「見せる山城」考/断念した信長の理想?…あえて尾張本宮山の城を想像してみると

「見せる山城」考/
 断念した信長の理想?… あえて尾張本宮山の城を想像してみると

【前々回ブログから】 むしろ「大城郭」と呼ぶべき岐阜城の壮大なスケール


それは江戸城と比べても…


実に、岐阜城の城域は、江戸城の主要部分がすっぽりと 納まる広さ!!

今回の話題に関連して最初に申し上げたいのは、ご覧のごとく「大城郭」と呼ぶしかない岐阜城の「広さ」でありまして、単純に山城部分の広さだけで申せば、後の居城で 織田信長の城の完成形であった安土城を、はるかに上回っていたと言えます。

例えば前々回のブログ記事で、加納城から眺めた金華山の写真をお目にかけましたが、あの写真で、左右に広がっていた山並みはすべて!岐阜城の城域です。


(しかもご覧の各砦には、天主台らしき櫓台もあって、往時の姿はいかに!?…)

ある程度の距離の加納城からでさえ、こんな風に見えたのであり、いま岐阜市内を訪れる方は誰もが感じることでしょうが、市街のどこに居ても、城山がすぐ近くまで迫って来ていて、まるで “鶴翼” のごとくに地域全体を城が囲い込んでいるようにも感じられてなりません。

――― では、先ほど申し上げた「安土城」との比較を、山城内の曲輪の配置をわかり易く色分けした図で改めてご覧いただくと……

同縮尺! ! で並べてみた岐阜城と安土城
→ → 同じ信長の居城でも、山城としては 全く異質の城


(※岐阜城は林春城先生の縄張り図を、安土城は木戸雅寿先生のPDFを参照)

ご覧のように圧倒的で、予想外の大差には、ちょっとたじろぐ感じもありましょうが、これが本当に同縮尺なのでして、曲輪の配置を比較すれば、岐阜城は山の形状から来る物理的制約でスカスカなのに対して、安土城はコンパクトで「求心性」をとことんまで追求した配置になっています。

そして岐阜城の砦群で赤く表示した所が “天主台らしきもの” の位置でありまして、こんなこと=天主の分散配置!?など 安土城では絶対にありえなかったことでしょうし、こんな点にも、岐阜城の “いまだ語られていない側面” を強く感じてしまうのです。

で、<ならば何故こんなにも違ったのか?> が今回の中心テーマになるわけですが、ここで仮に小牧山城を含めて考えた場合、むしろ小牧山城と安土城が “直結する” ような印象もあり、三つの城の中では、真ん中の岐阜城が、いちばん “離れた位置にあった” 城なのではないでしょうか?

――― ということであれば「大差」の原因は思わぬ所にあって、例えば、信長の志向がジグザグに変遷したのだと仮定しますと、小牧山城の直前の城が問題になるのかもしれず、ひょっとすると、その時に信長が断念した城!=まぼろしの「二宮山」尾張本宮山の城にこそ、何か、重大なヒントが隠れているのかもしれません。…

尾張国二宮の大縣(おおあがた)神社の奥宮が鎮座する尾張本宮山


【現状】北隣の尾張富士から眺めた様子 → 右奥の遠方には名古屋駅周辺の高層ビル


一見してこの山は、名古屋まで楽に見渡せる山の高さ(標高293m)とともに、山自体の広さ(奥深さ)もかなりあることが想像できますし、ここに築城するとなると、山の形状がたいへん気がかりです。

前回ブログでは、小牧山以降の信長の城は “険しい山や断崖に建つ城” ということが、信長の理想像であったのかもしれない、などと申しましたが、そこでアウトドア情報サイト「リトルマウンテン」様から引用の登山写真を参照してみますと…

西の山麓にある大懸神社の境内へ(ここからほぼ直進で登る山頂まで徒歩20分)


登山道の脇にある宮池


進むとさらに鳥居


山間を行くハイキングルート


標高220m付近


雨宮社の奥にある岩場からの眺め


山頂の直前


山頂にある大縣神社の奥宮

といった状態のようで、ここに築城をしたならば、ご覧のルートの大半を「城域」として考えねばならなかったでしょうし、そのうえ山の北側の、五条川最上流部の「城域」化も欠かせなかったでしょうから、そうとうに大規模な築城工事を… 下手をすれば、岐阜城を上回るほどの作業量が必要だったのかもしれません。

そこでまた同縮尺(デジタル地形図)で並べてみた 岐阜城と 尾張本宮山

!!…… このとおり「広さ」で申せば、どう考えても、尾張本宮山の城は岐阜城に匹敵する規模になったことでしょうし、両者はともに西向きの城になった可能性や、主要な河川とのアクセスの重視などは感じられるものの、尾張本宮山の方はダラダラと標高が上がる地形なのですから、当時、平城しか使って来なかった信長にしてみれば、経験したことの無い、ケタ違いの築城工事を迫られたことでしょう。

しかし、信長は一旦はここを「候補地」として挙げたのですから、すでに、ある程度の工事は「覚悟していた」!?とも言えるのかもしれませんし、それと同時に、後の安土城のような「求心性」は期待できないことも、半ば覚悟していたのではないでしょうか?

そう考えますと、信長の最優先事項は何だったのか、あぶり出せる気もして来まして、ここは是非、信長の理想の「見せる山城」として、結局、尾張本宮山では何がダメだったか、という「減点方式」で見てみるのもいいのかもしれません。

<<<決め手は「城下からの見え方」だったのかも>>>

もう一度、比較の図をご覧いただくと、地形図の色で一目瞭然なのは両者の「高低差」の違いでしょう。現に…

金華山は旧城下から見上げると、屏風を立て並べたパノラマのようである
しかも山頂の主郭は横一文字になって城下に存在感を示せる
→「見せる山城」として、これ以上ないほど 好都合な山の形状である

したがって信長の最優先事項は「城下からの見え方」だったとも考えられそうで、そんな観点から、尾張本宮山よりも、コンパクトな単丘の小牧山の方が、いい結果を得られる、との最終判断を下したのかもしれず、その時はもう「工事量」は必ずしも大きな欠点ではなかったのではないでしょうか。

……… 以上のごとく、尾張本宮山を介して見直しますと、岐阜城は「見せる山城」としてあまりにも良過ぎたため、南側尾根の守備に砦を多数配置せねばならなくても、また、あるべき「求心性」は度外視してでも、ここを居城にしたいという信長の強い願望がつのり、言わば(尾張本宮山と同程度の!)想定範囲内の!「大城郭」が出来上がったのだ――― という風にも見えて来るのです。
 

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