岐阜城「大発見」追記――もうひとつの候補地と御三階櫓の見え方

岐阜城「大発見」追記――もうひとつの候補地と御三階櫓の見え方

これは前々回にご覧いただいた、豊臣政権下の岐阜城をめぐる当ブログの仮説の図ですが、その意図は、岐阜城内の「信長以降の石垣」が(※豊臣政権下での五人の大名による居城化にも関わらず)大きな「改修の跡」がまるで見当たらない、という不思議な状態を説明するために、あえて申し上げてみたものでした。

で、前々回の仮説のごとくに、豊臣政権下で五人の大名が居城化した可能性のある場所としては「もうひとつの候補地」を申し上げないわけには行かないでしょう。

【ご参考】日本城郭資料館蔵『濃刕(のうしゅう)岐阜之城山』


(同絵図の拡大)

ご覧の絵図で点線と黄色で示したあたりが「昔御殿跡」になるのでしょうが、そのずっと左側(南側)に、より大きな敷地で「御殿」と書かれた場所があり、ここは皆様ご承知のように、江戸中期に尾張藩の「岐阜奉行所」が置かれたところです。

これは例えば、西尾市岩瀬文庫のデータベースにある『濃州厚見郡岐阜絵図』=江戸初期の承応3年(1654年)の絵図でも、同様の状況がいっそうハッキリと描かれていて参考になります。

そちらの絵図では、金華山の山頂の岩場に「天守」とあり、山麓に「古屋敷」と大きく墨書された一帯の東側の山すそに「昔御殿跡」があり、そこからずっと南に下った “問題の場所” に、水堀で囲われた「北御殿所」「南御殿所」がかなり明瞭に描かれております。

――― しかもこの “問題の場所” は、関ヶ原合戦後に徳川家康が岐阜城を廃城にしたのち、岐阜が幕府の直轄領になり、また加納藩が立藩されるという中で、かの大久保長安!が「美濃代官」として赴任した屋敷地でもあったようなのです。
 
 
【 疑 問 】…となると、そんな “問題の場所” のすぐ上(山側)にあった、金華山の南側尾根の砦群は当時、どうなっていたのか??



同じ範囲を、例えば西ヶ谷恭弘先生監修『日本名城図鑑』の掲載図で見てみますと…

(同書のP134 岐阜城の解説文より)

永禄10年(1567)苦心のすえ美濃を制圧した織田信長は地名 井の口を岐阜と改め、城名も岐阜城とした。(中略)曲輪は馬の背のような山の尾根を削ってつくられている。そのため金華山の南にのびる尾根を中心に数多くの曲輪を築き、山全体を城塞のようにした。

(村田修三編集『図説 中世城郭事典』第二巻P167 岐阜城より)

信長は幾度も煮え湯を呑まされてようやく攻略した城なので弱点も十分承知しており(中略)むしろ主郭部の不備を補う周辺の防備に意を注ぎ、大手側にA・B・C・D・E・Fの砦を、搦手側にG・Hの砦を築き 全山を城塞化して戦略的大城郭を造り上げた。

そこで誠に恐縮ながら、文中A~Hを、あえて上記の図に書き込ませていただきますと…

という風に、南側尾根の砦群は「織田信長が築いた砦である」と諸先生方が一致して考えておられるもののようでありまして、引用の図をよくよく見直せば、金華山山頂をとりまく曲輪よりも、はるかに広々とした曲輪群であったようなのです。(※現在、周辺は国有林で原則立入禁止ですが、当該地が展望台やNHK送信所になっていたりもします)



【ご参考】南側尾根の砦群のひとつ「稲荷山砦」付近の現状
(※「志水1197」様が「#二階堂行政」で建仁年間の砦跡か…とつぶやいた写真の引用です


南側からの空撮

!! という風に、冒頭から申し上げて来た「御殿」北御殿所・南御殿所=江戸時代の岐阜奉行所の地は、さすがに、それなりの軍事的な裏づけがあって選ばれた場所だと言えそうです。

しかも前出の絵図の「水堀」がいつの時代までさかのぼれるか? と考えた場合、すでに織田信長の頃から存在した可能性も大でしょうから、むしろこちらの方が(北奥の)昔御殿やいわゆる信長公居館跡よりも、防御機能は高かったのかもしれません。

となれば、豊臣政権下での居城化の「もうひとつの候補地」として、この場所は絶対に見逃せませんし、もしもそうであれば豊臣政権下では、ひょっとすると金華山が「不入の旧城」、南側尾根一帯が「現役の詰(つめ)城」として使われたのでは?… なんていう “夢想” も、私の頭には浮かんで来てしまうのですが。
 

加納城 御三階櫓 の古絵図(『御三階野絵図集ノ平』より)


(岐阜市作成の加納城の発掘詳細地図をもとに作図)


本丸の天守台(水掘跡の側から)

それでは最後に <<御三階櫓の見え方>> という話題を申し添えておきたいのですが、ご承知のとおり岐阜城の廃城後、金華山の山頂にあった天守は、新たに築かれた加納城の二ノ丸の北東隅に移築されて「御三階」と呼ばれたのですが、現在、その場所は岐阜地方気象台の敷地内になっております。

岐阜地方気象台と加納小学校との境界にのこる「御三階」櫓台の北面石垣


それにしても、由緒ある「御三階」櫓であれば、どうして本丸の一角に移築せずに、二ノ丸の北東隅などという中途半端な場所に移築したのか? と、いぶかる向きもあるのかもしれませんが、実は―――

本丸枡形の高麗門から御三階櫓を眺めると、その左側をかすめるような角度で…


ちょうど、岐阜城跡の金華山が見える、という絶妙の角度で移築されていた!!


本丸の北埋門脇の石垣上から眺めた金華山

…… このように現地に立って見れば、移築場所の選定はたいへんに重要な判断であったのだと身震いがするほどの状態でありまして、これはもう、当時はあえて言葉にするまでもなく、御三階櫓とは「織田信長公から拝領の建物である」といった無言の了解事項が、加納城全体にただよっていたのは間違いないでしょう。

ですから、やはり前々回に申し上げたとおり、この建物こそが、金華山山頂にあった信長「創建」岐阜城天主そのものなのだ、と改めて感じざるをえないのです。…
 

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