いったい何を根拠に『金城温古録』は「江戸城の高台は武用なり」と言い切ったのか。驚きの答え

【 冒頭余談 】
「国債」の塩漬けと、地下宮殿跡
 ――日本人が忘れた石造文化圏の感覚――

(下の写真は、MMT・現代貨幣理論の提唱者S・ケルトン教授が顧問を務めた、社会主義者のバーニー・サンダース議員と、同じく社会主義者でMMT論者として有名なオカシオ=コルテス議員)

…… この二人の急進左派が幅を利かせる、米バイデン民主党政権の「グリーン・ニューディール政策」というのは、温暖化対策などで莫大な公共投資」を行うことで経済を回そうとする政策で、MMTとの関係が切っても切れない―――
 
したがって、自国通貨立ての「国債」とは、発行残高がどれだけ積み上がっても、先進国政府の運営や財政には、何の支障も無い!!… ということを、米バイデン政権が認めているも同然のことと見えてなりません。
 
ところが日本では、積極財政を言う「リフレ派」からも「MMT」は批判される始末のようで、一方のアメリカの、大きな政府をめざす急進左派(リベラル)がMMTに期待を寄せる姿とは、アベコベと言うか、ねじれと言うか(※要は日本の財務省の身勝手な世論誘導のせいで!)非常におかしな構図になっております。

(※追記 / 自国通貨立ての「国債」というのは、言わば利息付き「通貨」交換券であり、国は償還(返済)をする時はその分の札(さつ)を新たに刷って返せばいいだけのことですから、事実上、「国債」は通貨発行の一形態!…に過ぎません。 あとはインフレにならないように、金利や借換債で通貨量をうまくコントロールするだけです。 それなのに、国債を「国の借金」などと言うのは、実に、日本の財務省だけの、財務官僚の下心や助平心が生み出した、異常な表現でしょう)
 
また金融の歴史が深いイギリス政府も、莫大な額に積み上がった「国債」を、永久国債などの形で百年単位で塩漬けしながら財政を運営しているそうで、そういう欧米諸国では当たり前の「国債」感覚を思うと、思わず、私なんぞが連想してしまうのは、現代都市ローマの地下に埋め込まれたまま眠る「古代遺跡」なのです。…

ローマの中心部で発掘された、ローマ帝国以来の街並み


依然として地下に眠ったままの、皇帝ネロの黄金宮殿跡

こんな古代の街並みや宮殿跡が、どうして変化の多い都市の地下で、原形をかなりとどめたまま残ったのか??と言えば、ここが日本人の感覚と大きく異なる点でしょうが、答えは、古い石造りの市街を新しく「更新」したい場合は、全部を土で埋めて平坦地にしてしまった上に新市街を建てるのが、いちばん効率的で、手っ取り早いから、なんだそうです。
 
まさしく石造文化圏の感覚であり、そこが木造文化圏の日本人の感覚と大きく異なる点… と申しましたが、いや、日本人もそうだった(ローマ人らと同じ感覚だった)時期が、ほんの一瞬、あったのかもしれません。

 

徳川幕府による豊臣大坂城の「埋め殺し」と言われた再築工事は、
実際は、石垣造りの城という「石造建造物」を更新する際の、
極めて<<経済的な理由>>によるもの!?だったのかも…


(※渡辺武先生の『図説 再見大阪城』からの引用図)

つまり慶長・元和・寛永初期の築城全盛期は、日本も、感覚的には石造文化圏の仲間入りをしていた――と言えるのでは。
 
その意味では、ご覧の壮大な石垣の積み上げは、その後も徳川幕藩体制を支える「資産」として、二百年以上、ずっと機能し続けた、と言っていいはずです。……
 
ということで、冒頭の日本人の「国債」観についても、MMTの存在を前提に動いているアメリカ等にならって、はやく欧米流の「国債」感覚を国民全体で身につけるべきでしょうし、そのためには<<税収による国債の60年償還ルール、の廃止>>については、もう、待った無し!!の局面でしょう。
(→ 税収の莫大なムダづかい。… )

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【 門と、子(ね)城と、旧?三日月堀との、位置関係。】

さて、今日の本題は、まずは前回の<補足>から申し上げますと、8年前のブログ記事の、谷文晁の『道灌江戸築城の図』の分析とは、あくまでも「墨書の書き込み」を大前提にしたもので、その一方で、前回記事の「画像の類似」というのは、墨書の書き込みをすべて除外した場合のことになります。

(→「富士見櫓」との墨書も除外して、景観のみの類似で。 谷文晁は江戸後期の人ですから、類似には粉本の存在が前提になるでしょう)

そして、ご覧の分析もそうでしたが、前回の「太田道灌時代の江戸城は連郭式でなく、梯郭(ていかく)式なのでは?」との結論も、ともに、三曲輪のうちの最も高い位置の北側を「子(ね)城」と考えたわけですが、実は、こうした考え方は、諸先生方の復元では、なかなかご同意いただけないもののようです。

例えば、明治に刊行の『東京市史稿』以来の、歴代の諸先生方の解釈を、一覧表のごとく羅列いたしますと…

        <<子城>> (中城)  (外城)
『東京市史稿』   南     中     北
伴三千雄先生    西     中     東
前島康彦先生    西     中     東
菊池山哉先生   <北>    西     東
西ヶ谷恭弘先生   南     中     北
鈴木理生先生    西     中     東
小松和博先生    南     北     東
西股総生先生    南     中     北

といった状況でありまして、これを“千差万別”と申しては僭越(せんえつ)でしょうが、先生によってかなりの違いが生じて来たなかでも、『五百年前の東京』の菊池山哉先生だけが、やや違った意味で「子城」を「北」としたのが、かろうじて、当ブログと一致するだけの状態です。

しかし、当時、実際に城を訪問した禅僧らが漢詩で伝えた江戸城は、そろって<<四方の景観ばかり>>が強調されるものであり、ということは、おのずと城の構想や構造(→ 四方の=全方位の見晴らしの良い場所に、静勝軒などの漢詩の披講(歌会)の場はあったはず!…)を物語っていると思えてなりません。

(それは例えば、現存の天守台の上に上がってみた時のような―――)


(※ご覧のイラストはもちろん、「余湖くんのホームページ」様からの引用画像です)

(※同HPの説明文より)

… 子城(ねじょう)はすなわち根城であり、御城(本丸)を示す言葉である。 つまりここが道灌の時代の本丸ということになる。 次いで中城(二ノ丸)、外城(三ノ丸)があって、三重の構造となっていたというからには、台地上を堀で3つの郭に区画した連郭式の縄張であったと考えられる。
天守台の築かれている北側部分がもっとも高さがあるので、北側が道灌時代の本丸であり、南側に向かって子城、中城、外城と配列されていたのではないだろうか。

 
 
このように、おなじみの「余湖さん」が注目すべきイラストを描いておられ、私なんぞは勝手に心強く感じているところですが、余湖さんも、いちばん高い北側を「子城(根城・本丸)」と解釈され、そこに「静勝軒」も描く、という豪気あるイラストになっています。

まさしく「高さ」がカギをにぎっていたと感じるのは、例えば前回も引用の蕭庵竜統の「寄題江戸城静勝軒詩序」は、その書き出しが、
「武州江戸城は、太田左金吾道灌源公の肇(はじ)めて築く所なり。関より以東、公と肩を差(くら)ぶる者鮮(すくな)し、固(まこと)に一世の雄なり。…」
と始まっていて、これは現地を訪れた竜統の詩文だけに、言外に、関東を見晴らす子(ね)城の「高さ」を前提にした表現だったのではないか、と。

すなわち、最も高い子(ね)城からの見晴らしが「関より以東…」の語句を生んだように感じますし、その北面の直下には、舌状台地の尾根を断ち切って造成した急崖や水堀があって、そこがこの城の防御の要であり、あたかも犬山城の(天守直下の)断崖絶壁にも通じる構えだったのでは……と、私なんぞは妄想しているわけです。



(※この写真はサイト「楽天トラベルガイド」様からの引用です)

では、このあたりで今回の「本筋」のお話の方に移りまして、懸案の<望楼としての「天守」を屋根上に上げた「御主殿」が、いつ、どの城で、初めて専用の「台」の上に載せられたか?>を引き続き、検討してまいりましょう。
 
 
 
< いったい何を根拠に『金城温古録』は
 「江戸城の高台は武用なり」と言い切ったのか。驚きの答え >

 
 
 
さてさて、考えてみれば、かなり不思議な事として、どうして尾張徳川家の『金城温古録』だけが、あっさりと「此高台(こうだい)は武用なり」とか「是、天守の起源とも謂ふべし」とまで断言してしまえたのか、との疑問があります。

それは単なる将軍家への御追従(おついしょう)だったのか、いや、そうではなくて、ひょっとすると「徳川一門」にしか判らなかった“秘密の類い?”でもあったのだろうか… と想像力を働かせたとき、突如、スパ―――ンッと、ある考えに至りました。

それはもう、結論めいた<<「超」大胆仮説>>でありまして、皆様にズバリとお示しするために、徳川家康が好んだ「複合連結式」天守の一例でもある、現存の松本城天守を、仮に例に取ってお目にかけますと……










(※この写真は「HA 林建築設計室」様のブログからの引用です。画面右奥の白い山は常念岳)

→ → な、なんと、徳川家康が好んだ「複合連結式」というのは、
<<太田道灌の発案>>を家康が踏襲して、復活させたもの!?―――

これでもう、今回に申し上げたい懸案の回答案(「超」大胆仮説)のすべてを、ご覧いただいたも同然の状態ですが、ここから一つ一つご説明してまいりますと、まずは、太田道灌の江戸城の代名詞と言うべき有名な「静勝軒」等が、どういう詩文で後世に伝えられたのか、該当する箇所を読み下し文で並べてみましょう。
 
 
1.「静勝軒」等の位置関係について

(蕭庵竜統『寄題江戸城静勝軒詩序』)
 其径(みち)を磴(いしぶみ)にし、左に盤(めぐ)り右に紆(まが)り、聿(つい)に其の塁に登る。 公之軒其の中に峙(そばだ)ち、閣其の後へに踞つ(たつ/うずくまる)。 直舎其の側に翼(つばさ)し、戊楼、保障、庫廋、厩廠の属、屋を為すもの若干。

(村庵霊彦『同跋』)
 彼に楼観あれば、此に台榭(だいしゃ/台榭建築=高台式の建物)あり。 特に一軒を置いて、扁して静勝の軒という。 是を其の甲と為すなり。 亭を泊船と曰ふ。 斎を含雪と曰ふ。 各ゝ其の附庸(ふよう/付属)なり。
 
 
2.個々の建物(又は部屋?)について

(蕭庵竜統『寄題江戸城静勝軒詩序』)
 軒の南を静勝と名づけ、東を泊船と名づけ、西を含雪と名づく、公の息う(いこう/休息する)て斯に遊ぶときは、…

(万里集九『静勝軒銘詩並序』)
 城営の中に燕室(えんしつ/休息室)あり。 静勝と曰ふ。 西を含雪となす。 重々の窓欞(そうれん/窓格子)を透貫して、戸に巧みに径三二尺の円竅(えんきょう)を鑿(うが)つ。 円竅の中、千万仭(じん/高さの単位)の富士を望む。

(湘山得玄『江亭記』)
 城上に閒燕の室を置き、扁して静勝と曰う。 静勝とは蓋し(けだし/思うに)兵家の機密か。 其の西の簷(えん/ひさし)に当りては富士峯の雪あり。 天芙蓉を削りて以て玉立すること三万余丈。 その窓を含雪と曰うなり。
 
 
と、主なところを挙げましたが、各々の建物(又は部屋?)は、南に静勝軒、東に泊船亭、西に含雪斎、という「配置だけ」が共通項として確認できる程度であり、これらを踏まえて、今日に至るまで、古建築学を含めた諸先生方が、寝殿造り等の平屋の御殿なのか、それとも二階建て等の楼閣建築なのか、と議論を闘わせて来られたものの…

――― と、ご覧のように考え直せば、あっさりと、上記の詩文はいちいち「合致」してしまうのではないでしょうか。


閣其の後へに踞つ(うずくまる)
彼に楼観あれば、此に台榭あり
重々の窓欞(窓格子)を透貫して
直舎其の側に翼(つばさ)し
各ゝ其の附庸(付属)なり

そして「含雪斎」の「円竅」は、姫路城の小天守等にも踏襲され続けていた…

と分かるわけですから、これは天守の解明におけるブレークスルーのひとつとして、太田道灌が発案の<南に静勝軒、東に泊船亭、西に含雪斎>を、徳川家康が「複合連結式」天守として自らの城に復活させ、その姿が幕藩体制下の諸国の天守にもずっと影響を与え続けていた……という遠大なストーリーが浮上するのではないでしょうか。

太田道灌(1432-1486)と、徳川家康(1543-1616)

 
 
< もしそうであれば、天守が誕生した「瞬間」というのは、
  徳川一門にしか、本当の事情は分からなかった事柄…なのか? >

 
 
 
こうなると、前回記事のとおり、わざわざ「御改築」と書いた『金城温古録』のすごみが分かろうというものですが、ここで念のため、再び「位置関係」の方を確認してみますと、

と考えるのが自然でしょうし、したがって「静勝軒」の立地はほとんど(ちょうど?)家康の「慶長度天守」と同じ位置、という結論になりそうで、すると懸案の、
<望楼としての「天守」を屋根上に上げた「御主殿」が、いつ、どの城で、初めて専用の「台」の上に載せられたのか>
もまさしく、この場所であった可能性を言わざるをえません。

しかも、こういう破格の事情が歴史の陰に隠れていたとなれば、天守が誕生した「瞬間」というのは、実に、徳川一門にしか真相の分からない事柄だった……となりましょうし、それに関して『金城温古録』はポロッと尻尾を見せてしまったのか、確信犯的に暴露したのか、どうとでも読めるあたりが憎(にく)い印象です。

(さらに次回へ)
 

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