1600坪 ! ! …ものすごいボリューム感だったか、家康時代の天守曲輪

【年始めの余談】ペリーの黒船来航のころ、
 アメリカの人口は 日本の三分の二に過ぎない新興国だった

歴史上の人口推定値(1800年/1850年)

(→HYDE/オランダ環境アセスメント機関「PBL」の統計に基づく)

USS Susquehanna
アメリカ海軍の東インド艦隊の旗艦「サスケハナ」…1850年就役の新鋭艦だった

黒船来航は嘉永6年(=1853年!)のことでしたから、もし当時の日本人が、上記の人口グラフから、写真のキャプションまでの事柄(→蒸気軍艦はまだごく少数の配備で、しかもペリー艦隊は砲撃戦で日本に勝てても陸地の長期占領は絶対に出来ない等々)をよくよく熟知していたなら、日本の幕末・近代史は、けっこう違うものになっていたのではないか…

結局、我々日本人は、ペリーが仕掛けた「ハイテクのはったり」に負けてしまっただけ(→そもそもアメリカの要求は捕鯨船への便宜供与で、巨額の貿易問題からアヘン戦争に発展した英中関係とは別次元のはず)ではなかったのか…

新年早々、そんな感慨にふけってしまうのは、先日、平川新(ひらかわ あらた)先生の中公新書『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読み終えたばかりだからで、この本が実に面白い、ということは既に申し上げました。

私なんぞに言わせていただけるなら、本書の最大の「功績」は、
<世界史における「天下布武」(天下統一)の意味や波及効果>
を西欧側の視点から!!初めて総合的にフカンしたことではないでしょうか。

と申しますのも、本書は、イエズス会が、明国征服のために九州のキリシタン大名の四家(四人の “Rey” 国王=大友・有馬・大村・松浦)から何万人の兵力を動員できるか? という具体的な計画を立てた、いくつかのイエズス会関連史料を点検しています。

ところが現実の歴史は織田信長・豊臣秀吉によって国内統一がなされてしまい、キリスト教勢力は目算が外れただけでなく、そうした統一政権からの「NO」=禁教令を突きつけられる立場になり、しかも天正19年には秀吉の「宣戦布告」同然の親書がフィリピン総督に送られ…

(同書「序章」からの引用)

「朝鮮出兵という、日本による巨大な軍事行動は、スペイン勢力に重大な恐怖心を与えたのである。のちに詳しく論証するが、フィリピン総督はマニラに戒厳令を布いて、恐怖に怯(おび)えたほどだった。アジアでもヨーロッパでも日本は一挙にその知名度をあげ、アジアの軍事大国として世界史に登場することになった」

「秀吉は宣教師やスペイン人たちにカンパクドノ(“Quambacudono”関白殿)やタイコーサマ(“Taycosama”太閤様)と呼ばれていたが、朝鮮出兵後は彼をして皇帝 “Emperador” とする呼称があらわれはじめた。徳川家康が関ヶ原合戦を制したあと、オランダとイギリスを含めたヨーロッパ人は、家康を絶大な権力と軍事力をもつ皇帝(“Emperador” “Eemperor”)と例外なく呼ぶようになった。なぜこの呼称が意味をもつのか。それは、世界最強を誇るかのスペインの国王すらも “Rey de España”、すなわちスペイン国王であり、決してスペイン皇帝ではなかったからである」

「ここに世界にとっての日本の位置づけが明確にあらわれている。まさに、戦国日本から「帝国」日本への生まれ変わりであった。これまで江戸時代のいわゆる鎖国は、日本の閉じこもり型外交としてネガティブに評価されてきた。しかし鎖国にいたる歴史展開をみれば、強大な軍事力を有していたがゆえにヨーロッパ列強をも日本主導の管理貿易下におくことができた、ということが明瞭に浮かび上がってくる」
 
 
という平川先生の歴史観が、清新この上ないものに感じられたからです。

――― 私の印象で申せば、宣教師ら西欧人が初めて目撃した「日本」というのは、列島の上に数多くの国王(Rey、戦国大名)が群雄割拠して分割統治していた「地域」であり、とても統一国家とは見えなかったのに、その後まもなく秀吉や家康が登場して、それら多くの国々にまたがる軍事的な支配を確立したため、秀吉や家康はまさに「Emperador 皇帝」=いくつもの異民族を包括する普遍的な国家の首長(定義の一例『大日本百科事典』より)という風にでも、呼ばざるをえなかったわけです。

私はこれまで、宣教師の報告文で徳川家康を「皇帝」と呼んだのは、外国人特有の誤解(※天皇との錯誤)であろうと思い込んでいたので、平川先生の歴史観にはもう脱帽するしかなかったのですが、そんな話とは別に、私がこれを読んでいる間、勝手に抱いた「派生的な疑問」として、こんなものがありました。
 
 
それは、なぜその後の江戸時代の二百数十年間、長崎の「出島」を管轄していた役人達は、来航するオランダ船の “近代化ぶり” を幕府中枢に報告し、来るべき「黒船ショック」への警鐘を鳴らさなかったのだろうか… という「勝手な自問」を頭の中で繰り返しつつ『戦国日本と大航海時代』を読んでおりました。

しかし結局、そんな「自問」は無駄であり、私の無知をさらすだけだと思い知ったのは、冒頭のグラフや写真の事柄があるからで、独立と西部開拓で急成長していた新興国「アメリカ」は、言わば隠し玉として、配備したばかりの蒸気船(蒸気軍艦)を日本人に見せつけてやれ、そうすれば開国交渉もうまく行くだろう、というハッタリを意図的にかまして来たわけでした。(※当時の蒸気軍艦の先進国はイギリスやフランスであったにも関わらず…)

その結果は、ペリーの思惑をはるかに超えて、皆様ご存じの幕末の動乱と明治維新が展開してしまったのですから、国と国の外交というのは、相手の腹のうち、いや背中の向こう側のものまで見抜いて、相手の足下をよーく見て行動しないとダメ、ということなのでしょう。…
 
 
 
<「1680坪」! !
 細川家史料のナゾの数値が裏づける?天守曲輪の巨大さ…
 加藤忠広が分担した江戸城元和度天守台の「坪数」が意味するもの>

 
 

さてさて、昨年末の前回ブログでは、徳川家康時代の慶長度の江戸城天守をめぐって、それが藤堂高虎の今治城によく似た印象の「巨大な天守曲輪」とともにあったのでは――― というお話をさせていただきました。

で、そのことにやや疑問を感じられた方に向けて、今回はその「巨大な天守曲輪」を補強する史料なのかもしれない、と思える不思議な文献の「数字」を、是非ご紹介してみたく存じます。
 

『大日本史料』第十二編之四十九 の八二~八三頁にある
『部分御舊記(部分御旧記)』(細川家史料)の記述

ご覧のごとく、細川家(永青文庫)の『部分御旧記』には、二代将軍・徳川秀忠の治世、元和8年の江戸城天下普請の際に、熊本藩の加藤忠広が行なった手伝い普請の規模が記録されておりまして、ページの上欄に「加藤忠廣ノ出セル人数」「加藤忠廣ノ分擔(担)セル坪数」という風に注釈されたうち、注目すべきは、やはり後ろから二行目の…

  右者元和八年、御天守之臺 坪数 千六百八拾坪

だろうと言わざるをえません。この「御天守之臺」はもちろん「御天守之台」ですし(→ だい【台〔臺〕】/出典:デジタル大辞泉)、しかもこの天守台の坪数として書かれた「千六百八拾坪」1680坪と言えば、もちろん一坪は一間四方ですから、正方形の敷地で言うなら、実に40間四方(=約80m四方!)という広大な面積になってしまうからです。

天守台で80m四方、というのは、何かの間違いでは??と驚かざるをえませんが、例えば…

!… という風に、40間四方(約80m四方)はちょうど、慶長度の天守曲輪と同等の面積にあたるわけで、これはやはり何らかの出処(でどころ)に基づいた数字なのだと推測できますし、しかも当ブログで過去に申し上げた「仮説」を踏まえますと、ある意味で、合点(がてん)のいくものなのです。

当ブログの仮説(元和度天守の位置/当図は右が南)

すなわち、元和度天守が江戸城中のどこにあったかは、いまだに確たる定説も無い状態ですが、ご覧の仮説は、元和度の天守台築造が、広島藩の浅野長晟(→北之方ノ大殿主)と加藤忠広(→南小殿主)の二人の分担工事だったという『自得公済美録』=長晟(ながあきら)の一代記に基づいた仮説です。

つまり元和度天守は <北に大天守台・南に小天守台> という形式で、そのうち加藤家の「南小殿主」台はすんなりと築けたものの、浅野家の「北之方ノ大殿主」台は(※かさ上げ造成をしたばかりの地点だったのか)築造に大変な苦労をしたと『自得公済美録』にあり…

(『自得公済美録』若林孫右衛門の書状より)

一 長晟様御普請場、地心悪敷所ニ御座候て、下へ五間堀入候ても未堅土ニ成申候

長晟の普請場は「五間」≒10mを掘り返しても、根石をすえる堅い地盤が現れなかった、というのですから、そんな浅野家と加藤家の「地盤の違い」に合致した現場はまさに、ここではないのか、と推理したのが、図の場所なのです。

この位置を、先程の図に改めてダブらせると…(※当図は右が南)

ご覧のとおり、加藤忠弘の「南小殿主」と80m四方「千六百八拾坪」は、実はみごとに重なっていたのだと私は考えておりまして、そうなりますと、加藤家が小天守台の坪数をわざわざ「1680坪だ」などと過大に言明して、それが細川家史料にまで書かれたのは、おそらくは、巨大な天守曲輪の「崩しと撤去を含む総工事量」を幕府に強くアピールするための数字だったのではないか… と想像されてならないのです。

なおかつ、この数字が物語るのは、80m四方のすべてが「家康時代の天守台だ」と理解した人々もいた、ということの傍証であろうと思いますし、これで前回ブログの仮説はかなり補強されるのではないでしょうか。

そのような天守曲輪の姿は、本丸内から見た場合でも、平均の高さ8間(約16m=4~5階建てビルに相当!)の巨大な石垣のかたまりが、本丸地面からズドーンと建ち上がっていたわけで…

家康時代の天守曲輪がこれほどの規模であったのなら、果たして日本史上「最大」の天守台というのは、現在、世間で言われているように「駿府城」で本当に良かったのか… という(ある意味では至極当然な)疑問が生じることにもなりそうです。
 

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