【 笑ってる。ただの、役立たずが 】
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【 江戸関連の前置き余談 /
こればかりは「石器に聞いてください」! ! …】
突然に、こんな事を申し上げて恐縮ですが、かの武田邦彦先生の
動画に触発されて、周辺情報を当たってみたところ……
世界四大(六大)文明のはるか以前の
旧石器時代、日本列島は、世界最大の
<<石器(黒曜石)文明の地>>であった、
としか考えられない発掘成果の数々があります。
日本列島に広がる旧石器時代の遺跡の数は
総計1万4500箇所を超えていて、これは
世界でも断トツの「数」と「密度」です。
日本旧石器学界「旧石器時代・縄文時代草創期の全遺跡/文化層」の引用
【遺跡の一例】千葉県の墨古沢遺跡(3万4000年前)の環状ブロック群
(※ご覧の写真は酒々井町HPからの引用です。 石器の分布が円形に集中した
「環状ブロック群」は南北70m×東西60m、 出土した石器は1万点弱)
ここもそうですが、ひたすら大量の「石器」ばかりが出土します。 住んでいた人々の遺骨とか、衣服とかは(奇跡的な例の他は)まるで出て来ません。
その理由は火山国ニッポンの宿命として、写真の関東ローム層など、火山灰が堆積した「酸性の土壌」が日本列島(の九州以北)をおおっていて、そこに温暖湿潤な気候が加わることで、旧石器時代の人骨などはすっかり土中で分解されて ! ! しまったから、だそうです。
――― だからこそ「石器に聞いてもらう」しか、我が国に実在した“先行古代文明”を知る手立ては、無いわけです。…
当ブログが上記地図に加筆させていただいた図
という中でも、とりわけ「関東」は、世界中のどの地域に比べても2ケタも多い圧倒的な遺跡数をかかえていて、しかも黒曜石の産地・神津島との往復の航海術!の存在が確実なため、少なくとも3万5000年前には、
<「関東」は世界の最先端、かつ地球上で最も隆盛した地域 >
であったはず、と断言できましょう。
それは、200万年も前のアウストラロピテクス等々の話は別として、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンヌ)が最初に現れたのが20万年前で、その彼らがアフリカを出たのが5万年前であり、代表的なクロマニョン人となってヨーロッパに現れたのが4万年前と判明している中で!……のことです。
人類史上の「関東」の特筆すべき立場が、もっと注目されるべきでしょう。
Kantō region of Japan
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というわけで、当ブログも「江戸」の話題が続いておりますが、前回記事のごとく、天守誕生の地が「江戸」や「関東」だ、という突拍子もない考えは、城郭の分野では“異端視”されそうなものの、今回もさらに猛進してまいります。
< 思わず慶長度天守の再々論へ。
静勝軒の「継承」としての、下三重が同大の形状を考えてみる >
(前回ブログより)
……… なんと、徳川家康が好んだ「複合連結式」天守とは、
<<太田道灌の発案>>を家康が踏襲して、復活させたもの!?
――― こんな超大胆仮説を申し上げた手前、ブログの勢いとしては、本来なら今回あたりで「太田道灌の静勝軒」について、何らかの「ビジュアル」で追い討ちをかけるのが定石(じょうせき)でしょうが、なかなか思い切れずにいたところ、ようやくイラスト化への手がかり(引っ掛かり)を得まして、早速、制作の方に取り掛かっております。
ただし、出だしが遅れたために、完成の時期はかなり後になりそうですので、今回はもともと予定していた……と言うか、これもまた、ここ半年程のブログ内容から、早く方向性を整理すべきテーマとして、徳川家康時代の江戸城・慶長度天守の「再々論」をさせていただこうかと思うのです。
と申しますのは…
日光東照宮蔵『東照社縁起絵巻』より
ご承知のとおり当サイトでは、ご覧の『東照社縁起絵巻』の巻第二に描かれた絵は、通説どおりの駿府城天守ではなくて!…あろうことか、これこそ、江戸城の慶長度天守を描いたもの、と申し上げて来ています。
(※同リポートより / 慶長度天守は層塔型の四重天守か )
(※その後のブログでの修正案 / 彩色もいくらか正確に )
しかし当の『東照社縁起絵巻』には、天守の中層階に「高欄廻り縁」が。
これは安土城・北ノ庄城・駿府城・水戸城と共通した、
三重目の「縁」であり、場合によっては、
建物の下三重が同大の構造であった可能性も??
という風に、ここ半年程の間に、天守三重目の「縁」は「殿主+天守」の原点に由来した構造かもしれない、と申し上げておりますし、それでもなお『東照社縁起絵巻』が慶長度天守だとしますと、年度リポートで『愚子見記』に基づいて「慶長度天守は各重がきちんと逓減(ていげん)した層塔型のはず」とした説明とは、完全に、バッティングした状態にある……と言わざるをえません。
すなわち『東照社縁起絵巻』の絵を、通説どおりに駿府城天守と解せば、そういう問題は無くなるわけですが、やはりこれこそが「江戸城の慶長度天守であろう」と主張する当サイトとしましては、実は、自己矛盾の重大なピンチにおちいっているわけであり、一刻も早い問題の「整理」が急務なのです。 ――――
(※ここで念のために『愚子見記』の注目の記述を、コピペしておきますと、
一 江戸御殿守 七尺間 十八間 十六間 物見 七間五尺 五間五尺
高石ヨリ棟迄廿二間半 是権現様御好也
一 尾張御殿守 七尺間 十七間 十五間 物見 八間 六間
下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故物見大キ也
注目の最後の行「下重、側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故、物見大キ也」とは、要するに、江戸城天守の初重が尾張御天守=名古屋城天守よりも大きいのに、最上重(「物見」)は逆に小さくなっていることの理由として、江戸城天守は名古屋城と違って、各重がきちんと逓減(ていげん)する、いっそう整然とした層塔型の天守だからである、との事情を説明した部分と言われます)
< 大和郡山城→二条城の天守「移築」の際に、徳川家康がやって見せた、
一切の改築をせずに、そのまま移築した、天守「継承」行為に注目。
静勝軒の「継承」としての、下三重が同大の形をシミュレーション >
大和郡山城天守 二条城(慶長度)天守
ここで私が是が非でも注目したいのは、ご覧のケースでありまして、家康という人物には一貫して、こういう発想が備わっていたのだと(※前回の超大胆仮説→家康が好んだ「複合連結式」天守とは、太田道灌の「発案」を家康自身が踏襲して復活させたもの、とするなら)なおさら強く感じざるをえません。
そして静勝軒とは、「主殿」の屋根上に「天守」望楼を上げた建築=結果的に楼閣建築の一種と想定しているわけですが、その実像と言えば、当時の家康にとっても(前回記事のとおり)漢詩の詩文を通じてしか知りえなかったはずのものであり、家康がそれを慶長度天守において「継承したい」と願った場合、参考になるのは、やはり金閣や銀閣しか無かったのではないでしょうか。
(※※ちなみに、家康が江戸城を引き継いだ時=すなわち後北条氏時代に静勝軒はどうなっていたのか?と申せば、大永4年に入城した北条氏綱に対して、芳林院の弧月和尚が、かつて静勝軒にあった漢詩の詩板を持ってきて講釈した、との話があるそうですから、建物はすでに失われて、「跡地」の伝承だけが残っていたのかもしれません。 ただ、それでも「西の含雪斎」だけは、城櫓に流用されて、残っていたのではないのか……と私なんぞは妄想しております)
宮上茂隆先生による天文6年以前の「金閣」復元図
(『週刊朝日百科 通巻558号』1986年刊からの引用)
で、「金閣」と申せば、ご覧の宮上先生の復元図においても、下の二階分が同大で建ち上がる構造になっておりますし、その後の改築を経ても「同大」の手法は変わることなく、1950年(昭和25年)の放火による焼失まで、二階部分はご覧の「黒い壁面」であり続けたことも判っています。
ならばご覧の最下層の黒い壁面も、「継承」の一環であった可能性が?…
――― ということで、いよいよ、家康の慶長度天守について<下三重が同大の形状であった場合>をシミュレーションしてみましょう。
!……… これを【A案】とすると、これでは『愚子見記』とのバッティングがいっそう深まってしまった!!ようで、各重がきちんと逓減(ていげん)する整然とした層塔型天守…とは、思いっきり、遠ざかった結果です。
そこで【B案】をご覧いただきたいのですが、それは「三重目の縁」が駿府城天守の記録と同じく、側柱が半間ずつ内側に逓減(ていげん)しつつ、その周囲に幅半間の縁がめぐっていた、という形であれば、かなり印象が変わる可能性もありましょうし…
それに加えて、大型の張り出し出窓によって「中3階」が設けられていたとすれば、さらに印象が変わる可能性もありそうで、それらを加味したシミュレーションを再びご覧いただきますと…
【B案】一見したところ、
逓減(ていげん)する五重天守のようにも見えた?のなら、
『愚子見記』の記述とは矛盾(むじゅん)は
しないことになりそうで―――。
名古屋城天守の方は「下重、側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故、物見大キ也」と。
(さらに次回へ続く → C案 )
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