(→ BBC report)
Boycott of the Beijing Winter Olympics. Hu Jintao was able to hold the Olympic Games, but Xi Jinping can not properly the Olympic Games. This will make the Chinese people keenly aware that China is heading for a bad future.
北京冬季オリンピックのボイコット。それは、胡錦濤(こ きんとう)前主席はオリンピックを開催できたが、習近平はオリンピックをまともに開けない、という「中国が悪い未来に向かっていること」を 中国国民に 痛感させるでしょう。
【冒頭余談 / 写真は2008年の北京オリンピック開会式より】
おぞましい数のクローンのごとき「孔子の弟子」3000人が、この時すでに…… これに日本人デザイナーの石岡瑛子氏(=故人)が関わった記録が残る、といった「歴史の愚」を絶対にくり返してはならないはず。 たとえ北京冬季五輪でメダルを獲得できても、それは ナチスのベルリン五輪(=全体主義の祭典)でのメダルと同様に 欧米の人々に記憶される危険性を、選手各位(スポンサー各位)は「覚悟」すべき情勢でしょう。
いま欧米でオリンピックと言えば「北京ボイコット」が話題の中心なのに、日本国内でそうなっていないのは、東京五輪の開催方法や森発言の話題で埋め尽くして、「日本をボイコット陣営から引きはがそう」とする工作が 我が国の各方面で行なわれている 真っ最中 なのでしょうか。その犠牲(ぎせい)になるのは、選手自身やスポンサーなのに。
――― で、こんな所で申し上げるのも何ですが、「個」の技能 を高めることで生きぬいた武士(サムライ)の規範や価値観こそ、現在の「日本」を創り上げるに至った最大の原動力だろうと、当ブログは考えます。武士と天下人が主導した当時の社会は、あくまでも「分権統治」の世の中でした。
(前々回からの続きとして、天守内部の明るさ の件を―――)
萌芽期の天守は「天空」を「守る」新種の望楼だった? などと申せば、
さぞかし展望の効く 見晴らしの良い望楼であったか、と思いきや……
明らかに 軍事的な司令塔や監視塔ではなかった、犬山城天守の三重目。
→ → 言わば「統治」のための政治的な「見せかけ」監視塔だった…
(※「天文説」を唱えた城戸久先生の著書『名古屋城と天守建築』より)
天守に華頭窓を用いた例は、他にも彦根城や、姫路城乾小天守に見られるが、それらは採光窓となっているのに対し、犬山城ではいわゆる 盲窓 となっており、採光のためではなく、ただ外観上だけの、装飾的なものになっているちがいがある。
(中略)
そのため最上階は、南面、北面の出入口以外は、採光がないことになる。外縁は城主の展望に供する場所であって、その際は当然 出入口は開けられることになるから、あえて採光窓は必要ないからであろう。
(三重目=天守台上四階の内部 南面)
(同 北面 …「窓」は無く、両開きの桟唐戸から見えるのは木曽川対岸の町並み)
上記の引用文は、初出が昭和12年!という城戸先生の論文からのもので、すでに犬山城天守の三重目はこんな風に説明されていて、写真でもご覧のように、ここは明らかに軍事的な司令塔や監視塔ではなかった(※桟唐戸を開けないと真っ暗闇では機能的に無理…)と断言して良い場所でしょう。
そして前回記事の文脈に沿って申せば、関ヶ原合戦後の情勢下で、こういうものをわざわざ「上げ直した」動機に対して、非常に強い興味をおぼえるわけですが(※そこはやはり「復古調」も兼ねて?)それを考えていく上では、もう一つ、対照的な場所を連想せずにはいられません。
同じ「望楼型」と言われる松江城天守の最上階は、
廻縁が室内に取り込まれた形になっていて、
遣戸(雨戸)を開け放てば、室内なのに 日本一の開放感!!
ご覧のような両極端の明るさは、これまではあまり話題にも上がらなかったものの、例の木子家棟梁の「てんしゅ」解釈(=「殿主」の上に「天守」を合体させたもの)を踏まえますと、これらは、ひょっとすると、建築構想のかなり大きな違いを背景にしていたのかもしれません。
すなわち、「てんしゅ」が初重の「殿主」とその上の「天守」が合体しただけの状態から、やがて建物の一体化が進んで、犬山城天守のように “初重近くの階が明るければいい” といった状態を脱して、今度は反対に “最上階内部をいちばん明るくすべきである” との構想にうつり変わった?… という風にも考えられそうだからです。
< 建物の上下が反転 したかのような、真逆の建築構想 >
――― 今回の記事では、このような「明るさの逆転」とは、どこで、どのあたりの天守で起きたのか? という点に注目してみたいのですが、まずは「逆転」以前の <最上階が真っ暗闇> という造り方の原点は? とアレコレ類推してみますと、私なんぞは当ブログの過去の記事から、これをまた申し上げざるをえないのです…
当サイトの安土城天主イラスト(→ 静嘉堂文庫蔵『天守指図』の新解釈による)
【二重目=天守台上一階】
拍子抜けするほど開放的で、実務や日常生活に適したのはこの階だけ!?
(→ 南西側=右上の一角は、公式の「対面の場」としても使えた部屋か)
【三重目】
一転してこの階では薄暗い中で「内々の対面」が演出されたか
【五重目】
真っ暗闇の「無」の空間か? 自然光は殆ど入らなかったはず
【七重目=最上階】
高欄廻縁に出る桟唐戸などは無く、見せかけの欄干がめぐっていた?
“我田引水” もはなはだしくて恐縮ですが、織田信長の安土城天主の各階内部の明るさについては、いまだにこういう風に考えておりまして、ところが奇(く)しくも、この件が今になって、木子家棟梁の「てんしゅ」解釈とつながっている!?可能性に、我ながら驚いている次第です。…
(※写真は 都合により サイト「タイ(バンコク)での生活情報」様からの引用です)
そしてご覧の写真は、ずっと注目して来ました 松岡利郎先生の安土城天主の復元模型(熱海城で展示)ですが、これを改めて写真で見直しても、やはり最上階は、あまり開放的ではなかったはず、と言えそうでして、そのことは 記録にある「三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢」の障壁画が「三間四方」の「御座敷」内側をめぐっていた、というスペース的な制約からも、当然の見方と申せましょう。
一方、この天主の天主台上一階(二重目)は、やはり『信長公記』等の記録で、最も数多くの部屋が並んでいた(→ ガランとした薄暗い倉庫風ではなかった)わけですから、そうした造り方は、まさに犬山城天守と同じ <最上階は真っ暗闇でいい> という姿に近く、木子家棟梁が書き残した「殿主」と「天守」が上下に合体した「てんしゅ」構想そのもの、と申し上げてもいいのではないでしょうか。
では、そのような構想に信長が至った背景(動機)について、話を進めてまいりますと…
ご承知のように足利義政の東山殿(現 慈照寺)には、「殿主」のもとになったという「主殿」建築が、対面の場などを含む 常御所 として建てられ、そうした姿が各地の戦国大名の城館で模倣(もほう)されました。
そこで私の勝手な想像なのですが、やはり「主殿」(御主殿)というのは足利将軍邸のイメージを濃厚にまとっていて、しかも足利義輝など歴代の将軍が有力大名の手にかかる時代とあっては、とりわけ織豊大名(=貴種の生まれでない下克上の大名ら)にとって、それは模倣しつつも、いずれは “乗り越えるべき対象” と見えていたのではなかったでしょうか?
いつしか彼らの頭の中において、「主殿」の上にそびえ立つ望楼「てんしゅ」を夢想することが始まり、まもなく、現実の構築物として仕立て上げられたのだ… との見立ても十分に可能でしょう。 現にそんな考え方は―――
ご覧の本は平成18年のシンポジウム「信長の城・秀吉の城」の講演を採録したもので、木戸雅寿先生の「天主から天守へ」は当ブログで何度も引用させていただいた部分ですが、その中で、木戸先生は「殿主」「殿守」「天主」などと色々に書かれた「天守」は、萌芽期には表記が同じ場合であっても、似た建物だとは絶対に言えないと強調された上で…
(上記書「天主から天守へ」より)
安土城の天主にも「殿主」という言葉が使われているということは先にも説明したわけですが、本来、この「殿」というのは、建物を示します。本来は「殿主」ではなく、その逆で「主殿」なのです。
(中略)
この殿が、いずれのころからか建物よりも、その建物の住人、所有者に重きを置くようになるのではないかと考えています。つまり主(あるじ)の建物だというふうに転化していくのではないかと私は考えます。「主殿」→「殿主」→「天主」という風に。
そういうふうな性格のある建物でも、特に戦国時代 永禄頃から、天下を目指す武将の居住空間を「天主」と 呼ぶようになった。そうしようと誰が提唱したのかはわかっていませんが、きっと始めた人がいるはずだと思います。
という風に、木戸先生はハッキリと、信長の「天主」は「殿」をベースにした建築物であり、なおかつ「天下を目指す武将の居住空間」がそう呼ばれたのだろうと、かなり大胆な推理をめぐらせておられるのですが、この発言を踏まえて、当ブログで申し上げている木子家棟梁の解釈(「殿主」の上に「天守」を合体…)を加味しますと、もう、信長が「てんしゅ」を「天主」と書きたくなった動機が、ありありと見えるのではないでしょうか。
それはまさに <<御主殿=足利将軍邸を乗り越える>> という願望が、黒々とにじみ出た、超太字の漢字二文字「天主」であったのでしょう。
で、実際の建物がどうなったかと言えば、安土城天主の場合、「殿主」上の数階分をどう使うかの具体策は(おそらくは)後回しで、とにかく上へと高く築き上げて、内部空間をうめる障壁画の「画題」の方が先決事項になってしまった、というほどの「必死さ」が伝わって来るのです。
そんな「必死さ」の背後にあったのは、もちろん「足利義昭の追放」という天下をゆるがす処断だったのでしょうし、もう信長には「天下を目指す武将の居住空間」の極地(=究極の造形)を創り上げる以外に、道は無かったのだろうと。
ですから、これは今のところ何の証拠も無い「類推」に過ぎませんが……
では、そんな熱情の造形(「殿主」の上にやや無造作な高層建築…)がいつごろ図の右側の「天守」へと変わったのか? という話にもどりますと、木戸先生は先程の本で「秀吉を境にして「天主」は「天守」へと変わっていく」とおっしゃっていて、天正11年以降は豊臣政権が表記を「天守」に限定したらしい、とのことです。
であるなら、「明るさの逆転」も秀吉の時代から、とするのが至極当然のことでしょう。
…… しかし、これも私の勝手な想像なのですが、ひょっとすると「明るさの逆転」はもっと早くに始まっていて、例えば「京都周辺の」「平城の」天主で始まっていたのかも… という気がしないでもありませんで、それと申しますのも、京都周辺というのは、地形や町並みの条件から、最上階の眺望を重視する素地がふんだんにあったように感じるからでありまして…
【ひとつのヒントになるのか、どうか…】
琵琶湖畔の平城で、かの織田信澄(=明智光秀が舅)の居城
「大溝城」には、織田家中で最大の? 隅石を使った天守台跡がある
この城の天守台跡を現地で見た時は、織田家の城の天主台としては「最大の」隅石か?と驚きましたし、ちょっと不思議な感じもしていて、一見したところ石垣に「転用石」が見当たらなかった(→ 石がすべて丸っこい石で、転用石は組み込めそうになかった)印象もあり、隠れた事情を色々と含んだ天守台のように感じました。
< 対照的な天守台:大溝城の大ぶりな丸い隅石と、福知山城の転用石 >
!!… こうして並べてみますと実に意外なことに、織田信澄と明智光秀の城でありながら(※大溝城も光秀が縄張りや普請の監督をしたと伝わるのに)非常に対照的な仕上げになっていまして、その理由としては、織田家の序列五位という信澄の城であったこともありましょうが、それにも増して、湖畔の平城の大溝城は、天守台を多くの人々に より間近から じっと見られる可能性が高かったからではないでしょうか。
(※ちなみに右写真の「転用石」が逆様や横倒しで積まれたのは、おそらくは <<普通の石に「戻す」という意味の呪(まじな)い>> であって、特に深い意味は無かった? のではないかと。→ つまりは明智光秀による福知山城の石垣の仕上げの方が「格下」に当たるのだと、私には感じられてならないのですが、いかがでしょう)
――― といった観点から想像をふくらませますと、京都周辺の、琵琶湖畔という絶好の眺望の地の平城であった大溝城もまた「明るさ逆転の天守」の始まりの可能性は大いにありそうで、近年、ここでは本丸の範囲を確認する調査がありましたが、天守台そのものも、是非とも綿密な調査をお願いしたいところなのです。…
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。