土中に眠っております )

では最後に、曲輪としての「本丸」について、現状で申し上げられる事柄をまとめますと、城と城下が扇状地の斜面をフルに使って築かれたことから、本丸は金沢城や飛騨高山城に似た造りになったのでしょうし、そうであれば、本丸の上段は、金沢城の天守曲輪のように四角く連結した天守と櫓群を想像してしまいます。

しかも、その天守が「移築専用天守」で、例の絵図のとおりの三重天守であったならば、その周囲に背の高い櫓や御殿を配置してしまうと、せっかくの移築専用天守からの「眺望」がそがれる!という深刻なデメリットが生じかねず、結局は、秀吉“肝いり”の移築専用天守が最優先になって、天守の周りは(御殿の類いは一切無くて)低い櫓ばかりになっていたのかもしれません。

それは現に、問題の絵図でも天守のまわりは………

 
【 二の丸 】 南北に細長い二の丸(西丸)は御殿が建ち並び、中央から南が対面所や秀吉の御座間など。北側が「西の丸様」淀殿と秀頼の御殿か



【 写真4 】

(※次回に続く)

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