世界一奇妙な城 !!…と思いきや。チェコのトロスキー城
昨年の9月26日にNHK「一本の道」(チェコの自然保護区「Český ráj/チェスキー・ラーイ」の回)で、ご覧の奇妙な城がテレビに登場しまして、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。
当ブログでは、昨年末の駿府城「小傳主」イラストの補足のお話だとか、前回の萩原さちこ著『城の科学』のあとがきからインスパイアされたお話だとか、いま申し上げたい話題がいくつも溜まっている中で、決して私自身が現地で見たわけではございませんが、これだけはとにかく“吐き出して”おかないと、前に進めない気がしまして、年頭一発目の話題はチェコのトロスキー城にさせていただきます。
ご覧のごとく、まったく孤立して立て籠もれる砦が左右に76m離れて並び立ち、その間を城砦化していたようですが、驚くべきことに、二つの岩山は、地質時代の第三紀(6430万年前~260万年前)のマグマの噴出でできた玄武岩の固まりだそうで、そこからTrosky(=瓦礫)城の名がつきました。
それがいまや、チェコ人の間では一般に、東側の高い方(比高57m)が「panna/処女」と呼ばれ、低い方(47m)が「bába/祖母」と呼ばれているそうで、これはおそらく本来の城とはまったく関係のない俗称でしょうが、インパクトあり過ぎな容貌のせいで、チェコ人が嬉々として名づけたらしく、この城は現地ボヘミア地方のシンボルにもなっています。
城のガイド付きツアーの模様
城郭ファンとしては、こんな城を見れば、真っ先に「片方の砦を敵方に奪われたらどうする?」という “いらぬ心配” が頭に浮かんでしまうものの、1380~90年頃にこの城を最初に築いたのは、チェコの貴族・ヴァルテンベルク家のチェケカ(生年不明-1425)という人物でした。
当時、ヴァルテンベルク家はヴェリス城(Veliš)を本拠地とし、領内を守る支城としてトロスキー城を築いたようですが、その後は何度も城主が変わり、17世紀前半に欧州を荒廃させた30年戦争のとき、完全に焼け落ちたとのことです。
この城を知る上では、英語の「Trosky Castle」で検索するよりも、チェコ語の「Hrad Trosky」で検索した方が、チェコ国内の情報や画像がいろいろと出て来て面白いのですが、残念なことに現在、この城の焼失前の姿を描いた絵画史料はひとつも残されておりません。
ただ唯一、30年戦争時に描かれた絵がスウェーデンで行方不明になったため、それがスウェーデン国内のどこかに眠っているのではないかと、チェコ人の関心を集めているのだそうです。(→まるで「安土山図屏風」の安土城のよう!)
下記のデッサンなどはそういう中で描かれた、焼失前のトロスキー城を推定したものになります。(両者ともに、岩山の頂上まで建物が連続していたと想定していますが…)
ちなみに、城の地下には洞窟があって(…古今東西のセオリーどおりに)秘密の通路か、財宝の隠し場所か、といったウワサがあることも、この城の人気のほどを示しているのでしょう。
チェコ製の模型キット
「風雲!たけし城」ばりのアトラクション施設も登場
それと実物を一緒に収めた写真
となると、当然ながら… ブライダル業者の営業用写真
きっとチェコ人の感触としても、いくつかの戦闘を経て落城した城なのに、二つの塔が「仲良く並んでいる」感じが、ユーモラスに思えてならないのでしょう。
………ところが、ところが、現地ボヘミア地方の周辺には、似たような構想の城が他にも!! 存在するようなのです。
二つの塔をもつ城、チェコ北西部のハズムブルク城(hazmburk)
同じく、スロバキア北西部のスロヴスキー城(Súľovský)
ご覧いただいたのは二例だけですが、現在は崩壊した遺構だけで、復元すると同様に二つの塔を持っていたと思しき城が、他にも点在しているようでして、これらの事実は、並び立つ二つの塔が「城の防御として有効だった」という証拠になるのではないでしょうか。
一見したところ、いったいどこが有効だったのか想像できませんが、これらはいずれも「フス戦争」前後の城である、というところが重要なキーワードかもしれません。
フス戦争(1410~1439年)
ボヘミア周辺に広まったフス派のキリスト教徒(左側)と、
それを異端とするカトリック諸国の十字軍(右側)が衝突した、凄惨な宗教戦争
<<それはヨーロッパ版の長篠の合戦でもあった>>
この戦争では、フス派の新戦法=ハンドガンやクロスボウの射手を乗せた装甲馬車で
陣形を組む戦法が、十字軍の騎馬兵を圧倒したものの…
ご覧のフス戦争というのは、プロテスタントの先駆者と言われるヤン・フスが始めた宗教改革に対して、神聖ローマ帝国などが十字軍を編成して襲いかかり、フス派はご覧の新戦法で善戦したものの、陣営の疲弊や内部崩壊から敗戦となり、フス自身も最後は火あぶりの刑で死んだという戦争です。
そんな宗教戦争と上記の城とは決して無関係でなく、例えば一番目のハズムブルク城は、代々カトリック教会と関係の深かった貴族ザジク家のうち、プラハの大司教となったズビネク・ザジク(Zbyněk Zajíc)が、1395年にこの城を購入して大改修したものと言われ、ズビネクは最初はヤン・フスを支持したものの、まもなくカトリック側につく、という寝返りを演じました。
二番目のスロヴスキー城は、築城がやや遅く、フス戦争が終わった30年後に、ハンガリー王国(現在のスロバキア)のマーチャーシュ1世がボヘミアに遠征したおりに改修した城ですが、フス戦争当時はスロバキアにもフス派の宗教運動が広がっていたと言われますので、何らかの影響のもとで、模倣の築城が行なわれたのかもしれません。
そして冒頭のトロスキー城を築いたヴァルテンベルク家のチェケカもまた、フス派とカトリック十字軍との間で揺れ動いた貴族として知られていて、前出のズビネク同様に、時にカトリック側にうまく立ち回ることで終戦近くまで生き抜き、病死しましたが、それはすなわち、裏切ったフス派の逆襲をいつ受けてもおかしくない立場にあったと言えるでしょう。
したがって、ここからは推測のお話になりますが、上記のフス派の新戦法を考えますと、城の二つの塔の上には、真下にも撃ち下ろせる強力な「何か」が装備されていた、という風に想像しますと、中間の城砦のちょうど両側に、それぞれの射程範囲を受持つ「銃座」が構えられたのだと理解できそうです。
これは例えて言えば、海外によくある刑務所の監視塔のうえから、監視員がライフル銃で脱獄囚をねらい撃つような感覚と申せばよいのでしょうか??… もしそうだとしますと、もはやトロスキー城を見て「仲良く並んでいる」などと なごむ気にはなれず、むしろ新戦法による新時代の到来が、ここで起きたのかと戦慄してしまうのです。…
――― 当ブログは以前から「ヒマラヤ地方の城」に注目してまいりましたが、今回の「東欧の山岳城砦」も、なかなかに奥深いテーマをはらんだ城として、さらに注目して行きたく感じた次第なのです。
切り立った岩山に建つ城と言えば、こちらもスゴイです…
スロバキアのオラヴァ城(オラフスキー城)Oravský hradの【YouTube映像】
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。