空前絶後の策士で日和見(ひよりみ)主義者 = 日韓併合のキーマン・李完用を韓国人は国賊と排除するばかりで良く知らない

【今回は番外編を…】

日露戦争の結末を見て、親米派 →親露派から 親日派に 豹変(ひょうへん)―――
大韓帝国の首相に就任すると「日韓併合」に全面協力した 李完用
(り かんよう/1856-1926)


その挙句に、晩年の李完用は「一線融和」(=日鮮融和)のかけ声のもと、
大韓帝国の旧皇族と 日本の皇族との婚姻を推進するという、言わば
李氏朝鮮王の「血」を残すための “世紀の抱きつき戦法” に取り組み、
その成果が、大韓帝国最後の皇太子で李王家当主の李垠(り ぎん)と、
日本の梨本宮家の第一王女・方子(まさこ)との成婚にもつながったという。



(独立協会などで長年の関係があった政治家・尹致昊ユン・チホの日記より)
「李完用は徹底した日和見主義者で変節主義者であった」

…… 現状では、そもそも軍事的な「侵略」で日韓併合など出来るわけがない、と大多数の日本人が感じているなかで、韓国人もある程度は分かっているのに正面切っては言おうとしない「日韓併合」成立の決定打を放ったキーマンこそ、李完用 その人でしょう。

当時、明治維新を果たした日本が 帝国主義(植民地獲得)へと走り出したなかで、大韓帝国では最大の政治勢力・一進会が「韓日合邦」論を主張していたわけですが、これが言わば “抜け道” を含んだ “明治維新ただ乗り論” でもあったのに対して、李完用はどうしてああもアッサリと、後戻り不能の完全な「日韓併合」=李氏朝鮮および大韓帝国の100%消滅(! !)を認めてしまえたのか……

と申しますのは、“稀代の策士” 李完用はかつて親露派として、李氏朝鮮 最後の国王・高宗(こうそう)をロシア公使館に亡命させるクーデター「露館播遷(ろかん はせん)」を成功させたものの、ロシアの権益が強まると一転、清との宗属関係からの独立をめざす「独立協会」初代会長となり、高宗に王宮に戻ることを進言。
――― そして高宗は朝鮮半島で初の皇帝に即位し、国号を「大韓帝国」に改める、という革命的事変を画策した張本人でもあったのですから。!!

そんな李完用がどうして?…と、私なんぞにはどうも理解しきれない部分が残っていて(※ちなみに私自身は「韓日合邦」論など断じて許せない反対論者ですが)この際、あえて、あえて申せば、ドイツにヒトラー、大韓帝国に李完用、という空前絶後の人物が現れたことで、その後の両国は長く苦しむことになったのであり、そうした肝心要の歴史的経緯を(現在の感覚では恥ずかしいからと)政治的に封殺・隠蔽(いんぺい)しても、また次世代の子供たちに的外れな歴史教育(反日教育一本槍)を強いても、それは悲劇の増幅にしかなりえません。

※          ※          ※

と、今回のブログ記事はまたもや【番外編】を申し上げたく、何故なら、こういう李完用の人物像について、戦後の韓国は かの李承晩 政権からずっと「親日反民族行為者」という政治的・法律的な「抹殺」状態に押し込めて来たため、人々が実像をよく知らない、言葉にも出せない、どうせ金目当てだというデマ(不正確な調査)がまかり通る、といった大問題が横たわったままのようで、こんな状態では「日韓併合」をめぐる論議など、まともに出来るわけがないと思うのです。

で、日韓併合のキーマン「李完用」とは、どんな人物か、日韓関係での初登場を伝えるエピソードが、小松緑(※伊藤博文と関係が深かった外務官僚)の著書『近世秘譚偉人奇人』PDF版(昭和9年刊)のP165~に載っていて、まずはこの話から紹介させて下さい。

【イメージ画像】日本海に侵入したロシア艦隊(NHK「坂の上の雲」より)

李完用登場のエピソードは、日本の連合艦隊が帝政ロシアのバルチック艦隊に圧勝した日本海海戦など、世界を驚かせる形で日露戦争が終わると、それを目の前で見せつけられた大韓帝国の指導者層が、背筋も凍るインパクトを受けていた中での逸話です。やや長文ですが是非、ご一読を。

【小松緑の著書より】

明治三十八年 日露講和条約の結ばれた後の十一月十五日に、特派大使伊藤(博文)公が、日韓保護条約を締結する為めに、韓帝(高宗)に謁見して、それが日露戦後 当然の帰結なる理由を上陳した。
翌日韓帝は 参政大臣(首相)韓圭卨 以下各大臣を召して保護条約の可否に就いて御下問になった。この条約の骨子は、韓国を日本の保護国とし、韓国の外交を日本に於て一切執行するといふにあったので、各大臣いづれも責任を回避して、敢て所見を陳奏する者がなかった。

この時、李完用は学部大臣の職にあり、素より当面の責任者ではなかったが、その烱眼(けいがん=鋭い目)は、早くも日本の提議を拒絶するの不可能なるを看破し、独り自ら進んで口を開いた。

「聖旨若し飽くまで日本の提議を拒絶するにあれば則ち(すなわち)止む。万一許容するの止むなきに至るとせば 如何なる条項に対し 我より增補改訂を求むべきかを予め商量(しょうりょう=相談)するを急務とす」

と奏上した。その時、韓帝は、
「伊藤大使に於ても、欵中(かんちゅう=条項)の字句を添削するの求めに応ずるの道あらん。全然拒絶せんとせば恐らく鄰誼(りんぎ=隣国の友好)を保つ能はざるに至らん」
との御沙汰があった。

(中略/二日後、伊藤博文が改めて各大臣と会談すると…)

首相 韓圭卨以下 大抵言を左右に託して拒絶の意をほのめかし、伊藤公の詰責を受くるや、首相は双手で顔を掩ひ(おおい)、声を放って泣き出した。
伊藤公は、言葉を和げて、一国の宰相たるもの、女々しく泣くものでないと、子供をすかすやうになだめた。

やがて、李完用は、決然として、協商妥弁(だべん=処理)せよとの上意を蒙(こうむ)りたる旨を言明し、度支部大臣 閔泳綺、法部大臣 李夏榮、農商工部大臣 権重顕、軍部大臣 李根澤と李完用の五人が、主として字句修正の衝に当ることになり、伊藤公自ら筆を執って、彼等の望む所を容認して差支なき部分を添削した。
(中略)
この時から伊藤公は、李完用の非凡な人物であることを認めたものと見え、そののち統監として京城(ソウル)に来られてから、李完用は、伊藤公の斡旋で内閣の首班となり、それから日韓併合に至るまで、首相として勤続したのである。

ここに登場した大韓帝国の首相・韓圭卨(かん けいせつ/ハン・ギュソル)

上記の著書のとおりなら、李完用は、泣き出した首相を見るに見かねて、もしくはここぞとばかりに、言葉をはさみ、その場の論議を(半ば越権行為で)リードしてしまった、という経緯のように見えますが、この一件で、李完用は伊藤博文から「こいつは使える」と目をつけられたようです。

で、この時に成立したのが第二次日韓協約(日韓保護条約/乙巳条約 いっしじょうやく とも言う)でしたが、この時点で、李完用はどういうつもりだったか? という問題について、高麗大学校 韓国史研究所の 金允嬉(キム・ユンヒ)教授 という方が、興味深い見方をネット上に上げておられます。

ただし韓国語のため、Google翻訳を使い、文意が通るように整えた一部分をお目にかけたいと思います。なお文中の(※ )は当ブログの補足です。
 
 
【金允嬉(キム・ユンヒ)教授の論述より】

(※李完用が)1905年に外交主権を放棄する内容の乙巳条約に同意していたのは何故だったのか? 最も一般的に知られているのは、彼の変節である。甲午改革(※日清戦争のさなかに断行された近代化)以前は親米派、露館播遷の時期は親露派、そして1905年以降、親日派に変節したため、彼は日和見主義者という評価がある。
しかし彼の変節は、当時の 高宗の 外交路線の変化と軌を一にする側面が多かった。したがって彼の売国行為を、彼の機会主義(※オポチュニズム、日和見主義)的な性質によって説明するのは難しい。

11月に伊藤博文が高宗に乙巳条約の締結をせまった時、高宗は内閣の代理人(※あの首相・韓圭卨か)にすべてに反対させ、その代理人の反対を口実に、高宗が条約締結を延期させたり、逆提案に持ち込むという対策を立てた。
そして反対できない状況にも備えて、条約文の修正を用意した。高宗は「大韓帝国が富強になれば、貿易協定を撤回する」との条文を入れようとし、李完用は「与える権限を外交権だけに明確に限定しよう」とした。高宗と大臣らの条約文の修正は、反対することができない最後の状況で出すカードであった。

翌日、伊藤は高宗と直接交渉するため、高宗に謁見を求めた。しかし高宗は喉の痛みのため(※という口実で)伊藤の謁見を断りつつ「代理人が私の意をくんで処理せよ」と閣僚を差し向けた。そして高宗と用意した対策(=すべて反対)が失敗に終わると、代理人は前日会議の内容を打ち明け、伊藤はその場で修正案として書きとめた。
このように乙巳条約の締結過程の問題は、最終的な決定権者である高宗が、自分の責任を大臣たちに転嫁したものであり、代理人は状況の論理(※その場の流れ)に埋没して条約を承認したのである。
このような状況は、1907年(※第三次日韓協約)と1910年(※日韓併合=韓国併合条約)にも繰り返し再現された。

日本の大礼服を着た高宗

!……… あああ、やはり。という印象でして、<首相が泣き出してしまう> のも「すべて反対」作戦のうちだったと言うのですから、何をかいわんや、ですが、そんな中にあって、李完用は高宗が全面拒絶に打って出ないのなら、前日会議のとおりに「外交権だけに明確に限定しよう」との防衛ライン(=いわゆる「保護領」の形で当面は生きて行くしかない!との重大な覚悟)を守りきって、現に条約文の結果はそうなったのですから、最低限の役目は果たしたと言えそうです。

ところがこの直後から、泣き出した首相の韓圭卨らは、すぐさま李完用を非難する政治運動を始めていて、小松緑は著書に
「かくて保護条約が締結されることになったのであるが、前軍部大臣 閔泳煥の如きは、李完用以下五人を以て売国奴、誤国賊と呼んで弾劾書を上げ、毒を仰いで憤死し、首相 韓圭卨は世間を憚(はばか)って飽くまで反対した」
と記していて、ここから改めて大韓帝国の政界には分裂や責任転嫁が横行し始めたらしく、それは現在に至るもなお、上記の金教授のような指摘は、李完用「悪漢論」を疑おうとしない(否、戦後は法律的に疑うことが出来ない!)韓国国内で波紋を広げています。
 
 
で、李完用ら五人を「乙巳五賊」と糾弾する運動が広がりをみせると、首相の韓圭卨は 調子を合わせて ボイコット状態になり、1907年に高宗は李完用を首相にしたものの、同年に有名な「ハーグ密使事件」が起き、李完用が事態収拾のため高宗に退位をせまると、李完用の自宅が暴徒らの焼き討ちを受け、さらに1909年には刺客の暴漢に刺され、肺や腎臓に達する重傷を負うも一命をとりとめ、さすがにここで首相の後継を閣僚らに依頼するも、拒否され、やむなく留任して1910年の日韓併合になだれ込む、という嵐のような逆境を突き進みます。

この間、自宅が焼けた際に「この位の事はかねがね覚悟している。古い家が焼ければ、新しい家が作れるが、ただ無益の騒動で、尊い人命を殺傷するのが如何にも残念だ」と語ったそうで (! !) 、どういう心理なのか、やはり奥底が見えて来ないのです。…

(「1907年の義兵闘争」としてウィキペディアにもある有名な写真)

…… 彼等がかまえる 猟銃 は 誰に向けられたのか? 当時の韓国社会のなかで、
自らの政治的要求を通すための「おどし」であったのは明らか。

さて、ではここで、よく話題になる「韓国の義兵闘争」の実態をご紹介しておきますと、駐屯する日本軍に攻撃を仕掛けた、などということはついに一度も起こりませんで、多くの場合は、一進会の会員(もちろん韓国人)を殺害したテロ事件や、義兵を集結させるために村で金品や銃刀・農作物を略奪した事件などであって、高宗は彼らを「匪賊」と非難しましたし、有名な崔益鉉(さい えきげん)による400人余の挙兵というのも、韓鎮昌 率いる現地の鎮衛隊に包囲されると、戦うことなく投降しました。

唯一、大きな騒動になったのは、引退していた国王の側近・閔宗植(びん そうしょく)による洪州城の占拠でしたが、参加した義兵が600~1100人と多かったものの、これも「たてこもり事件」の類いであり、まずは現地警察の力で解決をめざしたところ、半月たってもこう着状態のため、ついに日本軍の歩兵第60連隊の2個中隊で城門を爆破し、5時間で鎮圧。義兵83名が死亡、145人が捕虜、残りは逃走し、閔宗植は半年後に潜伏先で逮捕、という事件でした。

【追記】そして日韓併合の後の「義兵闘争」について申せば、有名な1919年の「三・一運動」など、その実態と戦後の韓国側の主張には大きな開きがあるようで、例えば三・一運動の死傷者数が当日は上海にいた朴殷植の伝聞に基づく点などに顕著で、とにかく歴史的な事実として、上記の事例と同様に「官憲や軍による騒乱の鎮圧」はあっても、「義兵による日本軍への攻撃」といった直接戦闘は、一度たりとも起きなかったことは確かです。

修復された洪州城(忠清南道 洪城郡/三国時代の百済に始まる邑城)

そんな義兵闘争も起きていたものの、韓国民の多くは、反対派に襲撃されても微動だにしない李完用の心理がつかめず、かなり早い段階から、あいつは賄賂(わいろ)で日本に買収されたのだ、というウワサ話に飛びついたようであり、これはなんと2010年、左翼の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が自殺した翌年に、

「亡くなる前年の1925年頃の李完用は、京城(ソウル)最大の現金富豪と呼ばれ、少なくとも300万ウォン(現在の貨幣価値で600億ウォン相当、日本円に換算すれば約43億円相当)以上を保有したことが調査で分かった」

と、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の置き土産のような 親日反民族行為者財産調査委員会 が発表しましたが、この件について前出の金教授は、

「彼は両班(ヤンバン)の品位と道徳を重視し、質素な生活をしていた。私たちが知っている、彼に対する道徳的非難は1905年以来、『梅泉野錄』や『大韓毎日申報』によって誇張されたものが殆どである」

と指摘しています。

14歳当時!と伝わる写真。もう少し幼い時期のようにも見えるが…

ならば、いよいよ、李完用の強固な人格はどこで作られたのか? という核心のテーマに向かいますと、彼は10歳の時、親戚の李镐俊(イ・ホジュン)の養子になりましたが、この人物が政界の大物であり、かつ高宗の実父として国政を牛耳った、かの興宣大院君の友人!でもあったため、それが彼のスピード栄達や、高宗からの信頼を得ることにも、大きく役立ったのでしょう。

そんな風に、若くして大韓帝国の中枢の、ほぼド真ん中に立てた李完用の心理とは、どういうものか――― 前出の金允嬉(キム・ユンヒ)教授は「強いエリート意識」というキーワードから分析していて、これこそ、金教授の指摘の、最も重要なくだりと言えそうです。
 
 
【金教授の論述の続き】

(※第二次日韓協約=乙巳条約の)1905年以降、統監府が鉄道、道路、港湾の建設を始めたことで、土木事業がブームのように起こり、労働力の需要が増加し、賃金が上昇した。日本人が押し寄せると、不動産景気が活性化され、住宅建設ブームも起きた。
そして国民の間には、日本語学習がブームのように起こった。日本人を相手にするビジネス、日本人との協力事業は、新たな富を創り出した。経済をめぐる競争が触発され、社会の中には発展をめざす志向が強く出てきた。投資と協力の拡大が、侵略と抵抗の対立を希釈させたのである。

(中略)
投資と協力こそ多数の国民に利益をもたらす、との確信を支えたのは、「状況判断と決定はこの私がしなければならない」という強いエリート意識だった。李完用は、そんな確信を現実のものに近づける、最も効率的な方法として「併合」を承認したのである。

李完用の売国行為は、彼の個人的な道徳性の問題ではなく、エリート意識にとらわれて侵略と抵抗の空間を独善的に無視する中から始まった。そして自らの確信を具体化するために、状況の論理の中でいちばん効率的な選択をしたのである。
この点において、李完用は、大韓帝国の社会に噴出していた様々な要求とは無縁のエリート主義にとらわれた「政治官僚の非人格的合理性」が、どれほど危険で不幸な状況を招くかを明確に示している。

 
 
!――― と、たいへんに興味深い指摘なのですが、この文章において「日本語学習がブーム」になった社会でも「侵略」はあった、と書くのですから、学者の方々も「侵略」は軍事的な攻撃や占領ではなくて、別の意味で使っている、という点が実に興味を引きますが、とにかく、最大の注目点は、李完用の動機が「道徳性の問題ではなく」「強いエリート意識」が「併合を承認したのである」という一点にありましょう。

そのように “祖国の消滅” までも、独断で承認できてしまえる「エリート意識」というのは、まさに、超人的なスケールとしか言いようがありません。そうであるなら、李完用というのは、

→→ 極度の 儒教社会 が産みおとした モンスター。

という風にも言えるのかもしれませんが、しかし、しかし、これほどの指摘をされた金教授でも、目をそむけている部分が、まだあるように、私なんぞには思えて来ます。

――― それは例えば、伊藤博文を暗殺した安重根(あん じゅうこん)が、実際は、明治天皇の崇拝者であり、自伝である自筆獄中記によれば、暗殺の動機は「上は天皇を欺(あざむ)き、外は列強を欺く」伊藤の「奸策」によって「韓国は必ず滅亡し、東洋もまさに亡びる」からであり、伊藤は明治天皇の理想にそむく者だから暗殺した、という、現在の韓国国民が聞いたら全員、卒倒してしまいそうな歴史の実像でありまして、これと同様に、高宗を朝鮮半島で初の皇帝に押し上げた李完用も、いつの間にか!!… 明治天皇の崇拝者へと「心変わり」?していたのかもしれない、という点なのです。

<<< 二人の共通点はなんと「明治天皇 崇拝者」か…… 安重根と 李完用 >>>



【ご参考】『安重根自伝』国立国会図書館デジタルコレクション/写真は68コマ目


自筆獄中記を日本語に翻訳した筆写本の謄写版印刷による / この頁の二行目は…

現今 所謂 我韓政府ハ 形式上有ルガ如クナルモ
内容ハ則チ 伊藤一個人ノ政府ナリ

そして李完用の心変わりは <高宗への幻滅>!!… が原因であった可能性は大いに考えられそうで、例えば「ハーグ密使事件」を経た「日韓併合」をめぐる辺りの小松緑の記述は、この時にはもう “李完用の高宗への忠誠心は失せていた”  “そのかわりに明治天皇にすがる気持ちが芽生えていた” と仮定して読むと、いちいち腑(ふ)に落ちる感じがするのです。
 
 
【前出の小松緑の著書より】

(※伊藤暗殺の翌年1910年に)寺内統監が、八月十六日に、初めて李完用に併合条約案と併合後に於ける韓国の皇室、大臣以下諸官僚の措置 及び将来の施政方針とを併せて示された時に、李完用は、それを一覧し、

「この御提案は、方今内外の形勢に鑑み、日本の立場として、如何にも已むを得ざる方策なるべく、又その措置も至れり尽せりと思はれるが、念のため伺いたいことは、当方の希望を申出づるに当り、改定の余裕を存せらるるや否やである」

と尋ねた。寺内統監は之に答へて、
「至当の御希望であれば、素より歓んで容認するに躊躇しない。しかし優遇、恩賜等の点に至っては、最善の考慮を尽したもので、少しも俗にいわゆる掛値のないことを予め言明しておく」
といはれたので、李完用は、さもありなんと思った容子で、

「然らば、自分は貴国皇室の叡慮(えいりょ)に満腔の信頼を置いて、大体に於て承諾の意を表する。ただ御提案の韓帝を大公と称する代りに、旧例に依り王と称し、又韓国を朝鮮といふ旧称に改める二事だけを御承諾願いたい」
と言ひ出しただけで、その外には何等の注文をも提出せず、一切を天皇陛下の聖旨と、統監閣下の寛量とに任せると附け加へた」

 
 
……… というのですから、十中八九、首相になった途端に発覚した「ハーグ密使事件」が、いかにも痛恨の出来事であり、それは李完用の心の底で、高宗に対する忠誠心をぐらつかせ、幻滅に近い感情を生んだのではなかったでしょうか。

何故なら「ハーグ密使事件」とは、高宗がオランダのハーグで行なわれた万国平和会議に3人の密使を送り、第二次日韓協約で日本に奪われた外交権の回復を列強諸国に訴えようとした事件ですが、これは前述のごとく「外交権に限定して引き渡すべく」行動した李完用を(裏側で)完全に否定したことになるからです。

伊藤博文の強硬な抗議もあり、もはや政治的な落としどころは、高宗に退位してもらう以外に手は無い、となれば、自分がそれを進めるしかないのですから、結局、(朝鮮半島で初の皇帝… という風に自分が焚きつけてしまった)高宗に退位をせまる時、“稀代の策士” は精神的に自死していたのかもしれない、と感じられますし、したがって「韓国を朝鮮といふ旧称に改める」というのは、まさに、自らの画策で誕生した「大韓帝国」は、ここで葬(ほうむ)っておきたい、との意味だったのではないでしょうか。!!……

最後に少しだけ付け加えますと、李完用が生涯、一言たりとも日本語を話さなかったのは、たどたどしい言語を使いたくない、という「エリート」の矜持(きょうじ)なのでしょうが、

「75年後には日本に李姓の総理大臣が出るだろう」

といった発言は、早々に <敗者の戦略に舵を切っていた> 李完用ならではの 独白だったのでしょう。
 

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