【妄想全開】石垣山城のある箱根周辺と言えば……神話の葦原中つ国とは関東平野の先行古代文明のことで、高天ヶ原は「古富士火山」の記憶??

( 前回ブログより /「古地図に見られる伏見城天守閣/若林春和堂所蔵」)

前回記事のラストでご覧いただいたこの絵図は、姿形がナゾのままの石垣山城の「移築専用天守」が、最終的に伏見城に移築された様子を描いたもの……とする当ブログの手前勝手な仮説にのっとりまして、是が非でも、これを天守画イラストにしてみたいと思い立ち、準備に取り掛かったところです。

ですが、石垣山城のある「箱根・小田原」周辺と申せば――――

まずは今回に申し上げたい<話の要点>を、一目でご理解いただくために、サイト「【空からの富嶽百景】~遠望~ 飛行機中からの富士山の絶景画像 | Zkeigallery」様からの、貴重な空撮の写真(OKJ-HND 左側 千葉県上空から op.9152)を引用させて頂き、その画像を独自に加工してみますと……

千葉県上空から富士山方面を眺めた写真 )

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これの3万8000年前~1万7000年前の風景は……

( 関東平野には、おびただしい数の住居群=旧石器時代遺跡が分布し、
その西の彼方には「古富士火山」がそびえていた )



( ご参考 / 富士山の内部構造の模式断面図 / 地質学者・津屋弘逵の学説に基づいてリライト )


( ご参考2 / この時代の東京湾や相模湾は陸地になっていた / 画像はひろしまWEB博物館より )


( ご参考3昨年4月の当ブログ記事より )
日本旧石器学界「日本列島の旧石器時代遺跡」表に基づいて、当ブログが加筆した日本地図

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少なくとも3万5000年前には、関東平野は世界でも断トツの人口密度であり、地球上で最も繫栄していた地域、と言わざるをえない発掘成果が出ていて、それは世界四大(六大)文明のはるか以前の「先行古代文明」と言うべき存在であろう…


(※ご覧の日本地図は、その後の「縄文海進」=むしろ現在よりも日本列島が狭くなった時代を乗り越えた、
現状の日本地図を大前提として、その上に旧石器時代遺跡の位置を表示した地図であることにご注意。)

――― といった「余談」をちょうど1年前にさせて頂いた関係もあり、ここから石垣山城の天守画イラストを作成していく上では、どうにもこの件が頭から離れませんので、この際、恐れながら【妄想全開の番外編】として、この話を一度、差しはさませて頂きたいと思うのです。…………
 

【 古代の関東平野のイメージ? 】葦原が広がる小櫃川河口干潟(千葉県木更津市)

(※ご覧の写真は、サイト「ウシ子とウシ夫の牛歩旅」様からの引用画像です)

【 したがって欧州のクロマニョン人らとは違って、
関東平野などの日本列島では、魚介類が主食だった可能性も 】



( 産経フォト「世界最古の釣り針出土 2万3千年前、巻き貝製」

葦船協会様による3万年前の葦舟の再現プロジェクトからの引用写真 )


( 太平洋上の神津島で黒曜石を採集して、本州の集落にもどる様子をイラストに描いた書籍 )

―――― で、これだけの旧石器時代の日本列島に関する<<科学的知見>>が判明して来ているにも関わらず、何故か、これを積極的に取り上げる論調が、報道ベースはおろか、当の学会の方からも力強くアピールされて来ていない、という状況が、全く不思議でなりません。

おそらく、日本旧石器学会としては、かつての「神の手」事件の記憶が世間的になかなか消えないために、まだまだ積極的に出られない、という事情はあるのかもしれませんが、それにしても、ここまでの停滞ぶりは、我が国の国益を害する、と申し上げてもいいレベルのように感じます。
 
 
そうした中で、冒頭から申し上げた旧石器時代の「関東平野」と「古富士火山」との取り合わせは、まるで日本神話の葦原中つ国(あしはら なかつくに)と高天ヶ原(たかまがはら)との関係のようであり、そんな連想は決して不自然な感覚ではないと思うのです。

――― しかし、そんな連想を阻(はば)む最大の原因と申せば、取りも直さず、古事記や日本書紀にある「日本神話」は、何故か、富士山について一言も触れてない!……という指摘にあるのでしょう。
 
 
 
< 近年、古事記や日本書紀の原典か?とウワサの『ホツマツタヱ』は、
  縄文から古墳時代まで約一千年の神々や天皇の歴史をうたっていて、
  富士山こそアマテルカミ(天照大神)生誕の地、としてある不思議。>

 
 

産経WESTの記事
日本最古?の神話「ホツマツタヱ」とは…古事記、日本書紀より古い?学界は疑問視も愛好家の研究盛ん からの引用写真



近年は『ホツマツタヱ』関連の書籍発行も数多い。



【 ご参考 】 ホツマツタヱが使うオシテ文字の「いろは」=「アワ歌」
オシテ文字の48字を、五七調の長歌で、アで始まりワで終わる形にして並べたもの。
書体は江戸中期の和仁估安聡の漢訳本より

さてさて、ここで突然ながら、専門家の間では「偽書」との扱いがいまだに根強いものの、古事記や日本書紀で一般の方々が感じる疑問点について、ことごとく“解答”を与えてくれる、という驚きの歴史書として『ホツマツタヱ』があり、歴史ファンの関心を集めています。

当ブログは『ホツマツタヱ』の真偽について何か言う能力も資格もございませんが、『ホツマツタヱ』がオシテ文字でうたった古代の歴史では、富士山が重要な出来事の舞台として度々登場していて、しかし結局のところは(→ 実際には?古富士火山の活発化や新富士火山の誕生といった旧石器時代末期から縄文初期の環境の激変のために?)アマテルカミは伊勢に遷座した、となっている点が、たいへん気になって仕方がないのです。

例えば、『ホツマツタヱ』天の巻の4アヤ(=アマテルカミの誕生と即位のアヤ)には、アマテルカミを産むイサナミの父親「トヨケ(豊受)」神にまつわる話もあり、ある時、トヨケ神は、いまや神の子孫たちはずいぶんと増えたものの、その中にアメナルミチ(天成道)で人々の嘆きを解決できる者は、一人もいないのかも……と不安になってこんな行動を起こした、というくだりがあって、驚いてしまうのです。

はらみやま のほりてみれと
やしまなる よろますたみも
うぐめきて みちならえぬも
ことわりと やはりなげきて
ひたかみの みやにかえれば


(文意 / 翻訳の参照サイト:「ホツマツタエの解読を楽しむ」様の現代語訳をもとに

トヨケ神は、ハラミ山(富士山)に登って国々を見渡してみると、ヤシマ(八洲…日本列島)の民は、人口増加でうごめいて身動きが取れなくなっているのがわかりました。 トヨケ神は、これではアメナルミチ(天成道)を学べないのも道理であると、再び嘆いて、ヒタカミ(日高見)の宮に帰られました。………

 
 
< かくして、旧石器時代の関東平野に「葦原中つ国」の原像を見るのは、
  そこに、我が国が、朝廷と武家政権という二つの中心を持ちながら
  歩んで来られた「遠因」をかぎ取る、一城郭ファンの思いから。>

 
 

旧石器時代の住居群墨古沢遺跡/千葉県酒々井町)の紹介ページより


同上


同じく群馬県立歴史博物館キッズコーナーのページより

ご覧のとおり関東各地の発掘調査では、一か所で石器が1万点以上も出土する「環状ブロック群」が多数、見つかっていて、それらはテント状の住居が環状に(大きいものは直径60m~70mの縁辺部分に住居がぐるりと輪になって)立ち並んだ村であった、と考えられています。

これらを見て、私なんぞは思わず、ここにはすでに、<<和>>が存在していたように感じられてなりません。

ここに我が国の、関東の、武家社会の「萌芽」を感じ取ってしまうのは、いくら何でも、私の思い過ごし………に過ぎないのでしょうか。
 
 
 
【 追記 】 上記の引用イラストの「住居」について若干のギモン…。
上記イラストは、あたかもアメリカ先住民のティピー(tepee)のような簡単な造りのテントとして描かれましたが、ティピーというのは、狩猟民族が「移動」しながら使うテントであり、地面に強くは固定されません。
しかし我が国(関東平野)の環状ブロック群の場合、石器が1万点以上も廃棄されるほどの長期間、そこに「何世代」も「定住」したわけでしょうから、食料の主体が魚介類だった可能性も含めて考えますと、住居はもう少し強固な造りだったはず、と思われてなりません。

【 我田引水イメージ 】
私が想像する彼らの食事。 そして、使えなくなった黒曜石ナイフは、おそらくは
「供養」のために、次々と敷地内に埋めていったのでしょう。… 文明ですよね。

 

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