高欄廻縁を連想させる「望」も「楼」もクセ者なので… 望楼型 改め 塔屋型ではどうか

高欄廻縁を連想させる「望」も「楼」もクセ者なので…
望楼型 改め 塔屋型(とうやがた)ではどうか

4月発行の『歴史道』Vol.3(日本の城とは何か)はかなり力の入った構成であり、私の地元・八王子駅前のくまざわ書店では、雑誌コーナーに25冊!も平積みになっていたので、よほど売れたものと推察いたしますが、一方、当ブログは「望楼型って何?」という、昨今の天守をめぐる懸案を度々取り上げて来たため、ご覧の本に、望楼型と層塔型を区別する新しい?尺度(図解)が載っていたので、思わず見入ってしまいました。

それが上の写真の右側ページ、歴史アナリスト・外川淳先生の解説「築城名人の極意」の中での、層塔型天守の図解なのですが、新刊本ではあるものの、該当部分がキャプションの短い文章であるために、全文を引用しないと「論評」できませんので、やむなく掟(おきて)破りの引用をさせていただきますと…

[図解] 望楼型と層塔型
天守の建築方式は、望楼を積み上げる「望楼型」と、下層から上層まで容積を均一に低減させながら積み上げる「層塔型」とに二分。高虎は建築様式として堅牢な層塔型を得意とした。

とありまして、私は本屋でこれを見た瞬間に アレレッ?と、ちょうど当ブログのために用意していた作図とモロにぶつかる内容であって、しかも同書の尺度にしたがうと、実に妙なことになってしまうため、大変に驚いたのです。その「作図」というのは…

津軽家伝来「江戸御殿守絵図 百分一ノ割」の上層部分
(→→ ご覧の江戸城天守までも「望楼型」と呼ばなくてはならない事態に!?)

これはいったい、どういうことか、と申しますと…

昨年末、当ブログで「天守と天守台の「ツギハギ復元」が続く『江戸始図』CG群」をアップした際に、徳川家康の初代(慶長度)江戸城天守のCG化では、津軽家伝来の「江戸御殿守絵図 百分一ノ割」を参照したケース(成瀬京司作品や富永商太作品)が中心になっていて、それらは、おなじみの三浦正幸先生の見解に基づくものであることを申し上げました。

その三浦先生の見解を、雑誌『一個人』No.132 大江戸入門 の解説文から引用しますと…

「慶長天守の詳細な姿は分かっていなかったが、北国の大名津軽家に伝わった「江戸城御殿守絵図」が幻の慶長天守であると推測される。
その絵図によると、二階以上の各階の床を、下の階の軒桁の高さに張った旧式な構造で、現存の姫路城大天守の三階や四階の床構造と同じであった。それでは窓の位置が床面からはるか上方になってしまい、窓に手が届かない欠陥建築となる。
姫路城大天守では、窓際に棚のような武者走り(石打ち棚)を設け、四階では入母屋破風を四つも付けて、外を見張る窓としている。江戸城の慶長天守では、各階に小さな破風つきの出窓がたくさん突き出されており、辛うじてそこから外部を見張れたらしい」

という風に、「旧式」の「欠陥建築」の要素がある(ご覧の)津軽家伝来の絵図こそ、江戸城天守の指図として最も古いもの(=すなわち慶長度の大天守)に違いない、と三浦先生は「推測」されたのでした。

そこで上記絵図の左下、妻側の立面図を「縦に」起こして見ると…


上層部分の拡大


と、まさに三浦先生の見解の「二階以上の各階の床を、下の階の軒桁の高さに張った旧式な構造」が一目瞭然(りょうぜん)でありまして―――
ということは、『歴史道』の図解にしたがえば、今や、この家康時代の江戸城天守までをも「望楼型天守」!!と呼ばなくてはならない事態に…なったのかと、息を飲んだのです。

これは、率直に申しまして <<混乱の極(きわ)み>> と申しますか、近年の三浦先生による望楼型天守の画期的な解釈(→初期の不整形な天守台に対応するための手法、しかも間口と奥行の極端な差にも対応できる手法、といった解釈)には脱帽するばかりでしたが、それにしても、あえて繰り返しますと、下図の天守をわざわざ「望楼型」と呼ぶ必要があるのでしょうか??

…… そんなことをするくらいならば、いっそのこと「望楼型」という呼称の方を(※新たな解釈にフィットするように)改めた方が良いのではないのか… と思えて来まして、この際、岡山城天守を例に挙げつつ「望楼型って何?」と申し上げて来た当ブログとしては、さらなる妄言?を吐くことにいたします。

高欄廻縁が無い「望楼型」天守の、岡山城天守(『牙城郭櫓実測図』より)

 
 
<高欄廻縁を連想させる「望」も「楼」もクセ者なので…
 望楼型 改め 塔屋型(とうやがた)ではどうか>

 
 

先ごろ「現存最古ではなかった」との報道が大々的に流れた丸岡城天守
(※創建当初は高欄廻縁が無く、そこに二層目の腰屋根がめぐっていたらしい)

しかもこの3月には、丸岡城天守の部材が、年輪や放射性炭素濃度などの調査で、寛永以降の伐採であると判定されたばかりで、市の教育委員会は、現状の天守は丸岡藩の初代藩主・本多成重(在職:寛永元年1624年~正保3年1646年)が建てた可能性が高いと判断を改めました。

丸岡城天守と言えば、古風な高欄や初重の入母屋屋根の印象で、長らく「現存最古の天守」と見られていただけに、地元関係者のショックはいかばかりかと推察しますが、結局、現状の木造部分は、創建時は整然とした三重の天守であり、その後に、見せかけの高欄廻縁を取り付けた「復古調の擬似(ぎじ)望楼型天守」とでも言うべき存在であったことになります。

かくして「望楼型」の意味合いが、ガタガタと大揺れに揺れている現状ですが、そこでためしに、いま「望楼」の二文字で Google の画像検索をしてみますと、なんと…

【ヒット数1位2位】旧海軍望楼(宗谷岬の大岬旧海軍望楼跡)




【ヒット数3位4位】に「城の見方ガイド(4)」様の城郭写真が入り…

【ヒット数5位以下】にホテル「望楼NOGUCHI」各館の広告写真が多数入り…

【ヒット数11位】穏城大橋の近くにある望楼(吉林省 図們市)


【ヒット数16位】開平望楼(中国の世界遺産 広東省)

といった感じで、「望楼」と言うと、世間の受けとめ方として「欄干」や「廻縁」が欠かせないようでありまして、それは望楼の「望」の字が周囲から頭抜けた高い位置の「望台」→危険防止の手すり・欄干が欠かせない、を思わせ、さらに望楼の「楼」の字が楼閣の典型的なスタイルを思わせるらしく、そんな造形の極めつけ!は、京都・大雲院の望楼「祇園閣」ではないでしょうか。


昭和2年、大倉喜八郎の別荘に建設された望楼。設計は伊東忠太。高さ36m

ご覧の祇園閣の屋根のモチーフはもちろん「祇園祭の山車(だし)」でしょうが、それを除けば、あとは非常に高い場所に上げられた高欄廻縁というデザインであり、結局、世の中一般の人々が思う「望楼」のイメージというのは、おおよそこんなものだと再確認しますと、我々が「望楼型天守」と呼ぶ以上は、そこにはどうしても「欄干付きの廻り縁」が無いと、社会的に通用しにくい、という事情が、今後もずっと つきまとうのでしょう。
 
 
――― であるなら、先ほど申したごとく「望楼型」の呼称を思い切って改める方が、冒頭の図解のような “混乱” の中を彷徨(さまよ)うよりも、よほど良策ではないかと思うわけでして、もっと三浦先生の見解や、高欄廻縁の無い岡山城天守などに、素直(すなお)にフィットする呼称は無いのでしょうか。

出来れば <御殿の入母屋屋根の上に櫓を組み上げた構造> という望楼型本来のあり方を伝えることが出来て、しかも <違ったカテゴリーの建物を縦に重ねた構造> という意味も伝えられれば、天守発祥の「安土城天主」をも踏まえたものになって、最良の呼び方になるでしょう。

と、自らハードルを上げておいて、陳腐(ちんぷ)な候補案しか出せないのでは、厚顔無恥の極みでしょうが、そんなことは構わずに、思いつく呼称案を申しますと、出来れば「望楼」と同じく「既存の二文字」であった方が、勝手な造語の二文字よりも通りがいいでしょうから…
 
 
【候補案A「積載型」天守】
→「積む」「載(の)せる」という文字を単純に重ねた点は(余計な連想をまねかずに)良さそうですが、それならば、層塔型天守は各階を構造的に「積載」しないのか? と問われると、ちょっと弱いかもしれません。

【候補案B「付設型」天守】
→ ならば、違うカテゴリーの建築を縦に重ねた、上下に合体させた、という意味合いを強調すべく「付設型」はどうか、と。でもこれでは「城に(別途)付設した天守」という風にも読めそうで、恐い…。

【候補案C「塔屋型」天守】
とうや【塔屋】=ビルディングなどの屋上に突き出して設けた小屋


(※写真はニューヨークの屋上のペントハウス=高級な塔屋アパートメントの例)

ご覧の写真はちょっとゴージャスな「塔屋」→ ペントハウス自身の屋上にミニプールが付いた物件の写真ですが、「塔屋」と言えば、要はこのように、屋上に別の建物を乗っけた形のものを言うわけですから、望楼型天守の最上階の「物見」階を “そうした部類のうち” として呼ぶのも、ひょっとすると、ありではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

これならば「楼閣」のニュアンスは一切無くなりますので、「欄干」の有無を問われずに済むのが、最大のメリットです。ただし逆の心配として、塔屋型天守の最上階を英語で Penthouse と翻訳してしまうのは禁物(きんもつ)でしょうが。

前出の岡山城天守などは「塔屋型天守」で、ぴったりではないのか、と……。

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