天守は「上げる」ものと念押しされた意義。ならば犬山城は天守を「上げ直した」城だったのか

【前回もふり返った「天守のいちばん原初的なイメージ」より】

木子家棟梁の解釈にしたがうと、天守は本来的には
<城の最頂点に位置した望楼部分> だけを
「天守」と呼んだ時期もあるのか?


……… 思えば10年ほど前の何年間かでしたが、日本城郭史学会のセミナーに参加していたおりに、代表の西ヶ谷恭弘先生が「天守というのは、当時は “建てる” とは言わずに “上げる” と言っていたのでご注意を」と、あるセミナーの冒頭で サラッとおっしゃいました。

それを聞いた時、思わず私は「アッ」と心の中で叫んだのですが、それはすでに当ブログがある程度のアクセス数をいただいていた時期でもあり、当ブログの名称を先生がご承知のうえで そうおっしゃったのか 確認できなかったものの、私自身の気持ちとしては「ああ、西ヶ谷先生に釘をさされてしまった…」と、大いに感じ入ったものでした。(※結局、名称は変えずじまいでしたが)

そして今、前回記事のとおりに、木子家棟梁の「てんしゅ」解釈(=「殿主」と「天守」が上下に合体したもの)にしたがうなら、天守とは本来的には <城の最頂点に位置した望楼部分> だけを呼んだ時期もあったのかと考えざるをえないのでしょうし、そうなるとまさに…

<天守は「上げる」もの>

と念押しされた西ヶ谷先生の言葉が、改めて 意義深く思い返され、そこからまた、新たな探求が始まる可能性もありそうです。

<「天空」を「守る」新種の望楼としての「天守」?>
萌芽期の天守は、主殿の上方の天(天上天下=この世の治世)を守護したのか…

(※写真は犬山城 / 東側の成田山名古屋別院大聖寺から)

で、そのような観点から例えば <御主殿に天守を上げる> とか <城に天守を上げる> といった言い方が、一つの定型句として、織豊大名らの間で使われた時期があったとしますと、ちょっと問題になりそうなのが、各地にいくつか存在した「二重天守」だったのではないでしょうか?

何故なら「二重天守」というのは、例えば越前大野城、鳥取城、備中松山城など、いかにも “二重櫓然”とした造りのものは、どう見ても「望楼部分が無い」としか見えないからです。

鳥取城の古絵図に描かれた久松山山頂の二重天守Wikiwandより)




越前大野城の二重三階の大天守など

ご覧のような二重天守をどう考えたらいいのか、あれこれ推測してみますと…

・「天守」と合体する前の「殿主」が山頂にあって、それがそのまま残存して二重天守になったのか、
・もしくは、望楼に見えづらいものの、やはり二重目が望楼(萌芽期の天守)の役割を “代用” したのか、

という風に、ちょっとよく分からないものの、これらはかなり高い山頂にあったのですから、そのままでも「天守を上げた」ことになったのでしょうか。
 
 
しかし最も大事なことは、そうした二重天守も、しっかりと「天守」として通用していたという事実であって、言うなれば(望楼が無くとも)主殿の上方の天=天上天下=この世の治世 はちゃんと守護したことになったのでしょうし、ちなみにこれらの城は、その二重天守が出来てからは(幕末を除けば)どの城も「落城」はしておりません。

ですから各々が “天空を守りきった” とも言えそうですが、その意味において、大変に異例な存在 と申し上げるべきは「犬山城天守」でしょう。

(天守南面)

 
 
<三度の「落城」を経た犬山城は、
 二重天守に三重目を増築するという形で、
 天空(治世)を守る天守を「上げ直した」城だったのか…>

 
 

8年前の当ブログ記事より)
慶長年間の、三重目が無かった「犬山城二重天守」を推定復元

(※木曽川対岸の北西側から / ただし手前の千貫櫓は描写を省略)

さて、ご覧のイラストは、犬山城天守がかつては二重天守だった可能性を、現存天守の解体時の調査報告書を参照しながら再現して描いたものですが、城郭ファンの皆様はご承知のとおり、いつごろご覧の二重天守が築かれて三重目が増築されたのか? といった「時期」や「誰が」「どういう意図で」等々の問題では、先生方の意見が大きく分かれて来ました。

(※ちなみにこの件に関連して、天守の部材を 年輪年代測定法や 放射性炭素年代測定法で調査する話が出ていたはずで、それがあれば創建年代の判明に大きく近づくこと間違い無しでしょうが、今回の記事はひとまず「天守を上げる」論だけで申し上げてまいります…)

先生方の意見は大きく「二つの説」に分かれるようで、ここでは仮に「天文説」「慶長説」と呼ばせていただくと、初重と二重目(二重天守/=殿主?)が築かれたのがかなり早い天文6年1537年の織田信康(織田信長の叔父)の築城時だとする「天文説」と、その反対にずっと遅い(関ヶ原合戦後の)慶長6年1601年だとする「慶長説」の二つであり、どちらも決め手の証拠を欠いて、決着がつかずにいます。
 
 
そんな中で、当ブログの「天守を上げる」論から余計な ちゃちゃを入れさせていただきますと、「誰が」「どういう意図で」三重目を上げたのかを重視するなら、やはり三度にわたる「落城」が、切っても切れない関係性を持っていたように感じられてなりません。

そこで三度の「落城」について、簡単に確認しておきますと…
 
 
【一度目の落城】
永禄8年(1565年)に二代目城主・織田信清(築城者の信康の子)が、尾張統一をめざす織田信長に攻囲されて開城(=落城)。

【二度目の落城】
天正12年(1584年)の小牧・長久手戦の緒戦、織田信雄方のはずの池田恒興が突如、羽柴方に寝返って当城を占拠(=落城)。しかし戦後に羽柴秀吉は当城を織田信雄に返還した。

【三度目の落城】
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の前哨戦、攻め寄せた東軍の調略によって、城主の石川貞清など籠城の西軍諸将は当城を明け渡した(=落城)。戦後は松平忠吉(清洲藩主)の家老・小笠原吉次が入城。

 
 
といった “落城歴” があったわけですが、これらと、先ほどの「天文説」「慶長説」の主な出来事を組み合わせて、時系列順に整理してみれば…
 
 
<<天文説>>
・天文6年の織田信康の築城とともに初重と二重目(=殿主?)を建造
・【一度目の落城】永禄8年の尾張統一戦で
・【二度目の落城】天正12年の小牧・長久手戦で
・【三度目の落城】慶長5年の関ヶ原合戦で
・慶長6年に松平家重臣の小笠原吉次が三重目(新たな望楼)を増築
・元和6年に尾張徳川家重臣の成瀬正成が唐破風を付加

 
 
<<慶長説>>
・…… 織田家の城であった時代の(三光寺山での)天守の有無は不明 ……
・【一度目の落城】永禄8年の尾張統一戦で
・【二度目の落城】天正12年の小牧・長久手戦で
・【三度目の落城】慶長5年の関ヶ原合戦で
・慶長6年に松平家重臣の小笠原吉次が(本丸自体や天守台と)初重・二重目を築造
・元和6年に尾張徳川家重臣の成瀬正成が三重目(新たな望楼)を増築
・寛永2年(1625年)以降に正成の子・成瀬正虎が唐破風を付加

 
 
という風になりまして、慶長説は(※日本建築史の重鎮だった西和夫先生が言い出したもので)現在ある犬山城のほぼ全てが関ヶ原合戦後にバタバタと造られた想定なのですが、例えば鳥取城の二重天守が出来たのも慶長6年(関ヶ原合戦後に入城した池田長吉による)と言いますから、この慶長説の二重天守の完成時期も 決して遅くはないのかもしれません。

――― ですが、あえて今回記事の「天守を上げる」論だけで申せば、慶長説の成瀬正成の三重目(新たな望楼)の増築というのも、これまた、すごいインパクトを放つことになったのではないでしょうか。 なぜなら…
 

<「天空」を「守る」新種の望楼としての「天守」?…… >

尾張徳川家の附家老でもあった成瀬正成が、この時点で、こうまでしただろうか?… という気がしないでもありませんで、とりわけ正成は駿府の大御所家康の近くでも活躍した人ですから、徳川御三家の附家老という小難しい役目は(前々任者の小笠原吉次のように)通過儀礼として早めに離任できたらと思う方が自然で、犬山の地に骨をうずめて 子々孫々 根をはる覚悟が、この時点であったのだろうか… と。

それよりは、犬山城の歴史にとって最大のターニングポイントは、関ヶ原合戦の慶長5年であり、それまでは言わば織田家の城(→ 直線的城道など織田家の築城術による城)で、以後が松平・徳川系の城に変わったという 明快な色分けが出来ましょうし、そんな歴史的な節目に立ち会った形の小笠原吉次の方こそ、「落城」続きの天守に「三重目を上げた」人物としては、ふさわしいように感じられてならないのです。

それはきっと <<もう落城はさせない>> との固い決意表明だったのであり、結局のところ、創建年代の問題では「天文説」の方が、「天守を上げる」本来の意図にはかなった発想と言えるのではないでしょうか。

かくして犬山城天守が、わざわざ三重目を追加で「上げた」意図とは、建物の単なる見栄えの問題ではなくて、言わば天守を「上げ直した」という、極めて重大な意味合いが込められた増築工事だったのではないか… という風にも思えて来たのです。
 
 
追 記 )
ここで申し上げている想定は、上記の8年前の記事のごとく、関ヶ原合戦前の犬山城というのは、例えば現本丸に詰ノ丸?=秀吉本陣建物や針綱神社があり、三光寺山に本城(=城主居館)があるといった状態を想定していて、これは「慶長説」の西和夫先生の論点(PDF「犬山城天守の創建年代について」)に対しても、特に「本城」という言葉のとらえ方において、全く矛盾しておりません。

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