木子家指図の最大の衝撃――「てんしゅ」は「殿主」と「天守」が上下に合体したもの、との解釈が実在していた

前回に引用の二条城天守の絵図(木子文庫「京二条御城三拾分一之指図」)は、都立中央図書館の画像 でご確認いただけるものですし、木子家と言えば禁裏大工として知られた棟梁の家系でしたが、前回の引用のままですと、この絵図の正体は何だったのか? という肝心のポイントがあいまいでしたので、まずはそこを(※公開画像を部分的に引用する形で)補足させて下さい。

【補足の図解】 話題の木子家指図は
「破風の改築案」を本来の天守指図に書き入れたもの!?

→ → 例えば指図じたいの平側の破風の「描き方」としては、
上が千鳥破風、中が唐破風(向唐破風)、下がまた千鳥破風なのに…

この不思議な状態はTm.さんのツィッターなどですでにご承知の方も多いかもしれませんが、ご覧のごとく木子家指図の平側には、指図じたいの描き方とは一致しない “ナゾの墨書” が書き込まれていまして、それは上から「唐破風」「切妻」「桁行切妻貳(ふた)つ」などと書かれているのです。

これは何故だろうか、と原因を推測してみますと、指図左下の「寛永五年」との墨書を重視するなら、もうすでに天守の完成から2年以上が経過していて、しかも “ナゾの墨書” は江戸中期の修理記録の破風と類似するものですから、結局のところ、これは 本来の天守指図の写しに <破風の改築案> を墨書で書き入れたもの… と解釈するのが、いちばん妥当な見方になるのではないでしょうか。

もしここに「寛永五年」と書かれてなければ、寛永の再建時の計画変更に関わる指図とも取れましょうが(ましてや2年もたってから訂正の墨書だけをご丁寧に書き入れたとも考えにくく…)やはり破風の描き方が、問題のナゾの墨書を完全に外して見た場合は、中井家蔵の「建地割図」とかなり合致するのですから、これこそが寛永の再建時の本来の姿に近いものであって、結果的に、中井家図の信ぴょう性がまた高まったようにも感じます。

――― で、そうした木子家指図の <<<最大の注目点>>> と申せば、何をおいても、以下の部分に他ならないのではないかと、私なんぞは 震撼(しんかん)して 震(ふる)えが止まらない感がいたします。…



(右上の墨書の拡大)

これは「驚愕の」「衝撃の」といった形容詞で申し上げるべき記述であって、とりもなおさず 木子家の棟梁が「天守」という建物を どう捉(とら)えていたか を物語る有力な物証でしょうし、天守の解明において、これほどインパクトのある墨書も無かったように思われまして……
 
 
 
<木子家指図の最大の衝撃――「てんしゅ」は
 「殿主」と「天守」が上下に合体したもの、との解釈が実在していた>

 
 
 
上記写真で引用した部分には、なんと…

「京二条御城 三拾分一之指図
 御殿主 桁行拾二間 但七尺ま
     梁行九間 但七尺ま
 同天守 高さ拾九間三尺五寸  
     但石掛上自棟瓦まで  石掛高さ ………」

という風に「御殿主」と「同天守」が、同列の条目として 書かれているのです。

(※冒頭で木子家は禁裏大工と申しましたが、徳川幕府が内裏の造営を行なった際には、幕府大工の中井家の配下となるも、棟梁の木子播磨が 公家らの要望をくみ取って 中井家の図面にチェックを入れたり、書き直しまで行なった!という存在のようですから、めったなことを書き入れる人々とは思えません…)

そこで条目の委細を見れば「御殿主」の方は、明らかに天守台上の地階(一階)と付櫓(「附天守」=京間で二間半×八間半)を足した七尺間の <広さ> の数値でしょうし、また「同天守」の方は、天守台石垣(石掛)上端から最上階の棟瓦までの <高さ> の数値である、という明快なコントラストを示しています。

――― ならば「殿主」とは天守台上の <広さ> であり、「天守」とは天守台上の <高さ> のことだったのか!…となると、衝撃度が極限に達してしまいますので、ここは少し解釈を加えて、「殿主」とは天守台上の「初重」のことであり、そこから上の「望楼」部分を「天守」と言いたかったのだろう、という風に、いささか柔らかく受け止めますと、まだ理解がしやすいのではないでしょうか。
 
 
と申しますのも、これと良く似た状況は、過去の当ブログ記事でもご紹介したことがあるからです。
 

 
(松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』より/「副管区長が大坂に関白を訪れた時の(関白の)歓待と恩恵について」)

その後 関白は、主城(天守閣)および財宝を貯蔵してある塔(トルレ)の門と窓を急ぎ開くように命じた。彼自ら城内を案内することになっていたが…
 
 
という風に、フロイスらの大坂城訪問では、彼らが「関白」豊臣秀吉の案内で登った天守については、「主城」と「塔(トルレ)」に 上下に二分割する形で、それぞれを別物として記録しました。

記録文のとおりに「財宝を貯蔵してある塔(トルレ)」を信じるなら、下記イラストのごとく、5階「御宝物の間」=二重目の屋根裏階から上が「塔(トルレ)」に該当したのでしょう。


(※青文字=『輝元公上洛日記』より / 赤文字=『大友家文書録』より)

このようなフロイスの受けとめ方は、まさに「衝撃の」木子家棟梁の解釈と合い通じるのではないでしょうか?

そして一方、従来の諸先生方の指摘では、天守は歴史的に「殿主」「殿守」「天主」と色々に表記されて来たものの、それらは 時期や大名自身の意識・思想など 何らかの理由で取捨選択された表記なのだろう、との考え方が一般的でした。 例えば…

(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年刊より)

天主とはいったい何なのか、という問いに明確に答えられる人は少ないであろう。安土以前では、すでに信長関係で長浜城や坂本城、それ以外では松永久秀が天主とおぼしき建物を建造している。
語源的には「主殿」
「殿主」「天主」「天守」「天守閣」と変遷していったという理解がされている。字のとおり、機能的にはもともとは主の住まいとして成立したものが、しだいに政治の場にうつり、最後は城主や治世のシンボルとしてうつりかわっていったという理解である。
 
 
との考え方が通説化しているものの、今回のようになりますと、「てんしゅ」は「殿主」とも「天守」とも書いたのではなくて、歴史的に「殿主」と「天守」が上下に合体することから「てんしゅ」が(※さながら語呂合わせのように)最初の概念が生まれていたのかもしれません。

これは奇(く)しくも、前々回で「反論」した西股総生先生の発想(→「てんしゅ」という音が先にうまれ…)に近い形になるのですが、その後、合体した「てんしゅ」を漢字でどう伝えるかは、どの漢字二文字も間違いではないため、各人各様の判断や好みのままに表記されたのだ… と考えることも出来そうです。

【補足】『精選版 日本国語大辞典』より
「主殿(しゅでん)」→ 用例:義経記(室町中か)八「兼房は楯を後にあてて、しゅでんの垂木に取りつきて」
「御主殿(ごしゅでん)」→ 用例:鎌倉殿中以下年中行事(1454か)一二月一日「御主殿は南向御座。九間六間是は御家中也」

しかし ご覧の墨書の「御殿主」はいわゆる「御主殿」がなまって出来た呼び名、という風に考えやすいものでしょうが、「同天守」の「天守」の方は、織豊期にまったく新たに生み出された漢字二文字としか考えられませんので…

8年前の記事の「天守のいちばん原初的なイメージ」より】

木子家棟梁の解釈にしたがうならば、天守とは本来的には、
<城の最頂点に位置した望楼部分> だけを
「天守」と呼んだ時期もあるのか!?…


―――― と、まことに興味深い話になりそうでして、「天守」二文字とは「天空」を「守る」新種の望楼を意味していた時期もあったと仮定しますと、そんな大空間を純粋な軍事的要求で防御することは(当時は)絶対にありえなかったでしょうし、そうであっても 新たな呼び名をつけたほどなのですから、「天守」二文字に凝縮された “原点” の語意というのは、

<<<主殿の上方の天(天上天下=この世の治世)を守護するための高楼>>>

といった、やや哲学的な(!)ニュアンスであったように思えて来るのです。
 

【最後の蛇足】ためしに、主殿とその上空を見上げてみる……

(※写真は園城寺の勧学院客殿=慶長5年再建を例に)

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