山頂と山麓に瓜ふたつの 懸造り天主建築か?
織田信長の相反する欲求 = 絶対的超越者たるも 天下の面目は施したい
【5年前の記事で作成した、足利義満の「金閣と天鏡閣」をめぐる妄想的イメージ】
→ 文字どおりの「天鏡閣」という雅名からのダイレクトな連想として、
「天」空に「鏡」のごとく映った楼「閣」であったのならば、
こんな風に、ウリふたつで、背後の丘の上に建っていたのかも……
過去には “こうした前科もある” 当ブログですから、今回また新たに岐阜城をめぐる超大胆仮説を申し上げて、しかもそのイラストを作成してご覧いただこうというのは、ひとえに、今回の金華山山頂での「大発見」が(※より厳密に申せば、見学会で見た「イントレ」による現場への登り方が)私の脳髄にもたらしたインスピレーションの賜物(たまもの)と申せましょう。
そしてその大前提になるのが、そう申し上げる私の基本的なスタンス <<山麓のいわゆる信長公居館跡の、階段状に一体化した「増築を重ねた温泉旅館」説はいまだに賛成できない。 何故ならC地区の金箔瓦建物は、二代目の織田信忠時代に、わざわざ敷地を拡張して新築した建物のはず!>> という考え方です。
これこそ、岐阜城内の貴重な「改修の跡」←平成27年度 信長公居館跡発掘調査成果より
【関連のご参考】『歴史REAL』天下人の城 / 千田嘉博先生の解説文より
… 岐阜城出土の金箔瓦は、信長以降の城主が改修して用いたと考えるべきである。岐阜城の発掘成果をすべて信長に引きつけて解釈してしまうと、歴史評価を間違えてしまう。(中略)ちなみに岐阜城出土の金箔瓦は文様の飛び出した部分に金箔を貼っており、型式から見ても信長段階でないことは明らかである。
ということで、土中のれっきとした “物証” に基づき、かつ千田先生の “金箔瓦の解釈” を参考にしながら(しかも「増築を重ねた温泉旅館」スタイル=三つか四つの曲輪をまたいで縦に横たわる城郭建築!? をまねた織田家の親族や家臣は一人もいない、という歴史的事実があるのですから)私は今なお、フロイス日本史などに記された「四階建て建物」は、C地区とは別の場所にあったはずでしょうし、それはやはり「楼閣」だと確信しておりまして、今回の超大胆仮説もそうした確信の延長線上で申し上げる事柄になります。
で、自分はこれまで、織田信長がなぜ山麓に四階建て楼閣を建造したかという「意図」については、のちの安土城のように、いきなり山頂に七階建ての高層建築を建てるのは難しいと判断して、まずは山麓で「実験を重ねる」つもりで四階建て楼閣を築いたのだろう、と考えてまいりました。
ところが、この度の金華山山頂での「大発見」と、とりわけ「見学会でのイントレを使った発掘現場への登り方」を見たとき、アレッ!?… と感じるものがありまして、ひょっとすると、私の山麓「楼閣」に対する考え方はやや間違っていたのかもしれない… 信長の「意図」はまるで次元の異なるものであり、ある意味では実に現代的なサンプル表示!とでも言うべきものだったのかも…… という風に思い至った次第です。
【イメージ画像】京都・清水寺の懸造り(かけづくり)舞台
さて、お話の時期を少しだけずらして、先に「安土城」の話題から始めさせていただきたいのですが、当サイトの2009年度リポートのためのイラストは、安土城天主台の南西側には壮大な「懸造り舞台」が張り出していたはず、との想定で描きました。
これは天主台直下で発掘された礎石列に基づくものでしたが、同じくここには「懸造り舞台」があったはず、と強く主張されているのが、前出の千田嘉博先生であるのは有名な話で、先生は信長のねらいについて、以下のように想定されています。
(『歴史発見 vol.2』2014年発行/P69の解説文より)
… それでは信長は、なぜ安土城天主の西側に大規模なテラスを設けたのであろうか。これを読み解く鍵は、テラスが張り出した天主西側が『信長公記』に記された「御白洲」(おしらす)に向いていたことにある。
(中略)
つまり信長は「御白洲」で待つ家臣たちに対してはるか上空に位置した懸け造りのテラスの上に現れ、人びとが驚き見上げるなか壮麗な天主を背景に立ち、家臣たちに言葉をかけたのである。
その圧倒的なきらびやかさ、畏怖(いふ)を覚えるほどの権力の演出には、驚嘆するしかない。信長はいかに自分を絶対的な超越者として人びとに印象づけるか、綿密に計算して、天主の懸け造りを建造させたのであった。
(同書の該当ページ)
という風に、その最大の目的は「絶対的な超越者」としての演出にあったとされていて、舞台が「御白洲」に向いていたのは勿論ながら、現地のそこ(=天主台跡の南西隅)に立ってみれば一目瞭然で、当時は、舞台の上に立てば御白洲や櫓門の向こう側に「安土の城下」が広がって見えていたことになります。(→ ですから逆に、城下からも舞台は見えたはずです)
――― そこで、思わず問いたくなるのが、当時から「懸造り舞台」の代名詞であった清水寺の「清水の舞台」というのは、そもそも、何のために造られたものだったのか? という疑問に他なりません。
【ご参考】16世紀前半の景観という洛中洛外図屏風(歴博甲本)の清水寺
この場所は「清水の舞台から飛び降りる」という常套句のとおりに、江戸時代には願掛けの飛び降りの名所になってしまったそうですが、元々は、「山岳信仰」に基づく寺社の立地条件 = すなわち、険しい崖地にわざわざ寺社を建てる、という行為が、懸造り舞台を生んだ原因なのだと言われます。
同様のことは古くから全国の山岳寺院などで行なわれ、例えば、平安時代にもさかのぼれる石山寺本堂(滋賀)や、鎌倉時代の龍岩寺奥院(大分)とか、桃山時代の「四方懸造り」の笠森寺観音堂(千葉)などなど、数多くの寺社で懸造り建築が出現しました。
――― という前提を踏まえて申せば、当ブログでも過去に申し上げたように、信長は小牧山に居城を移す際に、初めはもっと険しい大縣(おおあがた)神社のご神体の!「二宮山」尾張本宮山に城を移そうとしたのですから、これが単なる観測気球ではなくて、半ば本気であった可能性も含めて考えますと、やはり小牧山以降の信長の城は “険しい山や断崖に建つ城” ということが非常に重要な条件(→信長の理想像)であったのかもしれません。
そんな中では、山頂の石垣や「懸造り舞台」そのものが、直接的に、イコールで「異空間」とか「超越者」を示す意匠(代名詞)であったようにも思えて来ます。ですから…
<<「懸造り舞台」とは、防御面でも、政治的観点においても、信長によって
「見せる山城」のうってつけの必需品・必須アイテムになっていた>>
という風には言えないのでしょうか。
【以下へのご参考】醍醐山頂にある醍醐寺・如意輪堂は、段石垣の各段に柱を立てた「懸造り」
さて、ここからお話は「岐阜城」にもどりまして、信長時代の様子をさぐるうえで、伊奈波神社蔵の岐阜城址図(稲葉城趾之図)はよく参照される史料ですが、そこに描かれた天主台直下の「三段の石垣」のうち、実際に二段目が発掘調査で確認されたとのニュースがありました。
そこで、かつて城戸久先生が岐阜城址図の山頂付近を書き起こした図(『名古屋城と天守建築』所収)を使ってご覧いただきますと…
(図中の文字を読み易くするため、90度 反時計回りに回転)
これで見やすくなりましたが、最初に申し上げておくべきは、図中の「十四間」のすぐ上に書かれた「石垣高三尺」は、その上方(左側)二段の石垣高さとの比較や、そのすぐ南側(すぐ上)に書かれた「石垣高一丈七尺」との物理的な関係から見れば、おそらくは「石垣高一丈三尺」が正しい値であって、書き間違いなのは明らかでしょう。
! となると「三段の石垣」というのは、いずれも高さが「一丈三尺」と均等に築かれていたことになり、これはかなり計画的に、整然と積み上げられたのかもしれませんし、必ずしも、急斜面の地形に合わせて(半ば)成り行きで積んだ石垣ではなかったのかもしれません。
【 試 案 】仮に「岐阜城址図」のとおりとすれば、石垣の傾斜角度が60度ならば、
三段の石垣の一段目は、天主台から8間程度の距離が必要に。
では、ここからがいよいよ「超大胆仮説」の始まりでして、先ほどの
<<「懸造り舞台」は、信長によって「見せる山城」のうってつけの必需品・必須アイテムになっていた>>
というのであれば、ひょっとすると、話題の「三段の石垣」上には、安土城天主と同じく、壮大な「懸造り舞台」の柱が林立していたのではなかったでしょうか?
!! これは取りも直さず、先ごろの見学会で、イントレを組んで見学者を案内したルートそのままに、石段が続く城道から最後の階段を登ると山頂建物の玄関に入り、そこは城下側に「舞台」を設けた懸造りの「広間」になっていて、南北の桁行が最大で「十四間」という大規模なものであり、その奥(山頂側)には天主(四階建て楼閣)や付櫓が、半ば融合しつつ連なっていた、のではないのかと。
そして実に、実に妙なのは、以下は山麓の居館についての記録文なのですが…
(『日本耶蘇会年報』一五六九年七月十二日条より)
長き石段を登れば広さゴアのサバヨのと同一又は少しく大なる広間に入る。其梁は此山にて伏りたる一本の木より取りたる長き物なり。此室は第一階にして望台及び椽(えん)ありて町の一部を望見すべし。
(中略)
第一階には十五又は二十の座敷あり。その屏風(黄金を以て飾りたる板戸なり)の締金及び釘は皆純金を用ひたり。座敷の周囲に地階と同平面の椽(えん)あり。
(中略)
宮殿の第二階には甚だ閑静なる処に茶の座敷あり。其巧妙完備せることは少なくとも予が能力を以て之を述ぶることを能はず。又之を過賞することを得ず。予は嘗(かつ)て此の如き物を観たることなし。
第三階及び第四階の望台及び椽より町を望見すべく高貴なる武士及び重立ちたる人々は皆新たに其家を建築したれば…
という風に、引用した文章は、城郭ファンにおなじみのフロイスら宣教師の見聞録による本国向け年報でして、もちろん山麓の、上記年報で「広間」とも「宮殿」とも呼んでいる建物の記録なのですが、「其梁は…」という風に梁(はり)が見えていた!ことは大きな注目点でしょうし(→ 城戸先生はこれを「一部が四階建てであることは明瞭である」とも前掲書で解釈しましたが)どういうわけか、その描写が、超大胆仮説の図とも妙に一致してしまうのです。!
(※引用文の「長き石段」は原文では comprida escada de pedra で、またいわゆるアルカラ版では larga escarela de piedra ですから、pedra(piedra)が石なので、天主手前のだらだらした坂道の城道が、そこからは石段できれいに葺かれていて、そんな状態を示した文言ではないかと思うのです。
そして「地階」というのが、まさに、懸造り部分を示したのだとすると、「同平面の椽あり」はぎりぎりまで縁=舞台であった様子、つまりは清水の舞台と同じ構造だったことを伝えているのかもしれません。!
では、そんな一致の原因と思われるのが…)
「絶対的な超越者」たらんとした織田信長、しかし一方では真逆の行動も。
(小島道裕『信長とは何か』2006年より)
(永禄12年、岐阜城を訪ねた山科言継との初対面は)まず山上から麓の館へ行く途中の道で出会い、用件は館で済ませ、それから後日個人的に山上の城へ招待して、夕食を共にしている。
(中略)
山上から山麓への道の途中で出会うというやり方も、当然幕府の作法ではなく、信長独特のやり方と思われる。信長は、周囲から畏怖(いふ)される一方で、「ごく卑賤のものとも親しく話をした」(フロイス『日本史』)と言われるように、身分にとらわれない面があり、その点で、格式と関係なく人と会うことができる路上での対面は好都合だったのだろう。
(朝尾直弘『天下人の時代』2003年より)
信長は明智光秀、羽柴秀吉、池田恒興、柴田勝家など家臣の働きに対し、「天下の面目をほどこし」たとか、「天下の覚えをとり」と評価し、あるいは「天下の取沙汰」にいどんで功績をあげたと褒めている。
この用法は「天下の評判」が功績評価の重要な基準になっていたことを示しています。価値観の大きく変動した時代であればこそ、新しい価値基準が必要でした。
――― どうして山頂と山麓が一致するのか、その原因をさぐるにおいて、この際、ズバリ申し上げるなら、信長の心中には “相反する二つの欲求” がうずまいていたのだと思えてなりません。つまり、
「絶対的超越者」たるも「天下の面目」は施したい。
といった矛盾する欲求があって、下世話に申せば、神のごとくに世人を寄せ付けたくないが、世間からの賞賛はあふれるほど欲しい、という虫のイイ願望が強すぎて、信長自身も心の納まりがつかなかったのではないでしょうか。
そんな信長がたどり着いた方策を想像するなら、先ほどの「超大胆仮説」=山麓の記録が山頂にも当てはまってしまうのは、もしかすると、山頂と山麓に、ウリふたつの、懸造り天主建築があったから、なのではないでしょうか??
信長の欲求からすれば、山頂に本物の天主建築を建てても、その近くには絶対に余人を入れたくなかったでしょうから、やや離れた山麓にそっくりそのままの造りの(=サンプル表示のごとき!)天主建築を建てて、そちらの方には重要人物をどんどん招いて、世間の評判を高めて行きたいと、もくろんだのではなかったかと。
… これは上記の小島先生の著述のように、初対面の、朝廷の使者の公家(権大納言の山科言継)と路上で会う、などという融通無碍(ゆうづうむげ)な合理精神の持ち主ならば、十分にありえたことではないかと私には思えてなりませんので、このまま、ラストのイラストまで一気に話を進めさせていただきます。
前出の城戸久先生による、信長時代の岐阜城 山頂天主の復原立面図
(※加納城に移築された「御三階」櫓の改築箇所を逆算して推定したもの)
(日本城郭史研究叢書・第六巻『名古屋城と天守建築』1981年所収)
ご覧の城戸先生の立面図を活用して、懸造りの広間と融合した姿を想像すれば、
楼閣部分は東西棟の層塔型に近い形かと思われますので……
では、いよいよ、ネット上にある岐阜城址のドローン画像を利用させていただき、それと合成する形で、周囲の本丸(主郭)などの風景は復元して描かずに、ごく単純に天主建築だけをはめ込んだ形でのイラストをご覧いただきましょう。
【超大胆仮説】<<織田信長「創建」岐阜城 山頂天主>>
――― 今回の記事で申し上げたい最大のポイントは、これとウリふたつの懸造り天主建築が、山麓のおそらくは「昔御殿跡」と、発掘された庭園群との間の崖地(=現在の岐阜公園の池のあたり)に “サンプル表示” !! として建っていたのではないのか、という仰天仮説にあります。
で、もしそんな規格外の、融通無碍(ゆうづうむげ)な合理精神が、山麓にもわざわざ “もう一つの” 高層建築を建てた動機だったのだとすれば、そんな動機は誰も想像できませんから、長年にわたり城郭研究者を悩ませ続けた「謎」にならざるをえなかったのだ…… という風に。
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