法隆寺五重塔の五重目も二間四方――法隆寺大工の中井正吉?が秀吉の天守に「奇数の柱」を持ち込んだか

ロシア外相ラブロフの度重なる暴言や無礼に、その場で反論できず、
ひたすら平静を装った岸田外相(2016年当時)。
<< ここ一番という時にケンカが出来ない人>>岸田文雄さんでは
実に、あやうい … …。

こんな方が次期総理になったら、残念ながら中国・ロシアは声を殺して大笑いでしょうし、それに呼応する国内の左派は「護憲総理、乾杯」を叫ぶのでは ! ? ――(こんな状況こそ中国の長年の思惑どおりか…)
ともかく岸田さんの<<ケンカの出来なさ>>は、現下の米中対立の国際情勢では、アメリカからの必死の横槍 ! ! さえ、ありうるレベルかも。 それは時が時だけに、「戦う」と言った翌日に逃げ出したアフガニスタンのガニ大統領とも比べられて、日本の姿勢が大いに誤解されるのでは。

(→ 日本人はあえて、ケンカの出来ない総理を選んだ、と…)

で、岸田さんも決してコロナ対策の 妙案 (アイデア) は無いのでしょうし、より強硬な対策が求められる最中で、どうしてこういう協調主義的な総理に変えるのか、話が支離滅裂 (しりめつれつ) だと思われませんか?
 
もっとハッキリ申せば、自民党の若手議員は、自分らの「議席」のために、われわれ日本人の未来を“どぶ”に捨てようとしているのではないのか、と――――

「なぞの手帳」で煙(けむ)に巻いた出馬会見。
どこか「結婚詐欺師」的な……においも感じたのですが。

【9月8日追記】 と、まあ、日本のリーダーは一気に若返りが起きそうですが、出馬会見での安保・経済政策の打ち出し方から、「事実上の第三次安倍政権」 と世界が見なすだろう 高市総理誕生(日本初の女性首相)はあるのか? に私の興味が移っていることを心の内で押さえられません……

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<法隆寺五重塔の五重目も「二間四方」―― >

この写真が非常に分かり易いため、是非とも引用させて下さい…
<<竹中大工道具館に展示の「 法隆寺五重塔 1/20模型」>>

(※日本能率協会HPの梶文彦「ニッポンものづくり紀行」様からの引用です)

世界最古の木造五重塔として前回ブログでも触れましたが、ご覧の1/20模型は、引用したサイトの説明によりますと、有名な小川三夫棟梁が、師匠で昭和の大修理にも携わった西岡常一棟梁の実測図をもとに、仲間と三年をかけて作ったものだそうでして、もちろん正確さは部品の一つ一つまで寸分たがわない、とのことですから――― それだけに、私なんぞは、五重目の柱間の(=柱の) が気になって、気になって仕方がありません。

当サイトによる豊臣秀吉時代の大坂城天守の推定復元イラスト

と申しますのも、秀吉の大坂城天守に関しては、いくつかの絵画史料がそろって最上階を「柱間二間(二間四方)」として描いたため、当サイトはそれらに忠実にイラスト化を行ないました。

で、そんな天守を実際に建てた大工棟梁は誰か?と申しますと、かつて宮上茂隆先生が法隆寺大工の中井正吉(まさよし/幕府御大工・中井正清の父)であろうと推定したこともあって、まことに妙な連環(法隆寺五重塔 → 柱間二間 → 秀吉の大坂城天守)が気になって来たのです。

ちなみに、いま日本国内に建つ木造五重塔で、五重目が(「柱間二間」など)柱間が三つの「三間」でない五重塔というのは、この法隆寺や各地の八角塔などの他には皆無(!)だそうでして、ためしにネット上(「日本の塔婆」様など)にある立面図や断面図から、五重目の辺りを抜き出して並べてみますと…

例えば明治以前に建立(再建)の主な五重塔は
 室生寺(平安初期)        醍醐寺(平安中期)

海住山寺(鎌倉時代)        明王院(南北朝時代)

  瑠璃光寺(室町時代)      教王護国寺(東寺/江戸初期)

  谷中感応寺(江戸中期)       日光東照宮(江戸後期)
(※ご注意 / 各塔は見比べ易さを優先して、大きさの比率はバラバラです)

と、いずれの五重塔も五重目の柱間の数は三つ(三間)であり、法隆寺がいかに異例なのかお分かりいただけましょうが、これは古代の「飛鳥(あすか)様式」の踏襲だからだそうで、塔の逓減(ていげん)率を大きくして“頭を軽く”するために、構造的には不利になる(→ 二間の中央の柱どうしに梁を渡すことは心柱が邪魔で出来ない)にも関わらず、採られた手法だとのこと。

しかも、ご承知のとおり日本の社寺建築では、柱間を偶数(=柱の数を奇数)にして中央に柱を置く建物は(=人を寄せ付けない形として)さらに異例であり、かの梅原猛(うめはら たけし)著の問題の書『隠された十字架-法隆寺論-』が注目した法隆寺中門とか、出雲大社社殿とか、限られた数しか存在していません。

――― ですが、そんな中でも「三重塔」では、飛鳥様式で三重目を「柱間二間」にしたものが、いくつか現存したり、再建されたりしています。

聖徳太子が建立の法起寺に残る、現存最古の三重塔(706年建立)


二番目に古い三重塔の、當麻寺(たいまでら)東塔(右側/奈良時代後期)と西塔


明治時代の実測図から再建された法輪寺三重塔も同様。


薬師寺の三重塔も、裳階(もこし)を除いた最上層は、柱間二間。

…… という風に、古代の様式を伝える三重塔や法隆寺五重塔は、最上層が柱間二間でそろっていまして、これはある種のトレードマークのようにも私なんぞは感じるのですが、こうした形が、大坂城天守など秀吉の天守に「採用」された節がありそうなのです。!
 
 
 
<法隆寺大工の中井正吉?…が秀吉の天守に「奇数の柱」を持ち込んだか>
 
 

大阪歴史博物館蔵「京大坂祭礼図屏風」に描かれた大坂城天守


(デジタル想定復元「大坂冬の陣図屏風」の場合。制作:凸版印刷株式会社)


個人蔵「洛中洛外図屏風」の伏見城天守は二間×三間?

まさか… どの絵師もがそろって「大きな逓減率」を表現する「描法」として柱間二間を選択していた、などというのは考え過ぎでしょうから、すなおに、実物がそろって柱間二間だったと考えますと、最初の事例は大坂城で、それがずっと踏襲されて行ったのでしょう。

そして前述のごとく宮上茂隆先生は、大坂城天守を建てた棟梁を 法隆寺大工の中井正吉(幕府御大工・中井正清の父)と推定されたものの、これは今日に至るまで、宮上先生以外の先生方は、どなたも、棟梁が「中井正吉」だとの説明はされておりませんで、ちょっと、検討を要する事柄かもしれません。

(宮上茂隆『大坂城 天下一の名城』初版1984年より)

実際に建築にあたる大工は、大和(奈良県)郡山城主の筒井順慶に命じて選ばせました。大和の大工は、奈良の多聞城で多聞櫓や四重櫓をつくり、安土城天主の作事にも加わった実績があったからです。
その結果、法隆寺四大工家の筆頭である 中村 がめしだされましたが、彼は、老齢を理由に、 養子の孫兵衛正吉 を棟梁としてすいせんしました。正吉の実父は大和の名族 巨勢 (こせ)氏で、武士だったのですが、戦死したため、母は実家のある法隆寺村に帰って、中村の後妻となり、正吉を大工として育てたのです。
秀吉は、その話を聞いて、正吉こそ天下の名城を築くにふさわしい大工であると思い、大和武士中井家をつがせて、中井正吉と名のらせ、帯刀して大工頭をつとめるよう命じました。中井正吉のもとで、法隆寺村に住む大工や職人たちが、作事に参加することになったのです。

 
 
!…… と、この解説文は、実は小野清『大坂城誌』明治23年刊も紹介していた『真書太閤記』のくだりに、かなり似たストーリーでありまして、ただし『真書太閤記』の場合は、人物が一世代ずつズレていて、かつ名前もやや異なる、という状態です。

どう異なるかと申せば、めしだされた老齢の「中村」は「多門(おかど)兵助」という法隆寺四大工の一門の老人で、この兵助の長子が「兵太夫 正清」!という大工には惜しき人品骨柄の青年だったのですが、実はこの正清は兵助の実子ではなく、実父は「三輪大明神の神人 巨勢孫兵衛 正義」!という松永弾正久秀と共に戦死した者であり、これを聞いた秀吉がたいへんに気に入り、大坂築城の大棟梁に取り立てて「多門兵太夫を改め中村大隅椽正清となし給ひしなり」と書いてあります。

――― なんだか、実父が「正義」=正吉?である「多門兵太夫正清」という若者が、秀吉に取り立てられて、名を「中村大隅椽正清」に改めつつ、並みいる法隆寺大工をたばねる大棟梁に抜擢(ばってき)された… という話なのですから、色んな話が錯綜(さくそう)しながら 時系列もズレていそうです。

ちなみに、後の幕府御大工・中井正清が生まれたのは永禄8年とありますから、大坂築城開始の天正11年はもう18歳か19歳で、年齢的にはおかしくないものの、その歳で法隆寺大工をたばねる大工頭が勤まるかと言えば、実際はその親世代の者がやらないと大プロジェクトはすんなり進まないでしょう。

それにしても上記の話は、例えば、忍者の「服部半蔵」のケースにも似た、うまいやり方のように感じられてなりません。!

初代は「忍者」や「大工」だが、二代目の本人は 知行を得た武士階級の二人
服部半蔵正成            中井大和守正清

! !  と、こういう連想のもとで、一連の出来事の裏側を妄想してみますと、天守などの大坂城作事の大工頭を実際に務めたのは、正清の親世代にあたる法隆寺大工(番匠)の誰かであったはずでしょうし、政治的に若い正清の方にスポットライトが当たったのも自然な成り行きでしょう。

思うに、作事の取りまとめ役が、すでに実績や実力のある番匠の誰か一人であっては、逆に“角が立った”のかもしれませんし、とりわけ四人大工という横並び感覚でいた法隆寺大工を束(たば)ねるためには、正清のような若い無名の人材が、天下人の豊臣秀吉や徳川家康の絶大な威光(と大量の仕事の発注)によって“業界をまるごと束ねてしまう”というやり方が、最上の策であったのかもしれません。
 
 
そして正清自身は養子(母の連れ子)の可能性が言われますから、そういう政治的な力学であらゆる事が運んだとしますと、私なんぞは思わず、初代にあたる実際の大工頭の者の「心理」に興味がわいて来ます。
 
 
それが宮上先生のいう「正吉」であれば、正吉には正吉の「意地」があったのでしょうし、生粋の法隆寺番匠としての“爪あと”を大坂城に残してみたい、との願望にかられても不思議ではなかったのでしょう。
――― それこそまさに「奇数の柱」であって、思い切って城のいちばん目立つ場所に(→ 天守という注目の新建築のてっぺんに)法隆寺五重塔と同じ「柱間二間」をあえて、押し込んだのではなかったのか、と。…

そしてその後、二代目の大和守正清は、武士として、安土城天主にならった「三間四方」等を選択して行ったのかも?…などと妄想しますと、正吉と正清の、父子の間の微妙な「意地」の張り合いが感じられて、妙に面白い… と思うのですが。

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