<< 秀吉流の残影か。舟入堀の奥正面に天守が見える …姫路城の場合 >>
(※水堀の突き当り奥の右側には、三ノ丸に通じる小門があった / 下記の城絵図は『姫路侍屋敷図』より)
<< これも秀吉流の残影か、舟入堀の奥正面に天守が見える …和歌山城の場合 >>
(※御橋廊下をくぐった先の右側は、初代藩主の隠居所・西之丸庭園の池に直結。/ 下記は『和歌山御城内惣御絵図』より)
<< 淀川で京都や大坂湾とつながる舟入堀の奥正面にも… 豊臣大坂城の場合 >>
(※イラストや図解は2011年の当ブログ記事より / ご覧の絵図は『僊台武鑑』の大坂冬の陣配陣図より)
【 合成写真によるイメージ画 】
川沿いの居城を好んだ豊臣秀吉の構想で、舟で登城した者には鮮烈な印象が…
で、このことは「指月伏見城」が地震で大破した直後に、
そのすぐ東側で築き直された「木幡山伏見城」においても、
まさに同様の構想が貫かれていた。であれば、当然のごとく………
(※加藤次郎先生が『伏見桃山の文化史』で示した木幡山伏見城の復元図より / 赤い矢印は当ブログの加筆です。ただし木幡山伏見城の舟入堀は、指月伏見城のような大規模で直線的な舟入堀ではなくて、やや湾曲したものであるため、それを踏まえた矢印にしてあります)
※ ※ ※
さて、長年にわたって(なんと10年越しで)保留のまま!―――となっております当サイトの年度リポートの再開の件ですが、次回のテーマは、ずっと「豊臣秀吉の伏見城」と決めては来たものの、通常のブログ記事と並行して年度リポートを作るには、大変な気力(胆力)が必要でありまして、なかなか、かつてのようにチャレンジできない……という情けない状況が続いてまいりました。
ですが、この度、秀吉の「移築専用天守」という思わぬ重大テーマにぶつかり、その最終的な移築先が「指月伏見城」と思われることから、もうこの際は、年度リポートのあり方じたいを改めて、通常のブログ記事の中に“分割して掲載”して行きまして、そこに石垣山城の天守画イラストの件も盛り込みつつ、最後にそれらを一本にまとめて見られる形にしてみようと、一大決心を致しました。!!
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そこで今回を皮切りに、おそらく毎回の連続とはならないことでしょうが、ねばり強く、秀吉の伏見城天守の変遷(へんせん)について、年度リポートにふさわしい内容で、大胆かつ斬新に、取り組んでみたいと思うのです。
で、初回の中身ですが、指月伏見城と言えば、この10年の間、大きなニュースにもなった桃山町泰長老での石垣の発見があり、そこがかつて桜井成廣先生が唱えた指月伏見城の場所(指月の岡城推定復元縄張図)に含まれたことから、一気に、自治体が乗り出す発掘調査が始まり、指月伏見城の実在が認定されつつ、その場所も、おおよそは桜井先生の縄張図の範囲、とされるようになりました。
しかし、私は……と申せば、そういう世間の動きを横目で見ながら、正直なところ「あ――ぁ…」と嘆息が出るばかりで、かと言って、それにきっちりと反論する年度リポートにも取り掛かれない情けなさとで、まんじりとも出来ない思いで来たのですが、事ここに至っては(→「だったら10年前にやれッ」との罵声も聞こえそうですが)指月伏見城の天守を語って行くために、やはり、この話題から始めざるをえません。
< これぞ秀吉流。舟入(ふないり)の奥正面に天守が見える
→ 水上のビスタVista登城路が指し示す ! ! 指月伏見城の本当の場所 >
さてさて、そもそも伏見城と申せば、ご存じのごとく秀吉時代のうちでも三代にわたる変遷(秀吉の隠居屋敷→指月伏見城→木幡山伏見城)があり、その後に徳川幕府の再建伏見城があったわけですが、中でも、指月伏見城と木幡山伏見城の位置については、前述の経緯もあって、例えば2021年に京都市文化市民局から発行の『指月城跡・伏見城跡 発掘調査総括報告書』においても…
同報告書にある指月伏見城の縄張り復元案 / ほぼ桜井先生が想定した範囲内にあたる
(桜井成廣『豊臣秀吉の居城 聚楽第伏見城編』1971年刊より)
しかし同報告書では、現地からは大量の瓦が出土したものの、
明国使節を迎える御殿を構えたはずなのに、陶磁器類の出土が
極端に少ないことが“懸念材料”として浮上した、とのことで。
そこで、まことに恐縮ながら、同報告書の地図の上に指月城と木幡山城の
二つの「舟入堀」の位置を描き込ませていただくと―――
二つの舟入堀は一見、同等の規模に見えるものの、しかし
国土地理院の傾斜量図で同じ範囲を参照してみれば…
ご覧のとおり、指月伏見城の舟入堀の方が、圧倒的な工事量で堀を開削したことが一目瞭然であり、一方、木幡山伏見城の方は、舟入堀については、さほど大きな開削工事は行っておりません。では何故、指月伏見城では、これほどまでに大規模な開削を行ったのか??…
<<それこそ秀吉流の築城術が最優先だったのでは>>
(当サイトが申し上げる指月伏見城の中心部分は、惣構え=城域の中心点に計画されたもの!)
< ここで勇気をもって断言。 豊臣秀吉の本当の指月伏見城においては、安土城の大手道にも匹敵した…否、工事量でははるかに圧倒していた、壮大な「水上のビスタVista登城路」が、南北の直線400mにわたって、丘をくり抜く形で築かれていた。→ → 当然、そこを明国使節に通らせるつもりで。>
こここそ、指月伏見城の最大の見せ場だったはず、なのに、どういうわけか、歴史的には完全に封殺されてしまったようでして、それは想像するに(天下人秀吉の城が一夜で崩れ去ったという)慶長伏見地震の政治的な衝撃の大きさなのか、その当時はもはや口に出すのもはばかられて、「もう言うな」といった空気が豊臣政権に充満していたのかもしれません。
では、そこはいったい、どんな場所になるのか、現状を是非ともご覧いただきたいのですが、下図は現地の周辺地図であり、黄色線がかつて南北400m×幅100mという壮大な「舟入堀」があった範囲になります。
真ん中を南北につらぬいた現在の道路は、ちょうど桃山町泰長老(たいちょうろう)と桃山町本多上野(ほんだこうずけ/こうづけ)の境界線になっている道で、下記の写真でお分かりのように、たいへんに気持のいい緩やかな坂道が住宅の間を真っ直ぐに続いています。
まずは「江戸町」交差点という、妙に親近感のわく名前の交差点から出発しますと、早速、左前方には、桜井先生が想定した泰長老の指月伏見城の丘が見える形です。
その丘を左に見ながら進めば、ふと、ここは「舟入堀」だったのですから、当時はご覧のような坂道ではなく、まさに水平ラインのまま、深く北の先端まで掘り進められていたはずであり、ずっと正面に見え続けた「天守」の印象とともに、だんだん谷の奥に入り込んでいくような緊張感もあったのかもしれません。
で、ここまで来ると、下写真のようなJR奈良線のガードが見えてきて、この坂道は、たぶん明治時代に国鉄の線路を敷くため、分厚く強固に、かさ上げされた地形なのでは?と想像できるのですが、ちなみにガード下の地面は、最初の「江戸町」交差点からは標高で20mは上がって来ている地形ですから、このあたりの舟入堀は、はるか地下の20数mから30m近い深さに、当時の水面があったことになります。!!
ガードをくぐると急に山がちな景色に変わり、当時はこの辺りで、深い水面や船着き場から、急な石段で上がって来るような構造だったのでしょうか。
では、この先の、北側の丘の上にあったはずの「指月伏見城」とは、どんな城だったのでしょう。…………
(次回に続く)
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